ロイドの選択
「……」
いよいよ諦めたのか。
手枷に繋がれたリンカは、素直に回廊を歩いていた。
手枷の鎖を握っているのが、ロイドだと分かれば多少は安心してくれるだろうか。
しかし彼もまた侵入者である。
正体が知られてしまえば、リンカを助け出すどころではなくなってしまう。
ロイドは今のリンカの姿に心を痛めつつも、怪しまれないようにキンバライトの衛兵を装って、鎖を引き続けていたのだった。
回廊を抜け、いくつもの階段を昇り、やがて館の最上部に達する。
目の前へ明らかに他のものとは明らかに趣の異なる立派な扉が現われた。
先導する兵が扉を叩く。
「旦那様! リンカ=ラビアンを連れてまいりました!」
扉の向こうから無言だが、了承の雰囲気が伝わってくる。
先導の兵が扉を押し開けた途端、嗅ぎ覚えのある甘い匂いが鼻を掠めた。
独特の甘ったる匂いは精力増強のための麝香の香りだった。
そこは豪奢で広々とした部屋で、その最奥に立派なベッドの上にはでっぷりとした体を薄いローブで覆った男が一人。
遠目で一度見ただけだが、この豚のような男こそ“キンバライト侯爵”であるとロイドは理解する。
そして目の前の光景から、この男がリンカに何をしようとしているのかは明白であった。
「譲渡証を」
ベットから立ち上がったキンバライトが促し、先導する兵が手にしていた羊皮紙の巻物を広げる。
そこに打たれた、“薔薇の形をした赤い刻印”に目が留まった。
キンバライトは譲渡証を受け取って、薄ら笑いを浮かべながら、舐めるように文章へ目を走らせる。
やがて羊皮紙から視線を上げ兵やロイドへ、まるで犬を追い払うような雑な手つきで退出を促してきた。
先導の兵は小走りでロイドの脇を過り扉へ向かう。
「貴様、何をしている?」
しかし一向に鎖を離すことはおろか、動こうともしないロイドの背中へ苛立たし気な声をぶつけてきた。
ロイドはリンカを犬のように繋いでいる鎖を手放せないでいた。
鎖の先のリンカは身体を激しく震わせていた。
顔はすっかり青ざめていて、立っているのがやっとな様子だった。
そんなリンカの姿を見てキンバライトは盛大な笑みを浮かべた。
「いいね、その顔その顔。どうだい? 訳もわからず連れてこられた感想は? と、君は声を失くしたんだっけか。声を出せれば少しは恐怖も和らいだろうねぇ。ひひっ! さて、声の無い君は、どんな鳴き声を聞かせてくれるのかなぁ?」
キンバライトは下衆じみた表情を浮かべてベッドから立ち上がった。
ローブの下は出っ張った腹と同じく、御立派なモノを膨らませながらにじり寄ってくる。
きっとチャンスはこれが最後。
しかし――ここまでロイドの潜入はばれていない。
彼は真っ先にそう思った。
このまま黙って帰れば、誰もロイドのことに気付かないだろう。
お咎めもきっとない。
もはやこの状況で行動を起こすことこそリスク以外の何物でもなかった。
隣で震えている少女はいわば赤の他人だ。
しかもほんの数日、森からこの街まで一緒に歩いただけの間柄だった。
昔からの知り合いでもなければ家族でもない。
リスクを冒すなどバカげている。
そこまでする必要がロイドには無い。
全くもって、何もかもが間違ってはいない。
導き出す答えは、ただ一つ。
「貴様、いい加減に離さないか!」
先導の兵は苛立たし気にロイドの肩を掴む。
ロイドは小さく息を吐き、そして掴んでいた鎖から手を離した。
「――ッ!?」
鎖の代わりに兵の腕をしっかりと掴んだ。
「おおっ!」
「ぐわっ!?」
「ひぃっ!」
三人の男はそれぞれ異なった短い声を上げた。
ロイドは兵を背負い投げ、兵はキンバライトの目の前に放られ、驚いたキンバライトはでっぷりとした尻で床へ尻もちを突く。
投げ飛ばされた兵は昏倒したのか、起き上がる気配を見せない。
「おのれ! 何をするか、無礼者っ!」
ロイドは怒り狂うキンバライトの声を聞き流して、腰の剣を抜いた。
そして剣を腕力向上の魔法を纏わせながら、リンカの腕へ叩き落とす。
手枷を繋ぐ鎖が砕け、リンカの手は自由を取り戻す。しかし当のリンカは状況が飲み込めず、唖然と彼を見上げていた。
「な、何をする!?」
「どうみてもこの処遇はリンカの本意ではなさそうなのでな!」
キンバライトへ鉄帽子を投げつけて、言い放つ。
ロイドの顔が晒された途端、絶望に沈んでいたリンカの顔へ明るい希望が差した。
闇の中でも、蒼く透き通るような瞳がロイドをしっかりと映し出す。
「待たせたな、済まない。ところでリンカは高いところは大丈夫か?」
「?」
「はいか、いいえか!」
リンカはコクンと首肯する。
「よし!」
そしてロイドは彼女の細腕を掴んで真っ直ぐと走り始めた。
つま先に引っかかった、見覚えのある刻印の入った羊皮紙を拾う。万が一の時の保険だった。
ロイドは羊皮紙をポケットへねじ込む。そして迷わず豪奢な寝室へ青白い月明かりを差し込む大窓へ向けて突き進む。
「いくぞ! しっかり掴まってろ!」
