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再会  作者: 西沢恩
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前編

午前6時。デジタルの目覚まし時計の無機質なアラームが鳴る。手探りでそいつを探り当て、ピッ、目覚ましを止める。気だるいだるさと格闘しながら、ゆっくりと身体を起こす。3月になり、春も近いとはいえまだ寒いこの時間帯の陽光が窓から白く差し込んでいるのを、少し恨めし気に一瞥する。

今日も仕事だ。

のそっと、ベッドから滑り落ちると、そのまま洗面台に向かう。寝ぼけまなこのまま、無様に所々はねた髪のまま。それはもう、だらしなく。

男の一人暮らしにしては清潔な洗面台だったが、メンズ用の洗顔料やかみそり、シェービングフォームが並んでいる辺りにその雰囲気を感じさせている。上下式の新しい形の蛇口を動かして、水を出した。まだ冷たい水は寝ぼけまなこには強烈な電気刺激となって体中を駆け巡る。

そのまま手で水をためて、顔を一気に濡らす。二度ほど顔に水をかけて濡らし、洗顔料を泡立てて、塗りたくるように顔につけて、また水を手に溜めて、一気にすすいだ。

「ふぅ…」

顔についた水滴をぬぐい、髪を梳かし、ワックスで髪のボリュームを落としながら、そのまま髪の流れに沿った、いつもの髪型に固めた。それからシェービングフォームをあごに塗りたくり、かみそりで一気にそり上げていった。髭剃りはシェーバーを使うという奴も多いけど、どうにも剃り残しが気になるんだよな。かみそりで剃ったほうがきれいに仕上がる。よし、今日もいい感じだ。とはいえ、昨日から6時間弱ほどしか眠っていない。睡眠不足傾向の身体は幾分まだ気だるかった。

「まぁ、今日終わったら寝られるしな…」

ポツリと呟かれたその言葉に答えるものは、誰もいなかった。

くたびれたワイシャツに袖を通し、グレーのスラックスに足を通し、ベルトを締めた。鏡を見ながらネクタイを締め、その上からグレーのベストを身につけた。オーブントースターで食パンを焼き、インスタントコーヒーをマグカップに適量入れ、お湯を沸かし、テレビのチャンネルをNHKに合わせれば、いつもの淡々とした口調で流される、冴えない不祥事関係のニュース。連日のように流される単調なニュースにいい加減耳にたこができてしまった。

焼きあがったトーストにバターとジャムを塗り、インスタントのコーヒーを啜る。NHKも相まって、何だか味気ないいつもの朝だった。NHKで報じられいたのは今やもう珍しくなくなった、親を殺した子どもの補導事件、子どもを殺した、虐待した親の逮捕など、本来ならありえなかったような事件が珍しく感じられなくなった。麻痺したのだろうか。それとも、最初からそんな感覚がなかったのだろうか。

俺、親の記憶なんて、まるでないんだよ、な…。

そんなニュースに相まってか、そういえばそうだったよな、というような、当たり前の感覚で、ふと思い当たった。軽度の物思いに耽りながらの朝食を取り終えた。さぁ、仕事、仕事。テレビを消し、歯を磨くと、スーツの上着とコートを羽織り、マフラーを首に巻いて、バッグを手に取り、財布と携帯電話が入っているのを確かめ、玄関へと向かった。

行く先はかわり映えのない、住宅街と満員電車、そして、大阪のオフィス街。

俺が勤めるIT会社は近年急成長株の会社で、海外とも取引をしている。俺は27の時に東京本社から大阪本社に異動となったため、まだ関西弁には馴染まない。会社の業績はなかなかの好調ぶりらしいが、俺のテンションとは対照的だった。

「遠藤さん、10時半からの会議、出席お願いします」と、若い女の子が関西独特のイントネーションで声をかけていった。

「わかってるよ」と、軽く返しておいた。パソコンのデスクに向かってプレゼンテーションのための最終確認に入る。最初に挨拶のためのスライドが来て、それから今回のプレゼンは電車なんかでよく見るICカード読み取り機システム改良のためのプレゼンテーション。以前のシステムではICカードを読み取るのに約10秒から15秒ほどかかっていたが、今回はそれを5秒に短縮するシステムをわが社は開発して、云々…。

