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旋灯奇談

旋灯奇談  第六話  仕付け糸

作者: 東陣正則


    第六話  仕付け糸

 

 九月も後半に入り、朝夕に心地良い風が吹き始めた。

 なのに太市の気分は、鉛の文鎮を頭に乗せたように重い。つい勢いで引き受けてしまった新聞部の仕事が仇となり、怪異譚の執筆が遅れているのだ。未だネタ探しをやっている段階で、締め切りまで後二日。かなり切羽詰った状態である。

 藁にもすがるつもりで井戸端便りのホームページに寄せられたメールをチェックするも、怪異譚のコーナーへの投稿は、壁の染みが人の顔に見えるだの、水道管からネコの鳴き声が聞こえるだのといった、たわいのない話ばかり。わざわざ送ってもらったのにケチを付けるのも何だが、寄せられた情報は、どれもただの奇妙な現象だ。

 怪異譚の取材執筆を任されるに当たって、美里さんに念を押されたことがある。

「井戸端便りに掲載される情報は、町中の日々の生活を切り取ったものがほとんど。それは、たわいない今という時間の断片で、悪くいえば尻切れトンボのメモの切れ端。そのありふれた日常の四方山話にアクセントをつけるのが怪異譚。定まりどころのない浮世の現実にワサビを効かせるためにも、怪異譚のコーナーを単なる不思議な出来事の紹介に終わらせず、切れ味鋭いオチの決まった話にまとめてね」と。

 似たようなことを新聞部の小野寺部長からも言われた。

「太市君にお願いする冥星新報での特集の位置づけは、記事のボリュームではない。垂れ流しで日々更新される電子版の記事は、速報性が命だから、情報をかき集めて紹介するので精一杯。出来事の背景や人物像を掘り下げ分析し論説する余裕はない。それを補うのが、年六回発行の紙の新聞に載せる特集。

 言い換えれば、問題をピックアップするのが日々の記事で、そこからテーマを絞り出して論を立てるのが特集。論である以上、重要なのは読者に最後まで読んでもらうための構成と、読んで良かったと思わせる最後のまとめ方、結論、サゲね」とだ。

「ウーン、オチにサゲかあ」

 締め切りが迫ると、ぼやきが増える。

 こちらはまだ文章の世界に首を突っ込んだばかりの新米記者。そう簡単にオチやサゲの決まった見栄えのいい文章が書けるはずがない。締め切りに間に合わせるので精一杯だ。新聞部の壁に貼ってある「守ろう締め切り、成績よりも恋よりも」の標語に、つい「締め切り外して追い出され、ダンボールの布団に冬の空」と続けたくなってしまう。

 想定外だったのは、怪異譚の原稿を考えようとすると気持ちが新聞部の特集に傾き、特集に取り掛かろうとすると逆に気持ちが怪異譚に逃げてしまうことだ。行ったり来たりの堂々巡りで、一向に仕事がはかどらない。こんな状態になるとは思ってもいなかった。

 悶々グズグズ、脳味噌ドロドロ、浮浪者目前。悩める顔で現国の先生の解説をノートにメモっていると、斜め前、窓際の席にいる百会と目が合った。その百会が、こちらの原稿の遅れを見透かすように目を細めた。ネコが獲物に照準を合わせた時の目だ。冷たいものが背を走る。やはり新聞部の依頼を受けたのは大ポカか。墓穴を掘るとはこのことだ。

 とにかく考えていても駄目、時間を作って一行でも原稿を書かねば。

 よし決心した。読者からのメールにあったどうでもいいネタ、あれを使おう。あれの設定を変えて脚色、もっともらしいオチをつけて、なんとか誤魔化すのだ。

 とにかく優先すべきは目前の締め切り、それっきゃない。

 午前中の授業を終えると、太市は教室の備品入れから休講届けの申請用紙を引き抜いた。午後の授業を休みにして、怪異譚の原稿書きにあてようと決めたのだ。

 この休講届け。冥星学園は生徒の自主独立を気風とする学校らしく、公立校にはない独自の校則を設けている。その一つが自主休講の制度で、週にひとコマ、休講が認められる。もちろん休めば授業の進行に遅れるが、それも含めての自己責任である。むろん在学中に一度もこの制度を利用しない殊勝な生徒もいる。

 実際の休講の取り方には、一コマずつ細切れで取るやり方と、纏めて取る一括取りがある。一学期で言えば都合十二コマ、通して取れば丸二日間学校を休める計算になるが、太市は入学以来、この自主休講を一度も利用していなかった。

