第一章 05 海底の樹木
05 海底の樹木
「うーん」
しばらく泳いだ後、私はうなった。
「どうした」
ノアタムが振り返る。
「景色は空を飛んでるみたいで楽しいんだけど、なんていうか、不安定な感じがするんだよね。地に足が着かない感じっていうか、実際着いてないし、足もないんだけど……」
私は泳ぐのを止めて立ち止まる、いや、泳ぎ止まるというべきか。
洞窟のあった位置からまっすぐ泳いできたので、今、体の下を見ると、海底からかなり離れた場所にいる。三~四階建てのビルから真下を眺めたぐらいの距離だろうか。水中なので落下する危険は無いはずだが、なんだか落ち着かない。
「それに、人間なら泳ぐときは水着みたいに、水中で邪魔にならない格好をしてるけど、いろいろ身につけてるしさ……」
私は自分の体を見回す。タンクトップは体にフィットしているが、スカートは、広がりは小さいものの、体との間には隙間がある。泳げばひらひらとはためく。腰にはベルトのポーチとベルトで下げたナイフがあり、両肩にはリュックサックがある。
服装だけならば、人間が地上でする格好と変わりない。人間が酸素ボンベを背負ってダイビングしているのとは訳が違う。
「人間は普段は空気中で生活しているから、水中に入ると水の抵抗を強く感じるので、体に密着する装備を選ぶのだ。
空気だって本当は抵抗力がたくさんあるのだぞ。高速で走るレーシングカーは空気抵抗を無くすために流線型の形で作られている。だが人間は普段、空気は抵抗力があるものだと思って生活していないだろう。そもそも自分が空気の中にいることすら意識せずに日常生活を送っているはずだ。
人魚もそれと同じだ。自分が水中にいることを普段は意識しない。だから髪を伸ばしたり、ひらひらした服を着る者も多いのだ。人間が空気中でそれをやるのと同じだ。
お前もいずれ慣れるだろう。酸素ボンベではなく、水中でこうして呼吸しているしな。人間が空気中で、呼吸しているのを意識しないのと同じだ」
「確かに……」
私はそう言って息を吐き、大きく息を吸う。水を胸いっぱい吸い込んでも、むせるどころか人間が深呼吸するのと同じだ。
「だが、お前が異世界の視点を持っているのはわしの望むところだ。
泳ぐ高さに対しては、海底からこのぐらい距離があると、障害物が無く目的地までまっすぐ進めるという利点がある。
だが、海底近くを泳ぐと、疲れたときにすぐに海底の上で休めるという利点があるな。では、タヴィデの町までは海底近くを泳いで行こうか。というか、少し休憩しようか」
ノアタムはそう言い、海底に向かって泳ぎ始めた。私も異論は無く、高度を下げる。
ノアタムは、木の茂みのような海藻の茂みの下に向かっていった。私も後に続く。私達に驚いたのか、海藻の隙間から、鳥が飛び立つように魚が舞い上がってまた海藻の茂みに隠れる。
大きな木の根元のようなところでノアタムは止まった。ひれを三つ使い、海底にカメラの三脚のように立つ。私は人間が木の根元に座るように、背中を木に、スカートを海底に付けて体重を預けた。
人魚は何もしなければ水中で浮きも沈みもしないようだが、こうして緊張を解いて脱力しているのは体が楽だ。私は頭上を見上げる。
「これは、木なの? 海の底に木があるの? それとも珊瑚?」
私は自分が体重を預けている物を眺め回す。地面から上へ円柱形の物が伸び、円柱は上に行くほど細かく枝分かれしている。珊瑚にもこういう形状の物はあったと思うが、今、自分がもたれかかっている物は、枝分かれした先に、地上の樹木のように楕円形の葉っぱがたくさん付いていた。それにかなり大きく、幹の太さは一メートルぐらい、高さは十メートルぐらいありそうに見えた。そんなに大きくなる珊瑚があるのだろうか。