よし、こんなもんだろう。

俺は、デスクから立ち上がると、15階にある会議室でパソコンのセッティングを初めとした最終調整に入った。プレゼン用デスクに繋がれた配線にパソコンを繋ぎ、プロジェクターの電源を入れる。プロジェクターのレンズに青い光が入ったのを確かめてから、スクリーンに映像を映し出す。5分ほどしてから部長を初めとする上司の面々と顧客の営業担当者が次々にやってきては、それぞれの席についていく。俺はスライドを最初に戻して、スクリーンに映ったぼやけた光の映像を見つめた。

「さて、みんな揃ったことだし、始めるとするか」俺の上司、高津の一言で会議は始められた。

俺はスライドを見ながら、いつもの調子で淡々と、プレゼンテーションを展開した。導入部で商品の説明を開始してから、顧客から次々に野次とも言えるような質問が飛んでくる。俺はそれらに対処しているうちに、自分でも何を話しているのか、よくわからなくなった。案の定高津が渋い顔でため息をついている。俺は一呼吸置いて、もう一度顧客の面々に視線を向けながら、話を何とか立て直し、プレゼンをまとめた。

「アフターサービスとかはどのようになっているのですか?」

「万一不都合などがございましたら、スライドに移しているこちらの担当事務局までご連絡ください」

高級そうな紺色のスーツに身を包んだバリバリのキャリアウーマン系の女性がスライドの番号をメモしていく。きちりと結い上げた髪形と身なり、そして仕事さばきから何となく威圧感がある。

「わかりました。では、このシステムのお値段ですけど、少し高くありません?この値段ならまた別の会社では3分の2ほどの値段で同性能のものを作れそうにも伺えますが?」

無茶なことばかり言ってくるな、このオバサン。俺はオバサンに悟られないよう注意を払いながら、軽くため息をついて、営業スマイルで他の会社にはない読み込みと処理速度の速さをアピールした。それでもこのオバサンを中心に野次は飛んでくる。こうして会議は延々と12時半まで続いたが、商談は上手くいかなかった。何か生産性があるわけでもない、脈絡のない会議が延々と続いた。その後、案の定高津に骨の髄まで絞られた。言いたいことだけ言い放って、自分はずけずけとその場を後にする。最近よく言う「部下をうつにする上司」の典型だ。それでいながら、うだつの上がらない自分がひどく惨めだ。

俺、何してるんだ?

こういった会議のたびにいつも思ってしまう。どうかしてるよ、な。と、いつも言い聞かせてはいるのだが。

こんな代わり映えのない生活が延々と続くのだ、と、諦めたように言い聞かせていた。そう、いつものように。俺はそう言い聞かせながらパソコンを片付け、デスクに戻る準備を整えていた。


午後の取引先巡りと業務報告を終えた俺は退社しようと、会社の自動ドアをくぐった。ふと、会社のビルの前に、あのキャリアウーマン系の女性が立っていた。誰かと待ち合わせでもしているのだろうか。俺は指して気に留める様子も見せずに、地下鉄の改札に向かおうとしたら、

「あの、そこのあなた?」

「えっ!?」

突然、声をかけられた。

「昼間のプレゼン、なかなかよく頑張ってたじゃないの」

「あ、はぁ、どうも」

俺は頭を掻きながら、それとなく会釈を繰り返す。

「…この後、ちょっといいかしら?」

随分と突然なお誘いだ。俺相手に緊張でもしているのか、どこかおどおどしていて、昼間のバリバリのキャリアウーマン風の女性と同一人物とはとても思えない。しかし、メイクを変えたのか、昼間のきりっとした印象とは打って変わってのナチュラルメイクで、雰囲気は柔らかく、ふくよかな唇が誘っているかのように艶かしい。まるで深夜のスナックかバーのママのようだ。俺は思わず、彼女に見入ってしまった。