 さあやるぞと早引けを敢行。

 

 家に帰還、玄関を入ると目の前に黒くて太いものがブラリ。

 何かと言えば、式台の上に天井からサンドバッグがぶら下がっているのだ。ご丁寧にアッパートレーニング用のパッドも巻きつけてある。朋来家に居候して一年になるが、この玄関にサンドバッグという光景にだけは、慣れない。

 他に吊るす場所がないし、女所帯で鬱陶しい訪問勧誘を追い返すのにちょうどいいのよと、女性陣は口をそろえるが、なら外、玄関の軒先にでも吊るした方が、変な輩が門を潜らなくて済むだろう。わざわざ玄関に招き入れてから、これ見よがしにアッパーカットを叩きこみ、バッグに回し蹴りを入れて、「それで、何の用?」と言うのを楽しみにしているのだ。まったく性悪の女性陣である。

 靴を揃えて脱ぎ、まずは腹ごしらえとばかりに台所へ。

 と食卓に美里さんがつっぷしている。広げた布地を庇うように両腕を広げ、肩の上に自動肩叩き機を乗せてある。この分厚い首当てのような健康マシーン、太市も使わせてもらったことがあるが、快楽グッズで、気持ちがいい。疲れている時などは、機械の優しく揉むみ解すような振動で、つい居眠りをしてしまう。

 実際、美里さんの口元から寝息が洩れている。机に端に追いやられたパソコンと資料の山からして、また徹夜をしたのだろう。

 この美里さん、普段はパートを二つ掛け持ち、土日は設計事務所の掃除とコールセンターのバイトもやっている。その合間に合気道の道場に通い、仲間四人で発行するミニコミの取材や編集の作業をこなすという、目の回るような忙しい毎日を送っている。

 口癖のように「肩に鉛が……」とぼやくので、長女の万知から、しんどいだけなんだからいい加減ミニコミから手を引けばと、横槍を入れられるのだが、頑としてそれを受け入れない。新聞作りが生きがいなのだ。美里さんはよく口にする。つまらないパートの仕事を続けてられるのも、娘たちの世話を投げ出さずにやってこられたのも、ミニコミがあったからなのだと。

 ただ横から見ていると、その頑張りがいつまで持つだろうと心配になってくる。

 狭いながらも自宅があるからなんとか遣り繰りできているが、持ち出し状態にあるミニコミを支えるために、家計のなかで削れるものは削っている。食材の大半はパート先の仕出し屋で貰った材料の残りだし、衣料雑貨のたぐいは見事にリサイクル物オンリー。感心するのは、貰った衣類やゴミ同然の扱いを受けていた衣類を仕立て直し、友人たちに配っていることだ。ミニコミを続けていられるのも、この手間ばかりかかる面倒な仕事をいとわない性格だからこそだろう。

 それにつけても、パートの疲れや編集作業で寝不足のなか、よくぞ細かい針仕事をと思うが、当人はこれがいい気分転換になるのだと、徹夜明けでもショボショボした目を擦りながら、嬉しそうに手を動かしている。

