第一章 「日紗子」 2
「美景さん、生活委員会に入ってくれませんか」
そう日紗子先生に頼まれたのは、入学して間もない頃だった。
入学したばかりで先生の頼みを断れるほど、私は気の強い人間ではなかった。それにこの学校では生徒一人一人が部活動とは別に委員会に入らなければいけない、というのもあり、小学生の頃から先生に頼まれごとをされるのは慣れていたので、私は特に何も考えず、ふたつ返事で生活委員会に入ったのだった。
委員会の活動は、毎週水曜日の放課後に行われる。生活委員会の活動内容は、他の委員会と比べて、群を抜いて簡単な方だと思った。生活委員会なんて名ばかりで、ただ、体育倉庫の裏で、猫二匹に餌を与えるだけが仕事だったのだから。それを仕事と言っていいのか分からないほど簡単だった。ただ、仮にも生活委員会なので、一か月に一度くらい、月末は校舎の掃除をした。掃除と言っても、体育館と校舎を繋ぐ渡り廊下を、適当に竹箒で掃くだけだったが。
生活委員会には先輩も同級生もおらず、メンバーは私だけだった。もしかしたら、先生もメンバーの中に入っていたのかもしれない。よく、友達だった夢佳が、「うちの委員会は先生が五分くらいしたらすぐ職員室に帰る」みたいな話をしていた。だが、日紗子先生は時間いっぱいまで活動、もとい猫に餌をあげるのを手伝ってくれた。
「こっちがグウで、こっちがペコです」
先生は白猫と黒猫をそれぞれ指さして、私に名前を教えてくれた。白猫がグウで、黒猫がペコ。名前の由来は、お腹が空いていそうだったから、と先生の口から言われたときは思わず吹き出しそうになった。「先生が名付け親なんですか?」と冗談交じりに聞くと、先生は恥ずかしそうに、病的に白い頬の肌を少し赤らめ、恥ずかしそうに頷いた。
どこか、私はそれが嬉しかった。先にも言ったが、先生は表情を滅多に顔に出さない。入学後、担任であるにも関わらず、授業中もホームルームの時も、先生が表情を顔に出したのは、見たことはなかった。だから、なんというか、私だけ知っている先生の秘密みたいな、そんな子供じみたことに小さな幸せを見つけた。
それから私は、委員会活動のある水曜日でもなくても、度々、体育倉庫の裏に足を運ぶことがあった。結局私は、どの部活にも入らなかった。日紗子先生に理由を問われたが、「どの部活動にも興味が湧かなかった」と言うと、別に言い詰められることも無く、「わかりました」と相変わらずの無関心な態度で言われた。まぁ部活動に興味がないというのは嘘で、本当はただただ面倒くさく感じられたからというのが本音だった。クラスの子は粗方何かしらの部活動に参加していたので、毎日一人でまだ日も沈まない内に帰り、ただ茫然と家で漫画や音楽を聴いていた。そんな退屈な自分の部屋よりも、グウとペコと戯れていた方が、ずっと充実していたのだ。
――それに、部活動に入っていないからこそ、得られる機会もあったのだ。
「村上君、今日はもう帰るの?」
恥ずかしさを押し殺し、私は震える声で尋ねる。
「ああ、今から塾に行かなくちゃいけないんだ」
彼はニッと、私にとっては太陽よりも眩しい笑顔をこちらへ向けてくれた。夕暮れを背にした、私だけが見ることのできる彼の笑顔。
「そ、そっかー。じゃあ、また明日だね」
「おう、また明日な。さよなら」
掌を見せながら、慌ただしく教室を去っていった。私も縮こまりながら、小声で「さようなら」と。もう私しかいない空虚な教室に、緊張した声だけが反響する。
自分の顔から、まるで先ほどまでの微熱がすっと溶けて消えて行く。今日はダメだったなぁ、と大きくため息を溢した。
――もう解ると思うが、私は村上君のことが好きだ。
一目惚れ・・・・・とは少し違う。私は面食いではない。彼の顔が整っているのは確かだが、別に、彼の顔だけが好きな訳ではない。私は、そんな軽い女ではないのだ。
私が彼を好きになった理由。口に出せば丸一日は語れそうだが、一つだけ挙げろと言うのならば、多分、私が彼を好きになった原因、それは彼の『ハンディ』にあるのだと思う。
・・・・・彼には左腕がない。事故で失ったとかではなく、生まれつき、彼には左腕がないらしい。彼の制服の左袖は結んであり、何をするにも、彼は右腕一本で事を行わなければいけない。
彼の左腕のことは、誰が見てもすぐ理解できることだ。だが、日紗子先生は村上君に私たちと同じように接する。給食の配膳だったり、掃除のときのモップ掛けだったり、私たちは彼を手伝おうとするが、先生は指一本たりとも貸そうとはしない。ホームルームの時に、私たちに彼をクラス全員で支えようとか、一言でも声を掛けることくらいしてくれてもいいと思う。
だが、それが理由で、日紗子先生が嫌いになるとか、そういうことはなかった。きっと、私以外の皆もそうだろう。日紗子先生は地がああいう性格なのだ。だから、まぁ、先生は村上君に対して故意に冷たくしているのではなく、生徒に対しては基本、無関心なのだ。だから、皆口には出さなかったが、納得していた。
