肴になる程度の与太話
「お前は猫又になるんだもんな〜」
兄さんは猫の顔を覗き込んでそう言った。
うちには飼い猫が一匹いて、半分放し飼いのように家の中と近所をウロウロしていた。
今思えば、田舎だからできた飼い方だなと思う。
俺には4つ上の兄がいた。
頼りになるようなならないような、人の心に住むのがうまいわがままなやつだった。
兄さんはよく泣く人で、泣くたびに猫がすり寄って来た。
「猫は泣いてる人を見るともうすぐ死ぬのかな?と思って寄って来るんだよ。食べるために」
兄さんはそう言って、膝を抱え目を濡らしたままうっそりと笑った。
兄さんは度々、泣いているときにすり寄って来る猫に「まだ、死んでない」などと言ってちょっと笑った。
猫のやつは結構な年齢だった。
いつだったか、こいつらももう年だなと兄さんに言ったら、兄さんは「大丈夫、大丈夫こいつ猫又になるから」と言った。
猫又、猫が長生きすると妖怪になるというアレである。
兄さんは猫を抱き「お前は猫又になるんだもんな〜」と話しかけた。うなぅと鳴いて返した猫に兄さんは嬉しそうに頬ずりをした。
その上少しばかり泣いていたかもしれない。兄さんは心がちょっとばかし弱い人だった。
「俺は生きるのに向いてないから」とカラカラ笑っていた。
ある冬の終わり口のことだった。
兄さんが自殺した。
俺はその時出かけていて、帰って来た時には家中大騒ぎだった。
兄さんは自分の部屋で、包丁を使い、腹を裂いて失血死したらしい。
らしい、というのも俺は部屋に入れてもらえなかったのだ。
部屋の中は血塗れで、酷い有様だったらしい。
兄さんの死を見届けたのは例の飼い猫一匹だった。もしかすると、兄さんがまた泣いていたので、一緒にいてやったのかもしれない。
俺は血みどろになった猫を洗ってやった。元々風呂嫌いの猫だったというのに案外大人しく洗われていた。
兄さんは縫合を受けて綺麗になって帰って来た。血色のない肌には薄っすらと化粧が施され、遺体が腐らないように部屋にはクーラーがつけられていた。
口や鼻には綿が詰められ、冷たくなった兄さんをみて、ようやく俺は兄さんが死んだと実感した。
呆然とする俺の横を通り抜けて、猫がペロリと兄さんの手を舐めた。
俺は、兄さんの猫は俺らを食いに来ているんだという話を思い出した。
「死んじゃったけど、食べちゃダメだよ」
そう言って少し笑うと途端に涙が溢れ出した。猫は俺の側にスリスリと寄って来る。
「まだ....まだ、死んでないよ」
俺は嗚咽を漏らしながら兄さんと同じように言った。急に、兄さんの死が心にストンと落ちてきた気がした。
「ええ、そうですね」
それに応える声があった。親族か?弔問客だろうか?顔を上げようとしたら、声は足元から続いた。
「大丈夫、少し舐めただけです。もう、いただきましたから」
目の前の猫に目を移すと猫はうっそりと笑った。よくよく見れば尾が二つに分かれている!
俺が目を見開いて固まっていると、猫はトコトコとまた兄さんの方に歩いて行った。
「猫は....死者を蘇らせる、躍らせる、なんて話もあるぐらいです。辛い思いまでして死んだのにそれじゃあ、あんまりでしょうから...ここらいらでお暇させていただきますね」
もう一度ペロリと兄さんの手を舐めると猫は俺の横を通り過ぎて出て行った。
それから俺は家の猫を見ていない。