 感心するほかない四十七歳の頑張りママさんである。

 太市が冷蔵庫の扉を開ける音で目が醒めたのだろう、肩叩き機が背中からずり落ちるのも気にせず顔を起すと、美里が擦れた声を上げた。

「太市君、どうしたのこんな時間に」

「合法早引け、新聞部の仕事を、やっつけようと思ってさ」

 さすがに怪異譚の原稿が遅れてとは言い難い。冷蔵庫の中を物色しながら聞く。

「美里さんも、何か飲む?」

「私はいい、それより、テーブルの端の裁縫箱から、仕付け糸を取ってくれる」

 牛乳パックを手にしたまま、太市がキョトンと顎を突き出した。

「仕付け……なんだって?」

 眠気が復活してきたのだろう、口に手を当て、美里が大きなあくびを一つついた。

「そっか、家事に長けてる太市君も男の子ね、仕付け糸までは分からないか」

 椅子から腰を浮かせ、テーブル脇のワゴンに乗せてある裁縫箱に手を伸ばすと、美里が赤い糸巻きをヒョイと取り上げた。どうやらそれが仕付け糸らしい。

「仮止め用の細い糸、白を使うことが多いけど、服の色によってはこの赤も使うわね」

 端から垂れた糸を見れば、なるほど絹のように細い。物珍しそうに糸巻きを目で追う太市に、美里があくびを抑えるように口に手を当て聞いてきた。

「それはそうと、太市君、今月の怪異譚の原稿、締め切りいつに設定したっけ」

 太市の手が牛乳パックをギュッと握りしめる。

「あ、あさってだっけ」

「延びると嬉しい?」

 原稿の進行具合に探りを入れているのだろうか。しかし、「もちろん」と返事をするのも、先ほど新聞部の仕事をやると言った手前、面映ゆい。

 さりとて、そのままでもと……。

 口ごもる太市に、美里が針に糸を通しながら惚けたように言った。

「そういえば太市君、この数日、ホームページの投稿欄をせっせと確認してたよね」

 それで納得した。美里さんは、お見通しなのだ。こちらがまだネタ探しの段階なのを慮って、締め切りを延ばそうかと提案してくれたのだろう。

 思わずテーブルに身を乗り出し、「凄く嬉しい。締め切りが延びるの」と太市が白状すると、一転、美里が寝不足でふやけた声を引き締めた。

「甘い、締め切りは締め切り。原稿を落とした時が、あなたがこの家を出て行く時よ、そうみんなの前で宣言したでしょ」

「そんな、お大臣様、たまには融通をきかせてよ」

 甘えた声を上げる太市に、美里が糸切りバサミを太市の顔の前でキュッと合わせた。

「それより相談、これから友だちの引越しの手伝いに行くんだけど、加勢してくれたら、来月の食費、三千円きり値引きしてあげるわよ」

 今時の高校生にとって三千円は大した金額とはいえないだろうが、カツカツ生活の太市にとっては大金である。古米混じりのバーゲン米ではない普通の米が十キロは買えるし、ビールなら大瓶が十本、しばし甲斐に甘えなくても済む。

 しかし、それでは原稿を書く時間が……、

 原稿が間に合わず、あげくに、ねぐらを追い出されたら、それこそ元の木阿弥だ。

 また口ごもっていると、美里がプッと吐き出した。

「その友だちが少し前に不思議な体験をしたそうなの。いずれ井戸端便りで書いてよって言われてんだけど、それをさっき思い出してさ。ネタ探しの最中なら、お釣りの来るいいバイトだと思うけど」

 弾んだ声で「着替えてくる」と言い置くと、太市は屋根裏の自分の部屋へと駆け上がった。というわけで今回は、美里さんの友人に聞いた話である。

 

 話は四年ほど前に遡る。友人は、名前を河野春代。

 婦人向けのアパレル店で店長を勤める春代は、三十七にして五つ年下の男性と結婚した。いわゆる滑り込みのセーフだが、それはさておき、春代は接客術の中でピカイチ客を衝動買いに導く話術に長けていた。その技のおかげで成績を上げ店長に抜擢されたのだが、一方で婚期を逃しかけた理由もまた、自分の得意技にあったと春代は考えている。

 容姿に恵まれた春代は、付き合う相手にも不自由していなかった。ところがなぜか結婚に至らない。春代の得意技が恋の現場で足かせとなった。上手く相手を誘導して自分を買わせる、つまりプロポーズさせる自信はある。が、そのいつでも相手に最後の一歩を踏み出させることができるという過剰な自信が、ここが決め時というタイミングを外させることになったのだ。仕事が面白く恋を後回しにしがちな事も、それを後押しした。

「フン、衝動買いさせたはいいが、後から後悔されてポイされるよりは益しよ」

 そう自分を慰め独身を続けていた春代も、待てば海路の日和ありで、無事にゴールイン。

 結婚と共に出産も滑り込み。夫婦共に仕事を抱えているので、育児休業明けの前に、保育施設に入所待ちのない都心某区に居を移すことにした。通勤と子育て、それに懐具合とも相談して、新しい住まいは築三十年の賃貸マンションを選んだ。

 そして引越しの当日。

 なんと、姉さん女房に甘えたがる年下の夫が、出張を理由に引越し作業をエスケープ、当てにしていた手伝いの友人も全滅。幸い一歳半の娘は夫側の実家に預けることができたので、決死の覚悟で引越しに臨む。

 明け方まで荷造りに追われたせいで体ヘトヘト頭フワフワ。ジャージをマタニティ時代から愛用のゆったりオーバーオールに着替え、ファンデーションを塗るのもかったるく、スッピンのまま運送会社のトラックに便乗させてもらう。

 一時間ほどで何とか新居に到着。すると目的のマンションの前に同じ引越し業者のトラックが停まっていた。荷物を載せた台車の行方を目で追うと、なんと荷物を運び込んでいるのは、契約した自分の部屋の隣だ。

 春先の転勤シーズンに引越しの日程が重なることはよくあるが、半端な九月の末、それも平日に、隣同士で引越しがダブルとは。奇遇を通り越して何やら因縁めいたものを感じる。

