三十三口目 黒と違和感
「これは夢」
宗は同じ言葉を繰り返しつぶやいた。自分に言い聞かせるために。そうしなければ、恐怖にのみこまれてしまいそうになるからだ。
「全部、真っ黒」
目の前は塗りつぶされたように闇が広がっていた。それ以外は何も見えなかった。宗の体は、金縛りにあったようにピクリとも動かない。そのせいで、他に何があるかわからないのだ。
見える範囲で状態を把握した結果が、黒一色だった。無理やり声を出して、静かすぎる空間に音を響かせる。
「どこなんだろう」
黒い闇は宗にとって恐怖の対象だった。呼吸がしづらくなり涙もでてくる。理由はわからないが、ここにいてはダメだと思うのだ。
意識をそらすためにポツポツと言葉を漏らし続ける。
「寝てたはずだよね、俺は」
深呼吸をする。においはない。吸い込んだ空気は冷たくはないが、暖かくもない。
「変な夢でも見てるのかな?」
寝ている間に人は頭のなかを整理するらしい。その途中で意識だけ目覚めてしまったのかもしれない、と宗は考えた。
「ちょうどいいから、ここ数日の状況を整理しよう」
もう一度深呼吸して、気持ちを落ち着かせる。声が震えていることも気のせいだと呟いて、ゆっくりと襲撃翌日のことを思い返す。
「変な人たちがくるかもしれないから、学校に行かないほうがいいんじゃないかって、クラウンに相談したんだよね。普段と同じ生活をしていないと怪しまれるからって、却下された」
その時のクラウンは真剣な表情をしていた。普段から、あんな顔をしていれば怖くないのに。もったいないなとぼやいて、溜息。
「なにかあっても、私が守るから大丈夫って言われて無理やり納得した。俺もクラウンも警戒しながら、学校に行ったけどなんにもなかった。びっくりするほど、なにもなかった。クラウンに、俺のおやつつまみぐらいされたけど」
警戒しているとお腹すくんだよとかいって、ドーナッツを半分食べられた。しかも、一口で。文句を言おうとしたが、窓の外をにらむ目が怖くて、それが自分に向けられないように宗は言葉を飲み込むしかなかった。
「あれ?」
体が動くのならば、首をかしげていた。それが出来ないので、数回瞬きを繰り返す。記憶があやふやだ。拍子抜けするような日常を、緊張感を持って過ごしていたせいなのかもしれない。
学校に行ったことは覚えているが、授業の内容が思い出せない。それどころか、誰と何を話したかすら記憶に残っていない。
「今まで、こんなことなかったのに。でも、クラウンのことは覚えてる。……クラウンどこにいるんだろう?」
普段よりも傍に、言葉で表すならばぴったりと張り付いていたクラウンの気配がない。そのことにも気づかなかったことに対して、宗は不安を覚えた。
引っ込みかけていた恐怖が、出てこないように深呼吸を繰り返す。
「見えないだけなのかな」
クラウンの姿を見つけようと目をキョロキョロと動かす。
その時何かが動いた。周囲と一体化していて、形はわからない。ただ、ズルリと何かを引きずるような音が、耳に刺さる。
ごくりと唾を飲んだ。汗が噴き出てくる。
「クラウン」
反射的に名前を呼んでいた。助けてと思いを込めながら。叫んだつもりだったが、かすれて囁くような音しかでない。ズルリと、また何かが動く。
「クラウン」
なにかが近づいてくる。逃げたくても逃げられない。だから、呼ぶことしかできない。 近づいてくるものに触れられてはいけない。なぜだかは、わからない。が。その考えは頭のなかをぐるぐると回る。
耐えていた涙がこぼれた。一つ、二つと頬を伝って落ちていく。
恐怖に飲み込まれそうな宗を救ったのは。
「宗?」
クラウンが名を呼ぶ声だった。
見つめる先から響いてきた音に、安堵が胸いっぱいに広がっていく。
「よかった」
もう大丈夫だ。
宗は、安心するのと同時に驚いた。
隠していることが多く、何を考えているかがわからない。時折、怖い眼差しを向けてくるクラウン。
彼の存在にほっとしている自分にたいして。
「どうして、ここにいるの」
「どういうこと?」
姿を見せないクラウン。声が震えていることから、動揺していることが伝わってくる。
ここは、なにか問題がある場所なのではないか。安堵がしぼんでいくのを感じて、また涙がこみ上げてきた。
