4 異変の兆し
覚悟を決めて玲七郎はレストランの中に入った。営業時間前なのか、客は誰もいない。
入口から見て右手がほとんどガラス張りになっており、蓮の葉の繁る濠と、その向こうの武家屋敷の遺構が見えている。濠の水面を滑るように数羽の水鳥が泳いでいた。
玲七郎は思わず「へえ」と感心してしまった。
見慣れているせいもあるだろうが、龍造寺は景色には何の興味も示さない。死んだ魚のような目のまま事務的に「こちらのお席にどうぞ」と窓際のテーブルの奥側を勧めた。
その席では、せっかくの風景を背にしてしまうことになる。
「おれはこっちがいい」
玲七郎は勝手にテーブルの手前側に座った。
龍造寺は少しムッとしたように、「そちらは下座になりますが、よろしいですか?」と訊いた。
「ああ、別におれは構わねえよ。それに、人間に上下はないって言ったおっさんは、この地方の出身じゃなかったっけ?」
すると、入口の方から「そのお方は他県の人ですわ」という女の声がした。
玲七郎が振り向くと、喪服のような黒いドレススーツを着た女が入って来るところだった。ストレートな黒髪を、眉の上で切り揃えている。若くはないようだが、かと言って、およそ何歳ぐらいとは見当がつかない、不思議な美貌の持ち主である。玲七郎の顔を見ると、真っ赤な口紅を塗った唇の両端をキューッと上げ、嫣然と微笑んだ。
「初めまして、斎条玲七郎先生。このホテルの総支配人を務めさせていただいております、大志摩有魅と申します。この度は、このような片田舎までご足労いただき、申し訳ございませんでした」
大志摩は軽く頭を下げたが、切れ長の目はジッと玲七郎の方を見つめている。
玲七郎はさりげなく大志摩から視線を外した。
「まあ、田舎ってほどじゃねえけどよ、ここの景色は気に入ったぜ」
「恐れ入ります。今週は弥重郎先生が急遽お出でになれなくなったと聞き、どうしたものかと思いましたが、こうして若先生にお越しいただけて、安心いたしました。少し早うございますが、昼食を召し上がっていただきながら、改めて概略をご説明いたします」
大志摩は「失礼いたします」と断って、玲七郎の向かいの席に座った。玲七郎も黒いシャツを着ているため、そのテーブルだけ何か不幸があったかのように見える。
「お肉がお好きと伺いましたので、この地方のブランド和牛のステーキをご用意しました。焼き加減はいかがしましょう?」
「レアだ」
「かしこまりました」
大志摩は、置きもののように無言でそばに立っている龍造寺に、「わたくしもレアで」と告げた。頷いて立ち去ろうとする龍造寺を「ちょっと待って」と止め、改めて玲七郎に尋ねた。
「昼間ですが、よろしければ、赤ワインなどお飲みになりませんか?」
「いいぜ。だが、ボトルまではいらねえな」
「では、グラスで」
龍造寺が裏に下がるのと入れ違いに、メイド風の制服を着た若い女性スタッフが最初の料理を持って来た。
「季節の前菜の盛り合わせでございます」
料理をテーブルに置く際になるべく大志摩の姿を見ないようにしているようで、玲七郎は(ほう)という口の形になった。
そのまま出て行こうとする女性スタッフに、大志摩が「相原さん」と呼びかけた。相原と呼ばれた女は、ビクッと立ち止まった。
「龍造寺部長に言うのを忘れたわ。あなた、広崎くんと同じホテルから研修に来てたわよね。ちょっとフロントに行って、広崎くんを呼んで来てくれないかしら?」
相原は視線を逸らしたまま、「はい」と小さく答えて出て行った。
前菜を半ばまで食べたところで、相原とは別の女性スタッフがグラスの赤ワインを二つ持って来た。相原とは逆に、潤んだような目で大志摩の顔ばかり見ている。玲七郎は、また(ほう)となった。
「それでは、玲七郎先生のご活躍を祝して、乾杯を」
「ああ」
前菜が終わり、ステーキがテーブルに並べられたタイミングで、相原に連れられて広崎がレストランに入って来た。
「総支配人、すみません。まだレポートが書けていなくて」
頭を下げる広崎に、大志摩は笑顔で「いいのよ。口頭で説明してちょうだい」と告げた。
広崎は「ありがとうございます」と大志摩に礼を言ってから、改めて玲七郎に挨拶をした。
「フロントクラークの広崎慈典と申します。グループホテルから研修に来ております」
「あんたがどこの何者かなんて、おれには興味ねえ。要点を話せ」
「あ、はい」
広崎は額の汗をぬぐい、少し深呼吸をして続けた。
「このホテルの近くに有名な古代の遺跡がありまして、宿泊のお客さま用にシャトルバスを出して送り迎えをしているのですが」
広崎は、ゴクリと唾を飲んだ。
「行きと帰りで、人数が合わないんです」