 作業の責任者から、荷の運び上げはスタッフに任せて、奥さんは部屋で荷物の置き場所を指示してくださいと声を掛けられた。超寝不足であくびばかり付いている自分を見て、気を使ってくれたのだろうか。しかしありがたいお言葉に甘えて、部屋で待機。ユンケルとダンナ秘蔵の深海ザメエキス入りのドリンクを片手に、繋ぎ服の男性陣をアゴで動かす。

 女王様気分で、夫への怒りも心なしか和らぐ。

 そして作業の合間にお使い物の菓子折りを手に、外の通路を覗く。お隣さんの姿が見えないか様子を窺うが、女性らしき声はするものの、あちらも自分と同様、女王様をやっているのか、外に姿を見せない。

 まあ慌てて挨拶に出向く必要もないかと、奥の和室に引っ込み、角が閊えて予定の場所に収まらなかった衣装ダンスの処遇に頭を絞る。

 そうこうするうちに「この三輪車、どちらのでしたっけ」と、表から声がかかった。

 アタフタと玄関から顔を突き出すと、隣の部屋とのちょうど中間地点に、壁に寄せるように黄色い三輪車が置いてあった。

 同じ運送業者なので使っている資材やダンボールも当然同じ。荷物が混じると後が厄介なので、双方の責任者が、とりあえず荷は全て家の中に入れましょうと打ち合わせていたのを春代は聞いている。それがどうやら泥の付いた三輪車を見て、バイトのスタッフが通路に置いたらしい。

「それ、うちのじゃないです」

 眠たげな春代の声に「こっちです。ほかの荷が入らないので、外に出しちゃった」と、少し子供っぽい舌っ足らずの声が重なった。

 反射的に声のほうに顔を向けると、隣のドアから黄色いバンダナで髪を纏めた女性が顔を出していた。ピタッと目が合う。

 自分と同じで寝不足らしく腫れぼったい目に、スッピン状態。慌てて会釈を交わす。

 その際、春代は『大変ですね、挨拶は落ち着いてからにしましょう』と、とっさに目くばせで合図を送った。

 鏡で映したように、黄色いバンダナの女性も目配せを返してきた。

 アイコンタクトで意思の疎通が出来たことに、春代はホッと肩の力を抜いた。

 アパートやマンションなどの集合住宅で何が一番悩みの種になるかといえば、隣人との関係である。物件の契約の際、隣の部屋が空いていることが最後まで気になっていた。もし自分が入居した後に、トラブルメーカーのような人が越してきたら。そうでなくとも仕事と育児と亭主の我ままでストレス満載の毎日なのに、隣近所の付き合いにまで悩まされたくなかった。独身時代から何度も隣人とのいざこざで引越しを余儀なくされた経験を持つ春代としては、それが一番の気がかりだった。

 ところが今姿を見せた女性は、見た目や年恰好も自分と似ているし、何より三輪車からして、自分と同じ幼児を抱えているらしい。もしかしたら、これは逆の意味で大当たりなのではないか。そう考えると眠気もヒラヒラどこへやら。

 春代は宝くじにでも当たったような気分で荷物の片付けに邁進すると、夕刻、菓子折りを片手に、マンションのドアを開けた。

 黄色いバンダナの彼女が、インターホンの上に表札を差し込んでいた。

「こんにちわーっ、片付け進んでますか〜っ」

 学生時分に戻ったような軽い乗りで声を掛けつつ、春代はその表札に目を向け、眼を疑った。そこに自分の名前と同じ『河野』という文字を見て取ったのだ。

「え、コウノさんなんですか」

「ええ、よくそう呼ばれるんですけど、読みはカワノなんです」

 笑顔で答えつつカワノさんは、春代が手にした菓子箱の上の名刺に目を落とすと、「えーっ、あなたもカワノさんなの」と、頭の上に声を跳び上がらせた。

「いえ、私はコウノなんですけど」と、無理やり押えた声で返しながら、まじまじと相手の顔を覗き込む。なんと隣あった同士が、字面では同じ姓であった。

 いやそれはまだ驚きのほんの賭場口、話を交わすうちに二人は仰け反った。

 コウノ家とカワノ家は、共に三十九歳の妻に五つ年下の夫と一歳半の娘という、瓜二つの家族構成だった。さらに河野に続く下の名は、妻側が春代と晴世。夫は信司と真路、娘が菜知と那智で、こちらは姓とは反対に、読みが同じで漢字が別という一致具合。おまけに双方の夫が広島の出身で、妻側は青森の出ということまで同じだった。