「宗、ここへはどうやってきたの?」
「わかんない、きづたらここにいた」
「今の状態は?」
「……体が動かない」
「そうか。痛みはある?」
「それはない」
唐突な問いかけに何とか答えていく。嗚咽をこらえるために小さな声になってしまったが、伝わっているようだ。
「ただ、記憶があやふやになってる」
「え!?」
「クラウン?」
カツカツと足早に近づいてくる音がした。ここ、床のような場所があるんだとずれたことを考える。
闇の間からにじみ出るようにクラウンが現れた。金の髪に、飴のような琥珀色の目。白いコートをまとった姿は、記憶の通りだ。
ただ、ひどく焦った顔をしていた。
「記憶があやふやなだけだね?」
「え、うん」
「なら、まだ間に合うか」
「どういうこと?」
「言えることは、宗を私の事情に巻き込んでしまったということだけ」
伸ばされた両手が、その頬を包み込んだ。ひやりとした感覚に目を閉じる。
そのまま閉じていてくれてと、吐息のかかる距離で言われたので、閉じたままにした。
「これは変な夢。目を覚ませば、いつも通りだから」
「クラウン」
「ごめんね。……さぁ、起きるんだ!」
優しく頬を撫でられたと思ったら、手が離れていく。
次の瞬間、強く肩を押されていた。体が後ろへと倒れていく感覚に、目を開く。
完全に体が倒れる前に見えたクラウン。
その顔はなぜか、黒一色だった。
「うわっ!」
パチパチと何回か瞬きをする。視界に入るのは見慣れた天井だ。勢いをつけて起き上がる。体はきちんと動いた。
目の高さにまで手を持ち上げ、グーパーを繰り返す。
「なにしてるの、そーちゃん」
「クラ……ウン?」
「おはよう。どうしたの、ぼんやりして」
「……おはよう。ねぇ、クラウン。ちょっと顔に触らせてくれない?」
「え?」
「お願い」
逆さまで現れたクラウンの顔が驚きに染まる。真剣に頼めば、しょうがないなと言わんばかりに微笑み、頷いてくれる。
そろそろと手を伸ばして、頬に触れる。なめらかな肌の感触が指先に伝わってきた。顔の輪郭をなぞってみる。
「くすぐったいよ」
「顔、ある」
「当たり前でしょう。顔がなかったら、どうやってご飯食べたり、そーちゃんとお話したりするというのさ」
「うん、そうだよね」
変なそーちゃんと笑いながら額をつかれた。その勢いで、ベッドに背中から倒れる。じたばた両手両足を動かしてみた。埃が舞ったのか、上に浮いているクラウンがくしゃみをする。
「あれは、いったいなんだったろう。夢?」
「変な夢でも見たのかい?」
「うん、見た」
「どんな夢だったの?」
「なんか黒い空間で、体が動かなくて、そうしたらクラウンがでてきた。それだけ」
「私が出てくる夢は、そーちゃんにとっては変な夢なんだね」
じっとりとした視線を向けられて慌てて、違うという。ふいっとそっぽを向いてしまったので、機嫌を損ねてしまったようだ。
「だって、クラウンがこれは変な夢って言ってたから」
「ふぅん。なら、変な夢のかもね」
振り返った顔にはいつもの謎めいた笑みが浮かんでいた。そのことにほっとする。
「ま、平日の間ピリピリしていたからかもしれないね」
「今、何曜日だっけ?」
「土曜日。時刻はお昼前だね。そーちゃんの家族は出かけちゃったけど、そーちゃんはどうする?」
「ごはんたべてから考える」
「そう? それと実のことなんだけどね」
枕元に置いてある実を反射的に見る。コロンと変わらずの形で鎮座していた。
「今日か、明日には使えるようになるってさ。ジェフがわざわざ言いに来た」
「そう、なんだ」
「あいつも、こんなに早いとはって驚いていたけどね」
「なら、ミノリさんの所に行こうか。どうするべきか、意見を聞いてみたいし」
クラウンが嫌そうな顔をした。が、嫌という言葉はなく、下に行っていると一言だけで部屋を出ていく。
「俺も、行こう」
とりあえず実も持っていこうと考え、触れた瞬間。
「わっ!」
実が輝いた。ゆっくりと明滅を繰り返す。じわりと温もりも帯びた。
「なにかが、あるのかな。いや、きっとあるんだろうな」
ぎゅっと実を握りしめ、これからくるであろうなにかと相対するための覚悟を、宗は固めたのだった。




