40 セカンドオピニオンを求めて
ルルイエで風太が意識を取り戻す少し前、広崎も浅い眠りから目醒めていた。
目を開くと、最初に白い天井が見えた。ベッドに寝ているらしい。
「こ、ここは……、どこだ?」
広崎のベッドの横で、人の動く気配がした。
「目が醒められたようですね、広崎さん」
若い女性の声だ。広崎がそちらを見ると、薄いピンクの制服を着た看護師だった。
「……ひ、ろ、さ、き?」
看護師は痛ましそうな笑顔を見せた。
「今、先生を呼んできますわ。そのまま、待っていてくださいね」
ドアを開け、パタパタとスリッパを響かせて出て行った。
広崎はここが病院であることはわかったが、何故自分がここにいるのかは思い出せなかった。それどころか、自分が誰なのかもわからない。ダゴンによって植え付けられた偽の記憶が消され、再び白板状態に戻ってしまったのだ。
広崎は、パニックになりそうな気持を抑え、医師が来るなら起きていた方がいいだろうと、上半身だけ起こしてベッド横の壁に寄りかかって座った。
と、看護師が閉め忘れたドアから、黒くて小さな影がスルリと病室に入って来た。
視界の隅でそれを捉えた広崎は、ギクリとしてそちらを見たが、すぐにホッとしたような笑顔に変わった。
「猫か」
だが、その黒猫は「違うぞ」とハッキリした人間の言葉で否定した。
「吾輩は猫叉である」
突然の出来事に、恐怖で蒼ざめた広崎だったが、すぐにフーッとゆっくり息を吐いた。
「夢か。すると、おれはまだ寝ているんだな」
そう呟いて、再び横になろうとした。
黒猫は慌てたように、「待て待て」と広崎に呼びかけた。
「時間がないのだ。寝ないで、吾輩の話を聞いてくれ」
「しつこい夢だな」
「これは夢ではない。とにかく、一通り話を聞いてくれ。おまえの親友が今、危機に陥っている。これを救える者は、おまえより他にないのだ」
「おれの、親友?」
「そうだ。いきなりで信じられないと思うが、今は吾輩を信じてくれ」
「だけど、おれは自分が誰かさえわからない。何も記憶がないんだよ」
「わかっておる。だから、頼む。吾輩を信じて、ほんの一瞬でいいから、心を無にしてくれ」
広崎は少し迷ったが、相手の言葉を信じる信じないの判断基準もないため、半ば自棄気味に目を閉じて、心を空にしてみた。普段の広崎なら、すぐに雑念が浮かんだだろうが、今は何も浮かんで来ず、スッと無になった。
黒猫は「参るぞ」と告げ、カクンと力が抜けたようにその場に倒れたが、すぐに起き上がり、「ミャー」と鳴いた。
同時に広崎の目がパチリと開き、ベッドから降りて黒猫の方へ歩み寄った。
「さあ、行け。おまえはもう自由の身だ。ケンちゃんどのに可愛がってもらうがよい」
黒猫は戸惑っているように見えたが、再び「ミャー」と鳴くと、ドアの外に出て行った。
それを見送っていた広崎は、泣き笑いのような顔になった。
「ふむ。このような気持ちは何百年ぶりであろう。淋しいわい。だが、感傷に浸っておる場合ではないのう。風太どののところへ行かねば」
ちょうどそこへ山里医師が入って来た。
「お、どうした? 元気そうじゃないか」
広崎は苦笑した。
「やらねばならぬことがあるでな。この者が世話になったな、古狸」
山里は少し怪しむような顔で、「猫叉か?」と尋ねた。
「如何にも吾輩である。この者を連れて行く」
「いかんいかん。まだ治療中の患者だ」
「だが、ここにおったとて、治る訳でもあるまい」
「うーん、それはそうだが。いったい、どうするつもりなんだ?」
「この者の記憶はナイアルラトホテプとかいう古きものが持っておる。それがわかっておる以上、風太どのは迂闊に手が出せぬ。謂わば、人質だ。逆に、この者も記憶を取り戻すにはナイアルラトホテプより奪い返すしかない。よって、これより葦野ヶ里遺跡へ参る」
「そうか。まあ、そういうセカンドオピニオンもありかな。だが、どうやって行く?」
広崎はフッと笑った。
「一度ジェイアールとやらに乗ってみたかったのだ。幸いここは駅に近い。次の列車の時刻も調べた。車に乗るより、その方が速いのも確かめた。だが、金がない。少し貸してくれぬか」
山里も笑って、「最初からそのつもりだろう」と言いながら、財布から幾許かの紙幣を出して渡した。
列車にはギリギリで間に合い、葦野ヶ里公園駅で下車したところで、公園を覆う結界が崩壊する大音響が聞こえた。
「いかん、急がねば!」
十分ほど走って歴史公園に近づいた時、上空からバッハの曲が聞こえて来た。
「あれは、もしや」
次の瞬間、ドーンという爆音と共に周辺は目も眩むような光に包まれ、胸が悪くなるような断末魔の叫びが響き渡った。
「グドゥルギガグゲフグムグアンガアアアアアーッ!」
広崎は目を瞬きながら、「やったな!」と嬉しそうに笑った。だが、公園へ入る『天の浮橋』を渡ると、顔を顰めた。
「ううっ、臭いのう。まるで生ごみが焼けておるようだ」
彼方此方に緑色の液体が飛び散り、ブスブスと燻っている。
さらに進むと、有魅の姿が見えて来た。
「おおっ、化け猫、無事であったか」
振り返った有魅は、訝しげに広崎を見たが、パッと表情を明るくした。
「おぬし、猫叉じゃな?」
「うむ。この者に憑依した。して、風太どのは如何した?」
有魅は悔しそうに「わからぬ」と頭を振った。
「恐らくは、クトゥルフめが出て来た建物の中じゃとは思うが。取り敢えず、先に風の元の式神が入り、今また火の元も後を追った。水と土も、こちらの始末が着き次第行くじゃろう」
「心得た。吾輩もそちらへ向かう。おぬしはどうする?」
「姪とは出会えたが、義姉がまだ見つからぬ。斎条先生が先に行っておるから、そちらを追う」
「そうか。では後程」
「無茶をするなよ」
「互いにな」
広崎の顔でニコッと笑うと、猫叉は『北墳丘墓』へ走った。
すぐに、その先の上空を急行する、半透明の黒い龍が見えてきた。
「おおーい、みずちの姫よー、吾輩も連れて行けー!」
黒龍はグルリと旋回し、広崎の体に巻き付いて、共に舞い上がった。
「すまんな。この体では飛べぬ故」
「無駄口はよい。若君の一大事じゃ」
「ああ、わかっておる。吾輩は、そのために来たのだ」
さらにその後をドタドタと足音を響かせながら、ぬかり坊が走って行く。
目指すは、ルルイエ!