 なんだか互いの顔まで似ているような気がしてくる。

 実際、春代と晴世は身長や骨格が似ており、姉妹なら十分通用しそうな顔立ちである。慌ててスマホで夫と娘の写真を見せ合うと、これまたよく似た顔をしている。

 余りの偶然に、びっくりするのを通り越して、笑ってしまう。そして本当に大笑いしたのは、それぞれの夫が、示し合わせたように仕事を理由に引越しの手伝いをすっぽかしていたということだ。

 気がつけば眠気など完全に吹っ飛んでいた。

「ぶったまげた、こっただことあるだか」

 田舎言葉でつぶやく黄色いバンダナの晴世を、春代が自室に誘った。

「だんなは帰りが遅いの、どう、引越し祝いのビールでもやらねか」

 もちろん「んだ」と、青森弁で返事が返ってきた。

 出前の引越しそばに特上の握りを食べた後は、干しだらと蕗の煮付け、それと亭主の悪口を肴に、青森の地酒、豊杯を酌み交わす。そして夜も十時を過ぎて、完璧に出来上がった二人の元に、それぞれの夫が、引越しをサボった罪滅ぼしのケーキを手土産にご帰還召された。なんと妻同士以上に身長や顔立ちの似た二人であった。これではまるで双子の姉妹と兄弟同士のカップルである。

 この呆れるほどの偶然の一致に、四人は、その夜延々、それぞれの前世がどこかで繋がっていなかったかを、青森と広島の酒を差しつ差されつ語り合った。

 つまり四人が酒呑みというのも一致していたのである。


 前世のつながりは見つからなかったが、今世では最上のつながりを発見した思いで、四人は互いの家を行き来するようになった。特に保育園が同じの菜知と那智は、同じ日に入園。呼び名も同じなら顔もそっくり、住まいも同じマンションということで、保母さんたちに双子として扱われた。もちろん冗談ではあったが……。

 ただ天の悪戯としかいいようのない偶然の一致を二組の夫婦が楽しみ笑っていられたのも最初のうち。郵便物や宅配の誤配、電話番号も下一桁が3と8の一つ違いのために、間違ってかかってくることがある。知り合いが訪ねてきて、表札だけを見て、ドアの空いた部屋に上がりこみ、連れ合いの顔でも間違いに気づかず、そのまま延々トンチンカンな会話を続けていたということも二度ばかりあった。

 ただ本当の問題はそんなことではない。

 越してきてちょうどひと月目のこと、真路が駅の構内で人に押されて足をくじいた。とその翌日、信司が同様の怪我をする。その一週間後に春代の実家で祖母が亡くなると、今度はその二日後に晴世の祖母が亡くなり、三日後、信司が会社で取引先に間違いの注文を入れた翌日には、真路が同様の間違いを犯した。

 どちらが先というのではないが、片方の家庭で起きたことが、日を置かずして隣の家庭でも起きるようになったのだ。

 その頃には、四人が四人とも嫌な予感にとらわれ始めていた。

 万が一、四人のうちの誰かが事故に遭遇、いや万が一のことでも起きれば……。

 それは想像するだに身震いのすることだった。


 春代の提案で、ある夜四人は膝を突き合わせ、自分たちの過去を検証した。

 名前の読み方や年齢、出身県などの一致は別として、日々の出来事に関しては、このマンションに越してくるまで、四人は全く別の人生を歩んでいる。四年前に信司は大病を患っているが、同じ時期、真路は長期の休みを取って海外を旅行している。春代が車で事故った時、晴世はまだ免許を持っていなかった。

 それがこのマンションに越して来て以降、あらゆることが重なり出していた。

 シンクロニシティー、同調性と訳される。波と波は重ねるとその振幅が跳ね上がる。人生という波は、通常は重ねたくとも重ねようのない複雑な波だ。それがたまさか偶然にも波形が重複、そのことで同調性が極端に増幅されてしまったと解釈したくなるような、異常な現象だった。

 しかし、もの事には限度というものがあるだろう。

「ここを引き払って、別々の所に住んだほうが良さそうですね」

 普段は年上の妻を差し置いてあまり発言しない信司と真路が、同時にそう口にした。そしてそのタイミングと口調が似てしまったことに、苦笑いを浮かべた。


 取り返しの付かない事が起きる前にと、隣り合ったカワノ家とコウノ家は、都の西と東に袂を分かった。住む場所をはっきり西と東に分けたのは、引っ越し先でまた隣同士になったら大変と考えたからで、事前にコイントスをして引っ越し先を振り分けた。そして春代の家族は都の西、多摩に移った。

