41 窮余の一策
ルルイエの闇を、ほむら丸の炎が照らしている。普段はもう少し青白い色をしているが、怒りのためか真っ赤に燃えていた。
その赤い光の中で、風太は、人間の町娘姿になったつむぎに支えられていた。体力の消耗が甚だしく、一人では立っていられないようだ。
その風太の目の前に、異様な形のものが立っていた。広崎そっくりであった体に、つむぎによって無数の穴が開けられたナイアルラトホテプである。変形すれば元の形に戻れるはずだが、その余裕がないのか、あるいは、親友の無惨な姿を風太に見せつけて厭がらせをしているのかもしれない。
そのグロテスクに歪んだ顔で、ナイアルラトホテプは勝ち誇ったように笑った。
「グッフッフッ、随分辛そうじゃないか。まあ、無理もない。おれだって大祭司さまのお側にいるだけで、生気を吸い取られて閉口したものだ。だが、おまえの式神たちがここまで降りて来たところをみると、さしもの大祭司さまも麒麟には敵わなかった、ということだな」
「麒麟?」
「そうさ。親切はしておくものだな。ちゃんとおまえに恩返しするために来てくれたぞ。もっとも、大祭司さまを斃しても、あいつは図体がデカ過ぎて、ルルイエまでは入って来れないのさ。残念だったなあ」
態とらしく同情するような表情を浮かべ見せたが、我慢しきれなくなったのか、また、グフフと吹き出した。
風太は気力を振り絞って、言い返した。
「それでわかったぞ。きさまはここに逃げて来たのだな」
「フフン、まあ、そういう理由も、あるにはある、な。だが、卑怯というのは、われわれにとっては美徳でね。自分の力を過信して焼き焦がされるなんてのは、愚か者さ。おっと、口が滑った。頼むから、今おれが言ったことは、黙っててくれないか。ホンの一万年の間でいいからさ」
自分の冗談にウケて、ナイアルラトホテプはまた一頻り笑った。
風太は、苦々しい顔で相手を睨んだ。だが、このままでは打つ手がなく、折角追い詰めた古きものの最後の一匹を、みすみす逃がしてしまうことになる。
その時、上空から「風太どのーっ!」という声が聞こえて来た。
ハッとして風太が見上げると、黒龍となったみずち姫が人間を抱えて降りて来ていた。その後を、ぬかり坊がドタドタと空中を走っている。
「あれは、慈典?」
風太が呟くと同時に、その人間はみずち姫の体からダイビングするように飛び出し、クルリと空中で一回転すると、風太の傍らに降り立った。
「遅参いたした」
そう言って片膝をついた。
「おまえ、もしかして、猫叉なのか?」
「いかにも吾輩である。風太どののご友人に憑依した」
すると、ナイアルラトホテプがグフグフと笑った。
「おいおい、多勢に無勢とは言うが、式神が何体来ようが、雑魚の妖怪が何匹来ようが、おれは少しも恐ろしくはないぞ。大祭司さまが蘇られるのを、ここで気長に待つだけさ。おお、そうだ。おまえたちもみんな、ここでおれと共に一万年過ごしてみないか?」
そう言うと、ナイアルラトホテプは体中の穴を塞ぎ、猫叉が憑依している本来の広崎と同じ姿になって、また笑い出した。
しかし、猫叉の方の広崎もニヤリと笑い、「風太どの、例の術を頼む!」と叫んだ。
一瞬、風太は、何を言われているのがわからないようだったが、「ぼくの術?」と呟いて、自分の指を見た。
「そうか」
風太はナイアルラトホテプに向かって、「これを見ろ!」と叫んで、人差し指を立てた。相手の目が指を捉えた刹那、ゆっくり左右に動かした。
「何を、馬鹿げたことを、やって、いる、の、だ……」
広崎の姿をしたナイアルラトホテプの目がトロンとなった。
それを見届けると、猫叉は「いざ、参る!」と告げた。その途端、本来の広崎はカクンと膝を折って、その場に倒れた。目をこすり、「うーん」と呻いている。
その様子を見ている偽の広崎の方は、一旦真顔に戻ったが、すぐに「うっ」と顔を顰めた。
「吾輩の力では、長くは抑えておけぬ。みずちの姫、ぬかり坊、風太どののご友人を立たせてくれ!」
上空にいた二体の式神は、下に降りるとそれぞれ人間の姫君と僧侶の姿になって、倒れた広崎を左右から抱え起こして、もう一人の広崎の前に立たせた。
「よし! やるぞ!」
ナイアルラトホテプに憑依した猫叉はそう宣言したが、なかなか思うように体が動かせぬようで、ブルブルと腕を震わせて、指先をなんとか本来の広崎の額に持って行くと、ピタリと押し当てた。
もどかしい数秒が過ぎた。
ついに、猫叉は指を離し、「で、できたぞ!」と叫んだ。
本来の広崎は、みずち姫とぬかり坊に支えられながらも、「あれ? おれがもう一人いる!」と驚いた顔で後退った。
が、次の瞬間、そのもう一人の広崎であった姿は風太になり、次に相原に変わり、今度は玄田の顔になりと、目まぐるしく変身を繰り返した。
「ぐーっ、抑え切れぬ!」
猫叉は、最早誰かもわからなくなった顔を苦痛に歪めていたが、「犬神! このままこの体を焼け!」と叫んだ。
「し、しかし、それではおぬしが」
躊躇うほむら丸を、猫叉は叱咤した。
「今こやつを逃がせば、また風太どのを狙うつもりだぞ! 吾輩のことは気にするな! 焼け! 灰も残すな!」
「よし! 行くぞ!」
原形を留めぬほど変身を繰り返しているナイアルラトホテプに向かって、真っ赤な火球となったほむら丸が体当たりし、紅蓮の炎が燃え上がった。