「!!」
リンカを抱き上げたロイドは“硬化”の魔法を発動させながら、勢い任せに大窓へ体当たりを仕掛けた。
ガラスが砕け、破片が月明かりをあびて、雪のようなきらめきを放つ。
一瞬体が宙を舞い、自分がまるで飛んでいるかのような錯覚を覚える。
しかしすぐに落下が始まった。リンカは強く身を寄せ、彼も彼女を強く抱きとめる。
硬化の魔法で一瞬だけ鋼のような硬さになった両足が石畳を砕き、砂煙を発生させる。
じんわりと足に痛みが広がり、痺れを覚える。
やはり五階の高さから飛び降りるのは、幾ら硬化の魔法を使っていたとしても無理があったか。
突然発生した砂煙に、周囲の衛兵は何事かと動揺を隠し切れない様子だった。しかし次の瞬間にはもう、城塞の中へ、鐘の音がけたたましく鳴り響く。
「そ、そいつを捕まえろぉ! もたもたするなぁ!」
キンバライトは塔からでっぷりとした身体を晒しながら叫びを上げる。兵たちは反射のようにすぐさま動き出す。
だが数瞬遅く、ロイドの接近を容易に許してしまった兵は、あっけなく殴り飛ばされ、道を空ける。
ロイドはリンカの腕を引き、必死に城門を目指して駆けぬけていく。
殴り倒した兵から槍を奪い、振り回しながら道を切り開いてゆく。
この騒ぎでは逃げ遂せたところで、待っているのは恐らく辛く厳しい逃亡生活だけだ。貴族の家に土足で踏み込み、盗みを働いた。捕まってしまえばきっと死よりも恐ろしい罰が下るはず。目玉の一つや、手足の一本を失うのは容易に想像ができる。
ならばここでいっそのこと切り殺された方が遥かにマシだ。
きっとのその方が楽である。
ばかげている。無駄だ。ロイドにはこの先、何の利益もない。絶望の未来しか待ち受けていない。
しかしそれでもロイドは懸命に槍を振り回し、道を切り開く。
この先に何が待ち受けていようと構わない。今は、ただ握りしめた小さな手を離さず、前に進むだけ。
それなりの絶望と、無に近い希望――だけど不意に舞い込んできた小さな希望と暖かさ。
そんな大事な気持ちを与えてくれたリンカを見捨てるなどできようはずもない。
だが道は唐突に封じられた。
気が付けばロイドとリンカは館の中からゾロゾロと現れた衛兵に取り囲まれていた。
隙間なく取り囲む兵を突破するのは容易ではない。
ここで諦めるか?――否。
どんな状況であろうとも切り開かねばならない。
(たとえ俺が倒れようとも、せめてリンカだけは!)
そんな彼の脇でリンカは羊皮紙の切れ端へ、必死に炭の筆記用具で何かを書き殴っている。筆記が終わり、リンカの蒼い瞳がロイドを映し出す。
「ぬっ!?」
突然ロイドはリンカに腕を引かれた。よろけて倒れ、顔に柔らかい何かが押しあたる。更に後頭部が押さえつけられ視界が真っ暗に封じられる。
何故かロイドはリンカの形の良い胸に顔を押し付けられ、更にきつく抱きしめられていた。
「きゅ、急にどうした!?」
リンカは全く状況が理解できていないロイドを更に胸へ強く押し当てる。そして手にしていた羊皮紙の切れ端を高く投げた。
そして彼女自身もロイドを守るように、身体を丸める。
刹那、ロイドは激しい輝きを感じた。リンカの僅かな胸の隙間から、真昼のような輝きが鋭く差し込んでくる。
「ああ!」
「ぐ、あぁー!」
「め、目がぁー!」
次いで聞こえた兵士たちの情けない阿鼻叫喚。がしゃりがしゃりと金音が鳴り響く。
リンカの胸から離れ、周囲をぐるりと見渡す。さっきまで彼らを取り囲んでいた兵士たちは一様に目を押さえてもがき苦しんでいる。
城壁の上で警備をしていた弓兵もここから相当離れたところに配置されているにもかかわらず、目元を押さえ悶えている。
「これは……文字魔法か?」
ロイドがそう聞くと、リンカは自信満々といった様子でコクンと頷いて見せる。
恐らく、ごく簡単な光属性の魔法“フラッシュライト”を発動させたのだろう。本来は松明かわりに、明かりを灯す程度の魔法である。ここまでの威力は本来無い。だがリンカは稀代の大魔法使い。
たとえ文字魔法によって三分の一の威力になろうとも、これだけの威力を誇るらしい。
さすがは精霊召喚にも成功した稀代の大魔法使いであるとロイドは思った。Dランクのロイドとは歴然とした差であった。しかし不思議と嫌な感じはしなかった。
「行こう!」
ロイドは再びリンカの手を握り締め、走り出し、リンカも素直に続く。
馬屋から毛並みの良い馬を一頭拝借し、未だ戦える状態にない兵士の間を颯爽と駆け抜け、城門を飛び出す。
馬は夜を切り裂き、そしてアルビオンの街へ駆けてゆく。
最悪の状況のはずなのにロイドの胸は、まるで少年の頃へ戻ったかのように躍っている。
幼い頃、酒場の吟遊詩人が歌ったとある勇者の物語。
勇者が囚われの姫を助け出す――そんなどこにでもありそうな、ありふれた、だけど心が躍るお話。
いい歳のロイドだったが、そんな物語の主人公に今の自分を重ね、背中にリンカの熱を感じながら馬を走らせ続けるのだった。