七口目 声とおんぶ
「クラウン」
「大丈夫だよ」
恐る恐る声をかけた宗を振り返る。
それ以上追及させないように視線で制し、グッと手に力を込める。その瞬間水球がパチンと弾けた。反射的に腕で顔をかばうが、それは宗に降りかかることなく、血に染まったクラウンの白い掌に一気に集まりピンポン玉くらいの大きさになった。
「いただきます」
ニコリとほほ笑むと、小さく凝縮された水球を口の上でもう一度力を込めて握るクラウン。指の隙間から青く澄んだ水があふれ出し、開いた口の中に流れ込んでいく。まるで果物を握りしめ、そこからあふれた果汁を飲み干していくように。その光景をぽかんとした表情で宗は見つめていた。
最後の一滴まで飲み干すと、濡れた手をぺろりとなめる。
「ごちそうさまでした。薄味かなとおもってたけど、意外と味が濃かったな」
味の感想をつぶやきながらクラウンは振り返り、宗に手を差し出す。その手は真っ赤に染まっていたはずなのに今は血の欠片すらなかった。
そろそろと手を伸ばしてつかまれば、ひんやりとした手の温度が伝わってくる。いつもと変わらないクラウンの手だった。
引っ張るようにして立たされるが、よろめいてしまう。
「あらら」
「足に力が入らない」
「さっきは危なかったからね、気が抜けちゃったんだよ」
クラウンに支えられながらも何とか立ってはいるが、がくがくと足が震える。深呼吸をして気持ちをなだめようとしても一向に震えは止まらず、全身にまで広がった。
「いままで、こんなことあった?」
「自動車が突っ込んできたり、物が落ちてきたりっていうことは多かったけど、こんなことは初めてだ」
「ということは、やっぱり私がそばにいるからか。うっかり『領域』に入ってしまったし……。ごめんね、そーちゃん」
そろりと見上げれば沈痛な面持ちでクラウンは宗を見下ろしてきていた。
背中をゆっくりとさすり、ごめんねともう一度謝罪の言葉が降ってくる。
時々、クラウンのことがよくわからない。
興味のなさそうな顔をして、気付けばどこかにいて勝手に宗の私物を食べている。
でも、宗が傷つく前に必ずそばにいて、守れない時は、今と同じように沈痛な表情をする。
それは契約だからなのか、それとも……。
ぐるぐると考る。
「大丈夫」という言葉を吐き出そうとしてものどに引っかかり、「助けてくれてありがとう」と感謝が告げられない。カタカタと宗の意思に反してずっと震え続ける体。
ギュッと目をつぶった瞬間、
――どこ、どこなの――
「ん?」
「そーちゃん?」
――どうしてなの――
誰かのすすり泣く声が聞こえた。幼い少女のようなその声にふらついていることも忘れてきょろきょろと周囲を見渡す。
ぐるりと視線を巡らせていると、視界に何かがかすめた。
その方向に向き直り、じっと目を凝らすと
「建物?」
小さな古ぼけた建物のようなものが見えた。思わず一歩踏み出せば、後ろから襟をつかまれ、思わずうめく。
――どこに!!――
叫ぶような声がまた耳に届くと、同時に頭をガツンと殴られたような感覚がし、痣にビリっとした痛みが走った。
「そーちゃん、落っこちたいの?」
「え? あっ、うわっ!?」
「もう、危なっかしいな。何か気になることがあるみたいだけど、とりあえず帰ろうか。さっきのがもう一回来たら、少しめんどくさいから。ほら、特別におんぶしてあげる」
まるで意識をそらせようとするかのようにクラウンは早口でしゃべり、宗の目の前にしゃがむ。もう一度だけ振り返るが、睨むような鋭い視線に促されて、背中に覆いかぶさる。ゆっくりとクラウンが立ち上がると視点が高くなった。
「少し、早く走るからね」
それだけ告げるとクラウンは屋根の上を駆けだす。何か膜のようなものを通り抜けた瞬間、冷たい雨粒が二人を濡らし始めた。
そういえば雨が降っていたなと思い出す。家までそれほど遠くはないから、折り畳み傘を開く気力がない宗はクラウンの背中に顔をうずめた。
「そーちゃん、大丈夫?」
「一応……」
呼びかけに反応する声は小さく、背中にぐったりともたれかかっている宗。
何かを言おうとして、口を閉じる。今は休ませるのが一番だろうと判断し、屋根をつたい宗の家を目指す。
「クラウン」
「どうかした?」
「今の俺って、周囲の人から見えているの?」
うっすらと閉じていた瞼を開いて、道路の上で咲き動く色とりどりの傘を見つめてぽつりと聞く。いくら傘をさしているとはいえ、二人を見ないとは限らない。
そんな不安を予想に、楽しげな笑いを漏らすクラウン。
「安心して、今そーちゃんは誰からも見えないから」
「どうして?」
「私とくっついているからだよ。ほら、もう家につくから、起きて起きて」
「起きてるよ」
わざと高い屋根から飛び降りて、大げさに着地する。その衝撃で体が前後に揺れ、クラウンの背中に顔をぶつけ、鼻をおさえる。
ジーンとした痛みに耐えつつ、背中からおりながら感謝する。
「ありがとう、クラウン」
「どういたしまして」
「……ありがとう」
守ってくれてと続ける前にクラウンはさっさと家の中に入ってしまう。ドアを通り抜けてはいる姿にも慣れてしまった。クラウンは壁があったとしても通り抜けてしまう。
便利だなと思いつつ、相変わらずこっちの話をあんまり聞いてくれないなとも思う。
宗に危害が及ばないようにするのは契約だからだ。
それ以外の時はきまぐれで、ふと目を離せばいつの間にか消えているということが多い。
「仕方ないんだけど」
今は、傍にいてほしいな。
ため息を吐いて、家の中に入る。
誰も帰宅していない家の中はがらんとしていて少し寒々しい。いつものことだと考えるが、予想外のことがあり気分が落ち込む。
のろのろと動き、自分用のおやつが入った棚をのぞいて飴を一粒とり、口の中に放り込む。
じんわりとした甘さが少しだけ慰めてくれた気がした。
「クラウンは、もう部屋にいるのかな?」
雨に濡れたままベッドに座ってないといいんだけど、ちょっとした不安を抱きつつ目に留まった物を手に取って、宗は二階にある自室へと向かった。