 通勤は大変になったが、今度の住まいは庭の付いた新築のコーポで、周囲には子育て中の家庭も多く、これはこれで良かったのだろうと春代と信司は考えた。ただ引っ越して間もなく、夫の信司は、先の注文の誤発注の責任を取らされ人事で降格、損失の穴埋めに深夜に及ぶ残業が当たり前となった。それは見方を変えれば春代に育児の負担がのしかかることであり、お定まりのように二人の間に隙間風が吹き始める。一度冷め切った愛情が元に戻ることは稀で、一年後、夫の浮気が発覚したのを機に、春代は離婚を決意した。

 また引っ越し。

 今度は五歳になった菜知との二人暮らしである。元夫が養育費をきちんと振り込んでくれるかどうかが未知数なので、春代は節約生活と仕事を考慮、地下鉄一本で通勤可能な都心に近い公団に移り住んだ。

 ところが、そこでまさかと目を疑うことが起きた。同じ公団に晴世が住んでいたのだ。そういえば今年は晴世から年賀状が届いていなかった。何か身内に不幸でもあったのかと思っていたのだが……。

 聞くと、なんと晴世も離婚、二カ月ほど前に越してきたばかりだという。

 ただ今回は隣同士ではなく、棟の端と端の部屋という位置関係である。晴世が子供のことを考えて夫の姓をそのまま使っているのに対して、春代は旧姓に戻していたので、姓も別。それでも薄気味の悪いことに変わりはない。困惑して眉をひそめる母親二人をよそに、幼稚園に通う二人の子供は、保育園当時のことを覚えていないこともあって、同じ『なち』という名の友だちの出現を無邪気に喜んでいる。

 しかし、いったいこれはどういうことだろう。

 

 引越しの片付けも落ち着いたある日、春代は子どもを幼稚園に送ると、晴世を誘って郊外にドライブに出かけた。晴世は実家からの仕送りと母子手当てで専業主婦を決め込んでいるが、春代はわざわざ有給を取っての外出である。

 車は知人から借りた、ピュアレッドのアルトワークス。

 助手席に乗った晴世が珍しげに春代の運転を見やる。

「へえ、これ、軽なのにミッションだ」

「知り合いが車持ちで、女ならこれだろうって勧めてくれたの。実際にハンドルを握ってみると分かるわ、この車、ファミリーカーの姿をしたスポーツカーなのよね。こういう車を、ホットハッチって呼ぶそうだけど」

 共に車には興味がないこともあって、会話は直ぐに隣同士だった時のこと、そして春代が衣料関係に勤めていることもあって、ファッションの話に移る。

 関東平野を取り巻く山裾の国道を一路北上。

 ハンドルを握り、助手席の晴世とたわいない世間話を交わしながら、春代はこの間に起きたことを考えていた。二つの家庭を都の東西に振り分けた。なのにまた自分と晴世が、目と鼻の先で暮らすことになった。「なぜ、どうして」と。

 マンションで隣同士になり次々と身の回りの出来事が重なり始めた時は、二つの家族に対して何か不思議な力が働いているのではと考えた。しかし今は双方とも離婚して娘との二人暮らし。ということは、因縁めいた見えざる力は、家族にではなく、自分と晴世、もしくは二人の子供に働いているということなのだろうか。

 もしそうだとするなら、この後事態はどう展開していくだろう。また何もかもが一致し始めるのか。そうなった時、それを黙って見ていて良いものか。

 運命に追従すべきか、それとも抗うべきか。

 この数日、ことあるごとにその判断の糸口を求めて思いを巡らしていた。

 そんな時、ひょっこり姪が遊びに来た。三十路間近の姪だが、その姪と雑談を交わしていて気づいた。昔のある出来事を……。


 畑の中の一本道を軽快に疾走するアルトワークスが、県道からわき道に逸れる。この時期、田舎の農道は両脇を彼岸花の赤い色に縁取られる。その何かを祝福するようなレッドロードが、初秋の乾いた風と残暑の名残のきつい日差しに照り映える。

「あら、この神社」

 晴世が目を輝かせた。

 前方にこんもりとしたお社の森が迫っていた。

 晴世には、気分転換にドライブでもと誘っただけで、この神社に来ることは告げていない。自分が彼女をここに連れてきたのは、あることを確かめたかったからだが、彼女の反応で自分の予測が当たっていたことに、春代は自信を深めた。

