六、この町の空気
翌日。朝起きて身を起こした瞬間、頭に鈍い痛みが走った。
「なんだろ……風邪かな。」
着替えたり顔を洗ったり動き回っている間も、痛みというか目眩のようなふわふわする感覚がある。その感じは、昨日バスを降りてすぐに襲われたあの頭痛に似ている。あれよりはだいぶ軽いけれど。
きっと疲れが出たんだろう。今日はまだ予定もないし、一日部屋で大人しくしていよう。……そう思いながら食堂で朝食を済ませ、部屋に戻ろうとした時だった。
「ひとみちゃん、ちょっといい?」
八重さんに呼び止められた。
「今日は体調はどう?」
きっと、昨日あんなふらふら状態で到着したから心配してくれたんだろう。
「ちょっと風邪っぽいけど、大丈夫です。今日は部屋にいます。」
「風邪っぽい? ってことはもしかして今日も昨日みたいな症状が出てる?」
「まあ、少しだけ……。昨日よりはだいぶ軽いですけど。」
「やっぱりね。ちょっと待ってて。」
そう言うと、八重さんは一度厨房の奥の扉から管理人室に引っ込んだ。やっぱりって、どういうこと? 八重さんはすぐに戻ってきて、プラスチックのペンケースのようなものを私に差し出した。首を捻りながらも、言われるままに開けてみる。
「眼鏡?」
「この町のことは幸から聞いたのよね。この町は妖の気が強くて、敏感な人はたまに気に当てられてしまうことがあるの。頭痛とか目眩とか、乗り物酔いみたいな感じね。昨日のひとみちゃんも恐らくそれよ。あの時は光が一時的に気を鎮めたけど、安定するための場がないと長くはもたないの。これに気を遮断するための簡単な場を作ったから、着けておいてもらえば頭痛も治まる筈よ。」
……うーん。言ってることは分かるけど、ファンタジックすぎてよく分からん。そう思いながらも、細い銀フレームの眼鏡をケースから取り出して掛けてみる。レンズに度は入ってないみたいだけど、心なしか視界が暗くなる。不快な暗さではない、強い光の眩しさが少し遮られる感じ。ガラス一枚でも違うものなのね。鼻の上に金具を落ち着かせ、まばたきを一つ二つするうちに、朝から続いていたふらふら感が嘘のように消えていった。
「どう? 酔いは治った?」
驚いて頷く私に、八重さんはにっこりと笑いかけた。
「良かった。その眼鏡無しで平気になるまではしばらくかかるかも知れないけど、辛抱して頂戴ね。」
「あ、ありがとうございます! あの、眼鏡代……」
「気にしないで。ただのファッショングラスだから、安物だし。この町で快適に過ごしてもらうための備品だとでも思っておいて。」
食い下がって金額を聞いたところで、八重さんは受け取ってくれないだろう。私は再びお礼を言って、その言葉に甘えることにした。
「ありがとうございます。あの、これって、八重さんがやってくださったんですか。」
「ん? 違う違う、眼鏡に細工したのは光よ。私も妖気とか霊気とかは分かるけど、そういう対処は出来ないただの人だから。」
光さん……管理人さんか。昨日バス停からここまで運んでもらった事といい、また助けられちゃった。
「お礼を言いたいんですけど、今いらっしゃいますか?」
「今日はもう出かけてるわ。しょっちゅうフラフラ出歩いてて、名ばかり管理人なのよ。私からもお礼伝えておくけど、近いうちに機会作れたら呼ぶわね。」
「ありがとうございます。」
お礼を言うどころか、まだ光さんの顔すらちゃんと見ていない。昨日見たのは、出かける後姿だけ。シュッとして背が高くて、短いストレートな黒髪で……そういえば、体格や髪の感じに加えて歩く癖、全体的な雰囲気がなんとなく幸さんに似ている。親戚だって言ってたっけ。
「幸さんに聞いたんですけど、親戚なんですか。幸さんと八重さんもなんだか似てますよね。」
「あら、幸の親戚は私じゃなくて光よ。私と幸には血のつながりはないんだけど、やっぱり親子として長いこと一緒にいると似ちゃうものなのかしらねえ。」
嬉しそうにくすくす笑う八重さん。親子かあ。
「そういえばその幸だけど、今日もルナちゃんとひとみちゃんに町を案内するんだって張り切っていたわよ。もうすぐ朝練から帰ってくるわ。」
「わあ、嬉しい。幸さんにもお礼しなきゃ。」
体調が復活したなら、部屋で休んでいる理由はない。予定変更!
私は八重さんから幸さんの好きなスイーツと、それが売っているお店を教えてもらった。一度部屋に戻って、薄手の上着を羽織り、ポケットに貴重品を無造作に突っ込む。ふと思い付いて隣の部屋のルナを誘ったら、喜んで賛成してくれた。私たちはふたり並んで、四月の空気と日射しの中へ飛び込んだ。