・・・・・話がずれてしまったが、彼のそう言った逆境の中でも、負けじと他の子と同じように生活できるようにと努力している所が、何よりも格好いいと思うし、好きなのだ。私たちが手を貸そうとすると、彼は口癖のように、「とってもありがたいんだけど、僕は自分でどうにかしたいんだ」と、爽やかで甘い声でそれを受け入れようとせず、自分で解決しようとする。
その謙虚な姿もまた、格好いい。気が付くと、彼の全てが格好良く思える。
だが、そんな彼も運動に限っては、やはりどうしようもない不利を背負っているようで、放課後は部活動には参加せず、隣町の塾へ行くらしい。だが、たまに塾のない日があるらしく、その日は決まって放課後教室で塾の宿題をしている。
一週間に二回あるかないかだが、それが、私が彼と一対一で話せる、唯一の時間だった。私はその甘酸っぱい時間が、この上なく好きだった。大好きな彼との時間は、まるでふわふわした綿菓子の様に甘く、短い。照れすぎてまともに彼と話すこともできず、時は去ってゆく。私はシャイガールなのだ。彼の顔をまともに見られるようになったのも、つい最近のことなのだ。・・・・・だが、そんなあたふたした私の姿を見て、彼は微笑んでくれる。その微笑みもまた、格好いいと感じてしまう私は病気だろうか。・・・・・まぁ、病気なら病気で、彼をこんなに好きでいられるのだ。別に構いはしない。
「村上君、今日も格好良かったんだよ」
吐息混じりに掠れた声で、グウとペコに餌をあげながら村上君の惚気話をする。給食の時の余ったコッペパンを千切ってそれをポイッと投げると、二匹の猫は余程お腹を空かせていたのか、ガツガツと一心不乱にパンに齧りつく。先生が、何故二匹にグウとペコと名付けたのか、なんとなくわかった気がした。
「なんかねぇー。村上君の笑い顔、最近は可愛いとも思えてきたんだよ」
目じりを下げ、福笑いみたいに目を瞑りながら、私はデレデレと一人で喋り続ける。そんな私を他所に、聞く耳は持ち合わせてない、と言わんばかりに、二匹の猫はコッペパンに夢中だった。けれど、ただ誰かと、いや、何かと彼のことを共有している気分になれれば、それで十分だった。別に、まじめに惚気を、誰かに聞いてもらおうとは思っていなかった。惚気話なんて、そんなものだろう。
水曜日以外は、こうして村上君の話をしながら、猫たちに餌をあげるのが日課になっていた。
・・・・・だが、さすがに水曜日は先生も一緒にいるので、そんなことは口が滑っても言えない。もし聞かれていたら、舌を噛んで死ぬ自身がある。――だから、後ろから「美景さん」と先生の声が聞えた時は、心臓が口から飛び出そうになった。
「せ、先生・・・・・!?」
手に持っていたコッペパンが、ボトッと土の上に落ちる。チラリと、先生の視線がコッペパンへと向けられる。
「給食の持ち出しは禁止されているはずですが」
この状況で、言い訳は何も思い浮かばなかった。
「・・・・・すみません」
深々と頭を下げる私の横に、先生はゆっくり屈み込む。先生は落ちたパンを拾い上げ、丁度半分になるようにパンを千切り、それを私に差し出した。
「私も一緒に餌をあげてもいいですか?そうしたら、今回のことは見逃します」
――先生の顔に表情が宿るのは、この二人の時間だけだ。私はクスクスと笑う先生の摘まんでいたパンを受け取り、先生と一緒に猫に餌をあげた。
「先生・・・・・さっきの、聞いていましたか?」
恐る恐る尋ねると、先生は「何の話ですか?」と尋ね返してきたので、ホッと胸を撫でおろし、すぐに話題を逸らそうとした。
「にしても、金曜日なのに珍しいですね」
「今日はたまたま職員会議が早く終わっただけですよ」
先生の投げたパンに、猫たちがかぶりつく。その姿を見つめる先生の顔は綻んでいて、いつも死人のように白い肌にも、心なしか色がついているように思えた。
それから数分経ち、先生は手元のパンを全て使い切ると、パッパッと服で手を払い立ち上がり「それではまた来週」と踵を返す。だが、何かを思い出したかのようにふと振り返った。
「言い忘れてました」
一気に心拍数が高まる。実は、村上君の惚気が先生にバレていたのではないだろうか。
「・・・・・今日は特別ですが、あまり猫にパンは与えないでください。この子たちはパンを上手く消化できませんから。・・・・・それでは」
そして再び、先生は歩みを進める。
驚かせるなよ、と言う代わりに、長く深いため息を吐いた。
気が付けば、私の手元のパンも最後の一切れになっていた。来週は、村上君と上手に話せるかな、なんて考えながら、大きく弧を描くようにパンを投げた。
「またね、グウ、ペコ」
私はカバンを握りしめ、パンに夢中な二匹に手を振った。毎日、退屈と言われればそうかもしれないが、それでも、決してつまらなくはなかった。なんとなく、充実していた。『人生は暇をどれだけ上手に食べられるかだ』、と誰かが言っていたが、私は今、きっと暇を美味しく食べられているのだと思う。
ただ、それも今週までの話であり、暇もいつか腐る時が来るのだと、私は想像すらしなかった。