32 敵は葦野ヶ里にあり
保健室の窓ガラスからコツコツという音がした。山里医師による広崎の診断を聞いていた大志摩姉妹が、ハッとして窓を見ると青い小鳥が外側にいる。
「おお、あれは風太どのの式神じゃ」
弥生の言葉が終わらぬうちに、有魅が席を立って窓を開けた。
「如何した? 風太というおまえの主人のところへ飛んだのではないか?」
有魅の問いかけに、つむぎは「入れないんだよ!」とやや逆ギレ気味に答えた。
「入れない?」
「ああ。さっきまで自由に行き来できたのに、今はガッチリ結界が張られて、全く入れないんだよ!」
大志摩姉妹は顔を見合わせた。
「罠か……」
「罠じゃな」
成り行きを見ていた山里医師が、「とりあえず、この患者はわしのクリニックで預かろうか?」と提案した。
有魅は、「有難い、そうしてくりゃれ」と頼んだ。
つむぎは苛立ち、「それより、若さまの一大事なんだ。何とかしなきゃ!」と叫んだ。
と、壁をスッと抜けて、炎の塊が現われ、燃え上がる犬の姿になった。
「つむぎ、それは真実か!」
「本当さ、ほむら丸。若さまは葦野ヶ里遺跡に閉じ込められ、そこに座ってる友達の偽物に誑かされてるんだ!」
「こうしてはおれん。白狐よ。一旦、ここを離れるが、良いか?」
弥生は頷き、「勿論じゃ。疾く行け!」と促した。
ほむら丸とつむぎが相次いで消えると、弥生は唇を噛んでいたが、「すまぬが、有魅……」と言いかけた。
みなまで言わせず、有魅は真っ赤な唇から白い歯をのぞかせ、ニコリと笑った。
「わかっておりまする、お義姉さま。皐月ちゃんがご心配でしょう。学校はわたくしと猫たちでお護りいたします。どうぞ、眷属も皆引き連れて、心置きなくお行きくだされ」
「ありがとう。だが、大丈夫かえ?」
すると、山里医師が「狸族も加勢しよう」と申し出た。
弥生は深々と頭を下げた。
「本当にすまぬ。では、子供たちを頼んだぞ!」
そう言うや、半透明な白い狐の姿になって、保健室の壁を抜けて行った。その後を追うように、どこからともなく現れた狐火が、いくつもいくつも飛んで行く。
有魅は目を瞑り、「どうかご無事で」と祈るように手を合わせた。
気持ちを切り替えるように有魅が振り返ると、ぼんやりと座っている広崎が「これは夢かな」と呟いていた。
「広崎くん、これは夢じゃないのよ」
「ええと、おれはヒロサキという名前なんですか?」
「そうよ。しっかりしてちょうだい」
「はあ」
広崎は有魅の顔を見て、必死に相手が誰か思い出そうとしているようだったが、やがて諦めたように、力なく首を振った。
それでも、山里医師に「では、行こうか」と促されると、広崎は言われるがままについて行った。
有魅は、山里が車に広崎を乗せて出発するのを見送った後、県警本部から移動して来た猫たちに「すまぬが、もうひと働きじゃ」と告げ、小学校内の要所に配置に付けた。
ようやく少し落ちついて、普段は弥生が座っている校長室のデスクにいると、コンコンとノックされた。
迂闊にも来客を想定していなかったため、普段の有魅らしくもなく、少女のように焦った。
「やだわ、こんな時に。どう説明しようかしら」
返事も待たず、「失礼します」と入って来たのは、最初に出迎えてくれた横尾という若い教師だった。
ホッとして微笑みかけようとした有魅は、横尾が瞼のないような真ん丸な目をしていることに気づいた。
「待て! おまえ、ダゴンの手の者だな?」
横尾は、ぎこちなくカクカクと頷いた。
「一時的に、この者の体、借りている。ダゴンさまより、伝言がある」
有魅は警戒心を露わにしながらも、「何だ、言ってみよ」と促した。
「化け猫に申し上げる。互いの恩讐は忘れ、手を組みたい。敵は葦野ヶ里にあり」
有魅の眉がキリキリと吊り上がった。
「ふざけたことを! 帰ってダゴンに伝えるがよい。われらは二度とあやつの風下には立たんとな!」
「誤解するな。従え、という話ではない。協力の提案だ」
「いらぬ! その真ん丸な目を引っ掻かれたくなくば、直ちに失せよ!」
有魅の手から鋭い鉤爪が伸びた。
それを目にしても、借り物に過ぎない横尾が傷つくことに、何の怖れも感じていないようだ。
「ダゴンさまの申し出を無下にすると、後悔することになるぞ」
その瞬間、有魅の手が上の方に伸び、横尾の体は糸の切れた操り人形のように、クタクタとその場に倒れた。




