二、「普通」がほしい
「ひとみさんは、どうしてこの町に?」
雑談しながら部屋へ向かう途中、階段を上がりながら八重さんがそう尋ねた。
「これをみんなに聞くのが私の趣味なの。トイロ学園を知って入りたくなったって子もいれば、単に寮で一人暮らしがしたかった子、別に理由なんて無いって子もいるわ。みんなバラバラで面白いの。」
彼女は軽い調子でふふっと笑う。その「子」「みんな」の言い方が、本当に相手を子どものように思っている口調なのが印象的だ。失礼だけど、いくつなんだろう。見た目は若々しくて、高校生の子どもの親にはとても見えない。
八重さんの問いかけに、私は少しだけ考えて答えた。
「……『平穏』が、欲しかったんです。」
「平穏?」
「私、今まで何かと嫌なことに巻き込まれることが多くて。事件や事故を目撃してしまったり、クラスで変なことが起こって理由もなく疑われたり、友達の喧嘩に巻き込まれるのも日常茶飯事でしたし、中学上がってからは全く知らない女子に恋敵だと思い込まれて陰口たたかれたり……。今までの知り合いが全然いない、静かでのんびりした場所で、リセットしたくなったんです。」
私は一気に喋った。少し早口になってしまったのは、興奮してきた所為だろうか。
「それに、私、親がいないから、そのことみんな知ってるから変な目で見られるのかなって……。寮ならそういう事も目立たないから、普通に過ごせるって思ったんです。」
「そう……。色々、大変だったのねえ。」
八重さんはしみじみと、ただそれだけ言った。余計なことのついていないあったかい一言は、なんだかとてもほっとさせてくれた。部屋の前まで来ると、八重さんは急ににやっといたずらっ子のように笑った。
「平穏を求めるあなたには悪いけど、この町は穏やかではないかも知れないわ。それどころか、とっても賑やかで騒がしいくらいよ。」
「えっ。」
「ただ、あなたの言う「普通じゃないこと」が目立たないくらい色々な人がいて、しかも普通じゃないから嫌な目に遭うことなんて絶対ないって保証してあげるわ。」
そう言って彼女は綺麗にウインクひとつ。私はぽかんとそれをただ見ていた。彼女の言った意味が、私にはよく分からない。今日バスの窓から見た時に私が感じた印象とは、あまりにもかけ離れているように思えた。失礼だけど、とても賑やかで騒がしくて普通じゃない人がいるようには見えない、ただの田舎町って印象だもの。
「じゃあ、これ鍵。もし宅配便で届いていないのがあったら管理人室に言ってね。食堂は、夕食は一応十八時から用意できるわ。明日からの昼食と夕食は原則として前日までに申告だけど、今日は? ここで食べる?」
「あ、お願いできれば。」
「オッケー。じゃ、またあとで。メニュー表と掲示板は食堂の入り口にあるから、ま、気が向いたら見ておいて頂戴。」
私が驚きから抜け出せずにいるうちに、八重さんはさっさと必要事項の伝達を済ませて立ち去ってしまった。私は仕方なく、気を取り直して新しい部屋に足を踏み入れた。
部屋の中には段ボール箱が数箱積み重なっていた。恐らく他の生徒達よりも引っ越し荷物が格段に多いという事はないだろう。けれど、実家も貸倉庫もなくこれが私の全財産だと思えば、やはりかなり少ないと思う。作り付けのクローゼットに真新しい制服を掛け、私服を引き出しに仕舞い、空っぽのベッドに新しい寝具を置けば、片付けもだいたい済んでしまう。さっき貰った寮の規則は机の前に貼っておこう。すぐに使わないものは、とりあえず今日は机の脇や部屋の隅に箱のまま置いておくことにして、空いた段ボールを解体していく。あとで纏めるための紐とか、いろいろ必要なものを買いに行かなきゃ。
持って来た荷物以外に、買わなくてはいけないものや買いたいものは色々出てくる。学費その他は奨学金とか補助金で賄っているけど、余裕などない。自分の自由になる小遣いなど、無いに等しかった。
「……バイト探さないと。」
思わず溜息をついた。やることは山積みだ。
ちょうど、そんな時だった。部屋のドアがこんこんとノックされ、私は立ち上がってそちらへ駆け寄った。