「あの、何か?」

「あ、いえ。この後でしたっけ?べ、別にいいっスよ」

思わず漏れた軽い口で俺はこのキャリアウーマンの誘いに乗った。

「タクシー代は私が出すわ」

と、夜の大阪をタクシーで駆け抜けた。梅田・大阪駅の大きな蛍光灯の群れが陽炎のように繋がり、視界から外れていった。ビルディングのネオンや蛍光灯の明かりが次々に目に焼きついては、視界から消えていく。まるでネオンによる絵巻を見ているようだ。

「ねぇ、仕事はどんな感じ?プレゼンやっていたってことは、それなりに評価されてるってことでしょ?」

「あ、まぁ…あれじゃダメでした、よね」

「そんなことないわ」

梅田から少し外れた一角にある、イタリアンレストランだった。

「ここのレストランでいいですか?俺、よく来るんですが…すみません。もっとお似合いの店とかあったんでしょうけど、予算が…」

「いいのよ、気にしないで」

カラン、と、レストランのアンティーク調のドアを開け、中に入る。

「いらっしゃいませ。あら遠藤さん、今日はお2人ですか?」

「あぁ」

「じゃぁ、あちらの席へどうぞ」

すっかり顔なじみとなったウェイトレスに、窓際一番左隅の席を案内された。ほぼ同時のタイミングで2人、腰を下ろす。こうして改めて見ると、目じりにはうっすらファンデーションの下にしわが見られるが、メイクも薄めで感じはよい。しかもどこか、懐かしいような、安心させられるような、そんな気さえしてしまう。初めて会うはずなのに、不思議なものだ。

「何にしようかしら?」

「好きに決めてくださっていいですよ」

「そうねぇ…」

メニューを眺める彼女の瞳が左に、右に、と、動き回る。俺は自分のオーダーをなににするかも忘れて、その瞳の動きに不思議と魅入られる。なんだろう、この安心感。世の中いろんな奴がいるものだ。

「じゃぁ、私はこのパスタセットにするわ。ソースはミートソースで」

「そうですか。じゃあ、僕は同じセットの鮭のクリームソースで」

俺はグラスに入った水を運んできた、馴染みのウェイトレスにオーダーを取った。彼女はすぐに厨房へと引っ込んでいった。

「ここへはよく来るの?」

「えぇ、昼食ではランチで結構厄介になってて、ね…」

「そうなの」

「ここのパスタ、結構上手いんで、社では評判なんですよ」

テーブルに置かれたグラスの氷がカラン、と、透明な音を鳴らした。彼女もまたテーブルのグラスに視線を下ろした。俺は窓から見えるどぶのような新淀川を一瞥した。川沿いに建った高速道路の明かりがぽつぽつと均等な感覚で光っている。いつもは誘いを受けた時は一緒に食べに行ったりすることもあったが、一人で来ることのほうが割合多かった。

「ねぇ、聞いていいかしら?」

「何ですか?」

「会社ではどのぐらいやっているのとか、大阪での暮らしとかは?私は東京暮らしが長いから、大阪のこととかは全然わからなくて」

「どんな感じといわれてもなぁ…まぁ、今の会社では22で入社したからもう7年ですね。高津って言う僕の上司がまた手厳しい方で、よく絞られていますよ。それでも大阪での暮らしは悪くないですね。何って言うか、いい人も結構多いし」

「そう、それなりに上手くやっているのね」

「あなたには到底及びませんよ。爪の垢を煎じて飲ませていただきたいくらいで…ホント」俺は苦笑いしながら一気に喋りきると、グラスの水を呷るように半分ほど飲んだ。彼女は俺の顔をまじまじと見つめている。あぁ、もう!そんな風に見つめられたら、俺はどうすればいいんだよ!緊張と舞い上がりそうな興奮とが入り混じって、俺は平静を保つのが精一杯だった。

