22 記憶を奪う者
「おれは無実だ! ここから出してくれ! せめて会社か家族に連絡させてくれ!」
先程から何度も同じことを叫んでいるが、誰も来ない。留置場に勾留されるのは勿論初めてだが、広崎にもこれが普通の状態ではないことは、薄々わかった。
こちらの言い分も聞かず、強引に逮捕し勾留したのに、その後、まるでほったらかしだ。とても警察のやることとは思えない。
と、接見用の附室に誰か入って来た。
「お、おまえは……」
相手の顔を見て、広崎は絶句した。
「おれは広崎慈典、ホテルのフロントクラークだよ」
そう言って皮肉な笑みを浮かべているのは、広崎と同じ顔をした男だった。
「と、言ったところで、誰も疑わないだろう。ただし、おまえの友人の傀儡師を除けば、だけどね」
「おまえは、何者だ!」
広崎と同じ顔の相手は、肩を竦めた。
「さあ、本当のところ、自分でもよくわからないんだよ。あまりにも長い年月を生きているのでね。おれの名を人間の発音できる言葉に直すと、ナイアルラトホテプということになるかな。まあ、おれのことはいいだろう。問題は、傀儡師のことさ。おまえの知っていることを聞くために、わざわざ戻って来たのだ。どうだ、取り引きしないか?」
広崎は激しく首を振った。
「風太の不利になるようなことを、おれが言うわけないだろう!」
ナイアルラトホテプは、広崎の顔でニヤリと笑った。
「いやいや、おれはただ、傀儡師と仲良くなりたいだけさ。できれば、親友になりたいんだよ。なあ、あいつのことを、色々教えてくれないか?」
「断る! おまえからは、とても邪悪な気配がするからな!」
ナイアルラトホテプは苦笑した。
「なまじっか霊感があるというのも、考えものだね」
そう言うと、ナイアルラトホテプの体がグシャッと潰れ、ドロドロした液体のような状態になってドアの下の隙間をすり抜け、広崎が留置されている部屋に入って来た。そこで再び立体化し、広崎の姿になった。
「芥川龍之介は、自分のドッペルゲンガーに会って、しばらくして自殺したそうだよ。さあ、おまえは、どうする?」
「黙秘する!」
グッと歯を喰いしばった広崎を見て、ナイアルラトホテプは呆れたように笑った。
「おお、おお、いよいよ本物の犯罪者らしくなったじゃないか。だが、もう遅いよ!」
そう言うや否や、人差し指を広崎の額にピタリと当てた。広崎はクルリと白目を剥くと、ガクガクと膝を震わせながら倒れ込んだ。
「奪われたのが、記憶だけで済んだことを感謝することだ。昔のおれなら、おまえはとっくに死んでるよ」
カチャリと音がして附室のドアが開き、制服の警官が入って来た。瞳が縦線のように細い。
「ナイアルラトホテプさま、その者の携帯電話の充電が終わりました」
手に持っていた広崎のものと思しき携帯を、相手に見えるように差し上げた。その途端、携帯が鳴り出したため、驚いた警官は瞼を下から上に閉じ、携帯を落としそうになった。
そこに、ドアの下を潜ってナイアルラトホテプの手が伸びて来て、携帯をキャッチした。伸びたその手を追いかけるように、再びグシャッと潰れた本体もこちら側にズルリと移動して来た。
そのまま立体化して広崎の姿になると、電話に応えた。
「ああ、広崎だ。いや、何でもない。携帯の充電が切れてただけさ。また連絡する」
電話を切ると、ナイアルラトホテプは広崎の顔でニヤリと笑った。
その頃、女子寮となっているマンションの一室で、ようやく畑中との長い通話を終えた相原は、放心したように床に座り込んでいた。
と、ベランダの方からカリカリという音がしたため、相原はビクッと体を震わせた。すぐに警察に通報しようと携帯を手にしたが、またカリカリと音がし、続いてニャーという鳴き声も聞こえてきた。
相原が恐る恐るベランダの方を覗くと、窓の外に黒い仔猫がいた。一瞬、ホッとしかけた相原の顔が、再び恐怖に歪んだ。
「ば、化け猫」
すると、黒猫の体からスーッと影のようなものが抜け出て来て、ガラス窓をそのまま通過し、部屋の中で尻尾が二叉に分かれた山猫のような姿で実体化した。
「吾輩は猫叉である。化け猫なんぞと一緒にせんでくれ。お嬢ちゃんは背の高い若人と違うて、実体化せんと吾輩の声が聞こえんようだな。滅多に吾輩の姿は見れんぞ。よく、拝んでおくがいい。いやいや、脱線してしもうた。頼みがあるのだ。風太とかいう傀儡師を、助けてやって欲しいのだ」
相原は呆然としたまま、「風太さんを?」と呟いた。




