26 猫族の叛乱
「渋谷先輩、起きてください!」
ホテルの専用駐車スペースに停まっている社用車の運転席で、口を開けて寝ていた太った中年男は、いきなりドンドンと窓ガラスを叩かれ、驚いて跳び起きた。寝過ごしたのかと反射的に時計を見たが、まだ九時前である。送迎バスの時間にはまだ早いな、と思った。
「何? どうした?」
車の外に立っているのは、私服の若い女だった。渋谷と呼ばれた中年男は、それがグループホテルから研修に来ているスタッフだとはわかったが、制服の時と印象が違うため、名前が思い出せなかった。
渋谷がいつも近所の雀荘で夜遅くまで麻雀をし、そのままホテルに来て、出勤時間ギリギリまでここで寝ていることは、スタッフには周知の事実だった。この女も、それを誰かから聞いたのだろう。
パワーウインドウを下げ、「ごめん、誰だっけ?」と尋ねた。
「やだわ、先輩。あたしです、相原です」
「ああ、相原くんか。おはよう。で、どうしたの?」
「大志摩総支配人からの頼まれごとで、至急、葦野ケ里遺跡に行かなきゃいけないんです。すみませんが、この車で乗せて行ってください」
「え、そうなの? でも送迎バスが」
「確認しました。朝一番の便は予約なしです」
「へえ、そう。ま、総支配人のご命令なら、いいか。どうぞ」
「ありがとうございます」
車に乗り込むと、相原はホッと息を吐き、「グータラだけど、この人だけは確実に普通の人間だから」と呟いた。
「え?」
「いえ、何でもありません。よろしくお願いします」
その大志摩有魅は、県警本部の前で、死んだ魚のような目をした龍造寺と向き合っていた。
喪服のような黒いドレススーツを着て、ストレートな黒髪を眉の上で切り揃えた、年齢不詳の不思議な美貌である。周囲には、黒い仔猫を先頭に、有魅を護るように大勢の猫がいた。
龍造寺は苛立たし気に、「これは何のまねだ!」と叫んだ。
有魅は、真っ赤な口紅を塗った唇を歪めて笑った。
「うふふ。おかしなことを言うわね、龍造寺部長。あなたと同じように、警察に誤認逮捕された従業員を引き取りに来たのよ。それとも、あなたは違う目的なのかしら?」
龍造寺は、自分の後ろに呆然と立っている広崎をチラリと見て、反応がないことを確認すると、「ふん」と鼻先で笑った。
「おかしなことを言っているのは、おまえの方だ。これはおれの息子の慈典だよ。他人のおまえが口を出すな!」
有魅の微妙な笑顔がはっきり苦笑に変わった。
「ふざけないでちょうだい。いつ養子縁組したというの? もう、あなたとは話す必要なんかないわ。さあ、広崎くん、帰るわよ」
龍造寺はまた鼻で笑った。
「そうやって強がっていられるのも、今のうちだな」
龍造寺がスッと手を挙げると、警察本部からバラバラと制服警官が出て来た。全員、瞼のないような真ん丸な目をしている。
まるで龍造寺の動きをなぞるように、有魅も手を挙げると、猫たちが一斉に鳴き声をあげた。
「いつまでも大人しくしてると思ったら、大間違いよ!」
龍造寺は嘲笑った。
「面白い。化け猫如きに何ができる!」
両者が同時に手を下ろすと、警官たちと猫たちが激突した。
一見有利に見える警官たちだったが動きが鈍く、縦横無尽に駆け回る猫たちに翻弄された。あっという間に引っ搔き傷だらけになっていく。
中でも黒い仔猫の力は圧倒的だった。警官の顔までジャンプし、蹴りを入れては次の警官に跳び、また顔を蹴って行く。
堪りかねて拳銃を抜く者もいたが、猫たちの動きが速すぎて、狙いが定まらない。下手をすると仲間に当たってしまう。
龍造寺は怒りで顔を真っ赤に染め、「小賢しい化け猫め、目にものみせてやる!」と、天を仰いで呪文のような言葉を唱えた。すると、雲一つ無かった空に暗雲が立ち込め、ポツポツ雨粒が落ちて来た。
猫たちの活躍を笑顔で見ていた有魅の顔色が変わった。
「皆の者、気をつけよ!」
ホテルの横から県警本部近くまで延びている濠が泡立ち、黒い塊が幾つも幾つも流れて来た。
ズボッ、ズボッと水面から顔を出したのは、殆ど全身を鱗に覆われ、瞼のない真ん丸な目をしたインスマス人たちであった。鼻が極端に低く、ほとんど二つの穴しかない。首の両側に赤黒い襞のようなものがハミ出している。唇の薄い口をパクッと開くと、鋭く尖った小さな歯がビッシリ生えているのが見えた。その口から、「ギョエエエエエーッ!」というような耳障りな声を発しながら、次々に上陸して来る。
有魅は、どうしたらいいのかわからずに立ち尽くす広崎に、「早く逃げるのよ!」と叫んだ。