「あ、あの、もしよろしければ、お名前とかよろしいですか?俺は遠藤、遠藤翔太。新和ソリューションズの営業部所属です」

「あ、ありがとう」

俺が差し出した名刺を両手で受け取る辺り、さすがマナーもしっかりしている。俺の部下や後輩ではよく片手で受け取る奴も珍しくないのだが。

「私のほうも、一応渡しておくわね」

俺は名刺を受け取った。

「坂口千鶴子…さん?」

千鶴子さんはこくり、と頷いた。よく見ると何か言いたそうに口をふるふると震わせていたが、俺は特に気に留めなかった。

「あぁ、そう、ですか…」

俺は財布に名刺をしまった。グラスの氷がカラン、と、音を立てて溶けた。

「お待たせいたしました。ミートソースパスタセットです。」と千鶴子さんの目の前にミートソーススパゲッティとシーザーサラダ、そしてスープが並べられていく。程なくして俺の前にも鮭のクリームソースパスタとシーザーサラダ、そしてスープが並べられていく。

「食後にコーヒーか紅茶、サービスとなっております。どういたしますか?」

「あ、俺はコーヒーで」

「では、私もコーヒーで」

「承知いたしました。お持ちいただきたいときにまたお知らせください」

ウェイトレスはそれだけ言い残して下がっていった。いただきます、と、小さく呟いてから、千鶴子さんはフォークにミートソーススパゲッティをきれいに絡めて口に運んだ。本当にマナーの洗練された人だ。まるでテーブルマナーの手本を見ているようだ。

「あら、おいしいわね」

「そうでしょう。社の女の子に教えてもらったのがきっかけで、僕もここでよく…」と、俺も鮭のクリームソースパスタを口に運ぶが巻きが甘かったのか、口に収まりきらず、軽く吸い込んだら、千鶴子さんがくすっと表情を崩した。

「なんっスか?」

「あなたったらだらしないわね。口の周りにソースがついてるわよ」

彼女はテーブルの上にある紙ナプキンで俺の口周りを拭いていく。口周りを拭く手から香水とは違う、なんとも甘い匂いがした。その香りに我を忘れ、俺はされるがままになっていた。彼女に口周りを拭いてもらっている間だけ、いつも目まぐるしく過ぎていく時間がスローモーションになる。

「はい、いいわよ」

「あ、ど、どうも」

急に現実に引き戻された俺は、なんと表現していいのかわからない心境だった。夢から覚めた後とでも言えばいいだろうか。あぁ、まさにそんな後だ。夢心地だ。年上の女性に現を抜かすとは、俺の人生初めてのことだった。

その日食べた鮭のクリームソースパスタは、初めての味だった。上目遣いに千鶴子さんを見れば、やっぱりテーブルマナーの手本を見ているかのようにきれいにフォークを口に運んでいる。俺は、彼女のことが気になって、何から尋ねて良いのかわからなかった。軽く深呼吸して、真っ先に頭に浮かんできたものをなんとか言葉にする。

「こちらにはどのぐらいおられるんですか?」

「そうね、1週間くらいかしら?」

「そうですか…」

千鶴子さんは少し訝しげに小首をかしげる。俺は急に緊張と興奮とが一度に押し寄せ、頭がパニックになる。小刻みに首を振りながら下を向き、パスタを口に押し込んだ。千鶴子さんは落ち着き払っていて、俺一人慌てているのがバカみたいだ。しかも、完全に脳のたがが外れたのか、唐突なことを言ってしまう。

「あの、突然ですけど、よろしければ…携帯電話とメール番号を…」

「いいわよ、赤外線使える?」

「あ、はい」

唐突なお願いにもかかわらず、さらりとフォローする彼女に俺は心の中で感謝した。俺達は互いの携帯電話の番号とメールアドレスを交換した。社会人ともなればこれが一つの社交辞令だった。特にプライベートにおいては。食後のコーヒーまで、俺達は他愛のない会話を続けた。

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