「ノアタムアにも珊瑚はあるが、今お前が見ている物は珊瑚ではない。珊瑚はクラゲやイソギンチャクと同じ、刺胞動物の仲間だからな。ここに生えているのはれっきとした植物だ。ジューゴという名でな、わしが設定したノアタムア独自の植物だ。地上の樹木のように固く丈夫に成長するので、海藻ではなく『海木』と呼んだ方がいいだろうな。人魚は地上に生える木を見たことがないから、わざわざ海木と言わず『木』と呼んでもいいだろうが」
「へえ、あんたが設定した植物なんだ。確かに、日本じゃ海の中に木が生えてるとは聞いた覚えないしねえ。こうして見るとやっぱり珊瑚っていうより樹木に似てるし。木の根元に草が生えてるように、根元近くには海藻が生えて……。海底から短く生えてるのは海藻なんでしょ?」
私は周りの風景を見渡す。自分が今もたれているほど大きくはないが、ジューゴの木らしき物は近くにいくつも生えていた。木々の葉の隙間から、頭上の太陽の光が木漏れ日になって海底に降り注いでいる。海底からは、細長かったり丸かったりする海藻が何種類も生えている。揺らめき方が水中っぽいとはいえ、地上の公園の散歩道のような雰囲気だった。落ち着きを取り戻した魚達が、公園の鳥達のように木と海藻の間を行き来している。
「うむ。あれらは海藻だな」
「あっでも、あんたの理屈で言うなら、『海藻』もいちいち『海』を付けずに『藻』だけでもいいんじゃないの?」
「ん……まあそれでもいいが、『海藻』はそういう単語としてすでに日本語にあるので、そう訳された方がお前にはわかりやすいだろう?」
「まあ、確かにね。でも、じゃあなんで、わざわざ海の中に木を設定したの?」
「地上の人間は木を様々な用途に使うだろう。人魚の世界も、木があった方が生活が豊かになると思ってな。住居や家具など、木材が使えた方が便利だろう。タヴィデの町でも、建物にはこのジューゴの木が使われているのだ」
「へー、人魚って、さっきの洞窟みたいなとこを住処にしてるのかと思ったけど、木の家に住んでるんだ」
「もちろん、洞窟や、岩を切り出してレンガ状に組み立てた住居、貝や珊瑚を加工した住居に住んでいることもある。だが選択肢は多い方が楽しいだろう。それに、漆喰のような物もあるんだぞ」
「え、漆喰!? 海中で!? 乾くの!?」
「うむ。サンジュ岩という岩石があってな、それを砕いてシーズ水に混ぜると粘土状になるのだ。そこに更に、ノーリという海藻をつぶして混ぜると、それぞれの成分が反応して固まるのだ。このサンジュ粘土を壁に用いれば、木と漆喰でできた、中世ヨーロッパ風の町並みが海底にもできあがるというわけだ」
ノアタムは得意げな顔をした。
「あんた、そういう町並みを作りたくて、海中でも木や漆喰がある設定を作ったんじゃ……。ノーリとか、あからさまに『糊』が由来でしょ?
てことはジューゴの木も、サンジュ岩も……。
ん? ジューゴ? サンゴジューゴ? 珊瑚にちょっと似てるから九九の3×5=15でジューゴの木になったの!?
てことは、サンジュ岩も……岩……ロック……サンジュロック? シクサンジュウロク? しっくい、に似てるから4×9=36でサンジュ岩って名前にしたの!?」
ノアタムは面倒そうな顔をした。
「もう、いいではないか、名前の由来など。人魚の言語ではいい感じの言葉になってるから大丈夫だ」
「またそんな……いい加減だなあ」
「……『いい加減』という言葉はな、『雑だ』という意味以外にも、『ちょうど良い加減』という意味もあるんだぞ!」
「また開き直った……。はいはい、じゃあ、ちょっと休めたし、そろそろ行こうか?」
私は立ち上がる。ノアタムも安堵した顔で泳ぎ出そうとした。
「うむ、そうしよう」
そのとき、辺りが、ざわっ、としたような気がした。