 車を参道手前の駐車場に滑り込ませる。平日というのに県外ナンバーの車が十台近くも停まっている。乗ってきたアルト同様、カラフルな軽の自動車が多い。

 二人は車を降りると神社の鳥居を潜った。

 両側を杉の叢林に挟まれた石段の先に、神社本殿の桧皮葺の破風が覗いている。その方向から、神社に不似合いな若い女性の華やいだ声が聞こえてきた。

 昨夜遊びに来た姪は、近況として、友人に誘われて行った、とある神社の話を始めた。婚活に熱心な友人たちの間で、霊験あらたかと話題の縁結びの神社である。

「わたしさ〜ァ、神頼みなんて嫌だしィ〜、渋々だったんだけど〜」

 スマホ片手に語尾を上げ上げ、おちゃらけて喋る姪の話に、春代は思い出した。以前のこと、結婚に焦る友人に請われて同行した神社のことを……。

 どうやら同じ神社のようだ。

 階段を上り切ると、赤い色彩が目に飛び込んできた。木の枝にぶら下げられた無数の札の色、正確には、その札を枝に結びつけている紐の色だ。

 圧倒的な札の数に思わず目をしばたき、改めて境内を見渡す。

 境内右手に参拝者用の手水場と社務所、正面奥に本殿。そして左手に、神社のご神木が大きく枝を横に広げている。手前に立てられた看板に、墨痕たくましい筆字で夫婦榧と書かれ、下に小さくミョウトガヤと呼び名が振ってある。

 カヤの木は、本来は大木となる針葉樹だが、この夫婦ガヤは、幹の直径こそ二メートル近くあるものの、木は上に伸びず、ひたすら地面を傘で覆うように枝葉を横に広げている。夫婦ガヤという名の通り木は二本。人という文字そっくりに互いに支え合って立ち上がり、針葉樹としては優しげな葉で境内を埋めている。寄り添って立つ二本の木は、いかにも夫婦と呼びたくなる風情で、縁結びのご利益に結びつけられるのも当然のことなのかもしれない。

 右の太いカヤを男木、左のややほっそりとしたカヤを女木と見なし、参拝客は社務所で購入した縁結びの白木のお札を、女性は男木に、男性は女木の枝に結び付ける。

 結婚の願掛けにわざわざ山間の神社にまで足を運ぶのは、圧倒的に女性である。それは男木と女木に結ばれた札の数の差からも明らかで、境内を見渡しても、いるのは女性ばかり。と思ったら、若い女性に混じって一人だけスーツ姿の男性がいた。

 その男性が右の男木に札を結ぼうとしているのを見て、落ち札を拾い集めていた狩衣姿の巫女が、「男性は、左側の女木ですよ」と声をかける。すると、その男性が心外そうに「私はこちらでいいんです」と言い返した。

 辺りにいた女性陣が、口に手を当て笑いを堪える。

 爆笑したかったのだろうが、さすがにここは神前の聖なる庭、それに願を掛けに足を運んでいるのだ。笑いを誤魔化すように、みな結びつけた札に手を合わせた。

 本殿へのお参りを済ますと、春代と晴世は縁結びの神木に足を向けた。天蓋のように頭上を覆うカヤの葉群には、びっしりと隙間なく札が括りつけられている。重みでたわんだ枝を支えるために、かしこに杉の間伐材が下からつっかい棒として差し込まれている。

 OL風の女性三人組が札を結んでいた。

 以前春代が来た時は、夕暮れ間近の遅い時刻ということもあって、自分たち以外に参拝客はいなかった。神頼みに興味のない春代は、宮司に頼み込んで特別にお祓いをしてもらっている友人を尻目に、枝に札を括りつけると、人なつっこく集まってきた鳩に餌をやって時間をつぶしたことを覚えている。

 一緒に並んで歩く晴世が、何かに気づいたように顔を上げた。

 そして私のほうに向き直り、「もしかして」と言った。

「そうなの」と、春代が頷く。

 分かったのだ。かつて二人はこの神社を訪れた。もちろん別々の時にだ。

 そして二人はそろって間違いを犯した。そう、二人とも女なのに、女木の方に札を結んだのだ。社務所側から見れば分かるのだが、太い枝が一本、女木の側から男木の側に張り出している。見る角度によっては、その枝が他の枝葉に隠れてしまう。男木と女木の見分けが付かなくなるのだ。

