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30 タブラ・ラーサ

「おまえは、若君わかぎみの友人ではないか! さては、入れわったか!」

 一瞬、みずち姫がひるんだすきき、ダゴンはくびきのがれ、近くのほりに飛び込んだ。それを追って自分も飛び込もうとする広崎を、みずち姫が尻尾しっぽを巻き付けてめた。

「よさぬか! 正気の沙汰さたとも思えぬわい。あやつは古きものグレートオールドワンじゃぞ。おぬしの父親などではない。いい加減かげん、目をますのじゃ!」

「おまえこそ化け物じゃないか!」

 広崎は、必死になってみずち姫の尻尾を引きがそうとする。

 そこへ、ようや有魅ゆみが追いついて来た。

「広崎くん、しっかりして! あなたは普通の人間よ。ダゴンの息子なんかじゃないわ」

「違う! おれは龍造寺慈典りゅうぞうじしげのりだ!」

「もう、面倒くさい坊やね。さあ、わたしの目を見るのよ」

 有魅のひとみが光のうずのようになったかと思うと、広崎はその場にくずれ落ちるように座り込んだ。

 意識を失った広崎をかかえて車に乗せると、有魅は「すまぬが、後始末あとしまつは任せた」とみずち姫に頼んだ。

心得こころえた。ダゴンが逃げたゆえ雑魚ざこどもも戦意喪失せんいそうしつじゃろ。つむぎは手加減てかげんせんから、すぐに片付かたづく。河童もおるしの。こちらがおさまり次第、わらわも急ぎ戻らねばならぬ。猫たちは、早々そうそうに返すぞ」

有難ありがたい」

「とりあえず、つむぎにこの若者のことを教え、若君のところへ飛んでもらわねば」

「それならば、猫叉に頼んである。もうおまえの仲間に話しておる頃であろう。わたしは、この若者を安全な場所に連れて行く」

「おお、そうじゃな」

 有魅が去る頃には、周囲が明るくなってきた。あやしい雲が切れ、空からしているのだ。

 みずち姫が空を見上みあげると、灰色の雲を切りくように飛んで行く青い鳥の姿があった。

「つむぎ、頼んだぞ」


 有魅の車は、オリオン座ホテルではなく、矢窯やがま小学校に着いた。出迎えたのは、校長の大志摩弥生おおしまやよいと風太の幼なじみの横尾という教師であった。

 車から降りた有魅は、弥生に頭を下げた。

「ごめんなさいね、お義姉ねえさま。ホテルの方はまだ安全とは言えないから。それに、皐月さつきちゃんなら、多少医学の心得もあるだろうし」

 弥生は苦笑した。

「医学の問題かどうかわからないけど、いずれにしても、今は皐月はいないわ。風太さんたちと葦野ヶ里遺跡あしのがりいせきに行ってもらってるの。でも、向こうに着いた頃から、まったく連絡が取れないのよ。皐月だけじゃなく、全員とね」

「きゃつらの結界けっかいのせいかしら?」

 言ってしまってから、有魅は弥生の横に立っている横尾を気にした。

 弥生は「大丈夫よ」と笑った。

「横尾先生には、粗方あらかたの事情は話したわ」

 横尾は含羞はにかみながら「そもそも、風太を呼んだのはおれなんです」と言った。

「そうなのね。じゃあ、とりあえず力を貸してちょうだい。うちのスタッフを保健室で休ませたいんだけど、気を失っていると重くて」

「おれが背負いましょう」

 広崎を横尾の背中に乗せ、保健室のベッドに横にならせた。呼吸はおだやかで、普通に眠っているようにしか見えない。

「皐月ちゃんがいないなら、やはり、病院へ連れて行くしかないわね」

 有魅がそう言うと、弥生が笑って首を振った。

「あなたたちは運がいいわ。今日は校医の巡回日なのよ」

 有魅はちょっといやそうな顔になった。

「校医って、あの古狸ふるだぬきでしょう?」

 すると、保健室の入口から、「古狸で悪かったのう」と声がした。

 弥生は如才じょさいなく、「まあまあ、山里先生、わざわざありがとうございます。義妹いもうとの言葉はお気になさらずに」とした。

 入って来たのは、でっぷり太った初老の医師であった。目がクリッと大きく、その周辺がくまのように黒ずんでいる。

「ふん。まあ、わしは確かに古狸だが、医師免許はある。しばらく患者クランケと二人にしてくれんか。ああ、そうそう、眠りはいてくれ」

 有魅は、ペロッと舌を出して苦笑し、広崎の顔の上で指をパチンと鳴らすと、「すみません、お願いしますわ」と言って出て行った。弥生と横尾も続く。

 三十分ほどして、山里医師が呼んだ。横尾は授業があるため、弥生と有魅の姉妹が保健室に入った。

 山里の前に座った広崎は、感情をくしたような顔でぼんやりしている。

 弥生が代表して山里にたずねた。

「いかがでしょうか?」

「ふむ。本来なら本人をはずさせて説明するべきだが、その必要もない。いわば、白紙状態タブラ・ラーサだからな」

「タブラ・ラーサ?」

「そうだ。直前に植え付けられた、ダゴンと親子であるというあやまった記憶は消したが、それ以外の記憶が何もない。白紙だ」

 有魅が気色けしきばんだ。

「じゃあ、もう元には戻らないの?」

 山里は困ったような顔になった。

「まあ、普通は専門医にセカンドオピニオンを求めるところだが、こういうケースは人間の医師では無理だろう。そうなると……」

 重苦しい沈黙が続いた。

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