「どの辺りか覚えてる?」

 春代は全く記憶に残っていなかった。しかし晴世は軽く首を左右に振ると、自信を持った足取りでたわんだ小枝の一つに歩み寄った。

「この辺りだと思うけど」

 重なりあった札に手を伸ばす。

 白木の札は、表側に自身の名、裏面に、意中の人がいる場合はその名前、特定の人がいない場合は気望する相手のプロフィールを記す。女性の書く札には、見合いの釣り書きのように、びっしりと条件を書き連ねてあることが多い。それはたくさん書くことで神様に結婚への熱意を汲み取ってもらおうとでもいうような入れ込みようだ。比べて男性の書く札はあっさりしたもの、というのが友人から聞いた話だったが、その結婚への情念が込められた札を、縁が赤い糸によって結ばれるという故事に倣って、赤い紐で枝に括りつける。ただ縁は細い糸で繋がっていると思うのだが、札に付けられた紐は存外しっかりとした組紐である。これは婚姻とは切っても切れない腐れ縁なのだぞというアイロニーかと、その時は思ったものだ。

「あ、これだ」

 晴世が一枚の札を引き出した。真新しい白木の札と比べて、風雨に晒され褐色に変わった札は、墨で書かれた文字も、晴世という名が辛うじて読み取れるだけだ。

 その晴世の札にくっつくようにして、春代の札もあった。二つの札を結んだ赤い紐が、絡み合い、一本の紐と化していた。札を結び付けてすでに六年、丈夫な紐もいまや毛虫のように毛羽立ち、土色に変色して今にも千切れそうだ。

 実際、晴世が札を引くと、捩れあった紐は、あっけなく切れてしまった。

「本当に、これのせいだったのかしら」

 信じられないとばかりに手にした札を見詰める晴世に、春代が告げた。

「昨日、電話で問い合わせたの。するとお札の効力は紐が切れて落ちるまでで、平均三年だって。縁をお望みの方は、どうぞまたお興しになって下さいって」

 札を動かす度に、風化した赤い紐がボロボロと足元に散って行く。

「これで開放されたってことかな」

「神さまが本当にいるのならね」

 突き放したような春代の言い草を、晴世は特に気に留める風でもなく、自分の札を目の前の小枝に引っ掛け、胸元から取り出したスマホに自撮り棒を付けて撮影を始めた。友人たちにメールで送るのだという。

 二人共もう四十半ばに差しかかろうかという年齢である。

 フレアミニにキャミソールという女子高生に逆戻りをしたような晴世を横目に、春代は手にした札を、先ほど巫女の女性が集めていた落ち札のカゴに投げ入れた。

 晴世は札を撮影し終えると、今度はご神木そのものにスマホのレンズを向けた。撮っては映り具合を確認し、場所を移動してはまた撮り直している。

 その様子を、春代は少し離れたところで見ていた。

 都心のマンションで隣同士になった時には、これほど似た人物がいるのかと驚いたものだ。しかし今になってみれば、随分違った二人だということが分かる。それは、彼女が離婚後仕事を止めて親の援助で生活していることからでも窺える。私なら、しがみついてでも親に泣きつきたりはしない。

 まあ他人の生き方に角を立てれば鬼が笑う、彼女がどう生きるかは彼女の自由だ。

 春代は軽く鼻を鳴らすと、やおら自身のスマホを取り出し、カメラのレンズを右手奥の摂社に向かう石の階段に向けた。そこに苔むした野仏が立っている。最近付き合い始めたアパレル本社の上司、今回車を貸してくれた彼が、仏像の撮影を趣味にしているのを思い出したのだ。

 夏と秋のせめぎあう季節らしく、燃えるような深紅の彼岸花が野仏を取り囲んでいる。

 彼は妻子持ちだ。おそらくこの後、修羅場が待ち受けているだろう。地獄の業火に焼かれる日々になるやもしれない。身もだえするような愛欲の炎の中で、自分はこの野仏のごとく泰然と笑みを浮かべていられるだろうか。

 撮影した画像を液晶の画面に呼び出すと、春代は口に含むように呟いた。

「私には、この血のような彼岸花の赤がふさわしい」

 

 帰りの車の中で晴世が言った。

「私、月末には、また河野に戻るの」

「まさか、復縁するの?」

「違うのよ、別の河野さん、今度はコウノさんだけど」

 それを聞いて、春代は久方ぶりに腹の底から笑いがこみ上げてくるのを感じた。

「アハハ、今度こそ本当の縁、でしょう」

 ハンドルを握る春代の右手小指に、赤い糸の切れ端が引っかかっている。その赤い糸くずを、風が吸い出すように車の後ろに吹き流す。それを目で追うこともなく、春代はアクセルに力を込めた。


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