三十二口目 痛いと冷たい
クラウンの体が大きく傾いた。
「クラウン」
宗は立ち上がって手を伸ばしていた。地面へと倒れこむ前に腕を掴む。足に力が入りずらいせいで、そのまま一緒に崩れかける。
が、地面に転がる前に突き飛ばされていた。
「触るな!」
敵意に満ちた声で怒鳴られる。宗から触れると、拒絶されることが当たり前なので、そのことに対しては何の感情もわかない。
手をさする。強く払われたわけではないが痛むような気がした。
「ごめん」
瞼を軽く伏せて小さな声で謝る。
宗の言葉にクラウンははっとして、顔をゆがめた。
「いや、大丈夫だよ。そーちゃん、支えようとしてくれたんだよね? ありがとう」
「うん」
倒れはしなかったが、膝をついて荒い息を吐くクラウン。それでも、宗に微笑みかけ礼を口にする。その姿をじっと見つめ、自分の手のひらへ視線を落とした。
「クラウン、聞いてもいい?」
「答えられることならね」
「さっき食べてた物って体に悪いもの?」
「どうしてそう思ったの」
「クラウンの腕が冷たかったから」
自分の手を開いたり閉じたりしながら、宗は首をかしげた。掴んだ腕がコート越しでもわかるくらい冷たかったのだ。時々、クラウンのほうから触れてくることがある。その手はひやっとするが、すぐに宗の体温を奪って温まる。
が、今は。
「氷みたいに冷たかった」
「あー……」
「クラウン?」
「ジェフがくれたものがね、体の熱を下げてくれる成分が入ってるんだ」
「なんで、熱を下げる必要があるの?」
「私が溶けてしまうから」
どういうこと? と疑問を含ませた視線を向けても、答える気はないらしい。立ち上がって深呼吸を始める。荒かった呼吸は次第に整っていき、苦しげに歪んでいた表情は、いつもの謎めいた笑みに戻る。
妙な空気を断ち切るように、宗は手に持った物を掲げた。自然と視線がむかい、いやそうな表情をするクラウン。
「それにしても、厄介なものに関わってしまったね」
「本当なの? この卵みたいなのが、時を戻せるのは」
「さぁてね? 私はそれを使っているところなんて見たことがないから。ジェフの言葉を信じるのならば、すごい物だっていうことは理解できるけど」
「だから、クラウンがかじれなかったのかな?」
「そういうことは覚えているんだよね、そーちゃんは」
何でも食べられると思っていたクラウンが食べられなかった。そのときのことはしっかりと記憶に刻み込まれている。あまりの硬さに歯を痛めて、涙目になっていたことも。
滅多に見れない姿を思い出して、口元を緩めれば睨まれた。琥珀色の目がきゅっと細まる。あわてて唇を引き結ぶ。
「これから、どうしよう?」
「あいつらはまだ追いかけていると思うけど……」
「すごい勢いで飛んでいったよね」
あっという間に見えなくなった。空を見上げながら、クラウンの脚力に感心する。ボールを蹴ったら、破裂してしまうかもしれない。
「今度やってもらおう」
壊れてしまっても、クラウンが結局は食べてしまうから。
なんてことを考えているとも知らず、いつになく真剣な表情で名を呼んでくる。
「また襲撃されるかもしれない。さっさと帰ろう。歩けそう?」
「たぶん」
立つことはできているが、足はまだ震えている。全力疾走をしたせいだ。背中の痛みもまだなくならない。
宗の様子に、クラウンは表情を曇らせる。
「ちょっと厳しそうだね」
「もう少し休めば……」
「その時間すらも惜しいな。そーちゃん、乗って」
「え」
背を向けてしゃがみこんだクラウン。言葉と体勢から、おんぶするということなのだろうが宗は後ずさりした。くるりと振り返って、どうしたのと問いかけてくるが、あーやうーと言葉を濁す。
「そーちゃん」
「だって、クラウン怪我してるし」
宗の言葉に、クラウンはきょとんとした。先ほど戦っていたとき、ちらりと見えた背中には矢が数本刺さっていた。食べてしまったのか白い背中に、痕跡はない。が、痛むはずの背中にくっつくのはちょっとと続ければ、ケラケラと笑い声を上げる。
「大丈夫だよ」
「でも」
「私に、傷はできないんだよ。痛みはあるけどね」
「……そう」
どういうこと?
また、口から飛び出しかけた疑問をぐっと飲み込む。言葉がこぼれていたとしても、いつものように笑うだけだろう。クラウン自身のことは何も教えてくれないから。
さぁ、と再度促され恐る恐る白い背中に乗る。
横顔を伺うがけろりとした表情である。本当に痛まないらしい。
「走るよ」
「うん」
宗がしっかりとつかまっていることを確認すると、駆け出す。以前、背負われたときよりも速度が遅い。
「クラウン、疲れてる?」
「うん、すこし」
「そっか」
軽く息が上がっているクラウンに申し訳ない気持ちが湧き上がる。それを見透かしたのか、振り返った顔には呆れの色があった。
「そーちゃんは気にしなくていいのに」
「といわれても」
「私がしたかったことだから、もう気にしない。飛ぶよ」
「えっ、わぁ!?」
クラウンが飛び上がったので、慌ててしがみつく。肩からかけた鞄の中から、カタカタという音がした。手を離せば落ちてしまいそうなので、視線だけを向ける。
「割れてないといいんだけど」
「マグカップ?」
「うん」
「そーちゃんがしっかり持ってたから、大丈夫だと思うけどね」
トントンと、軽やかに屋根の上を渡っていく。景色が後ろへと飛んでいくのを見ながら、白い背中に頬をつけてみた。ひんやりと冷たい。殴られた頬の熱が吸われていくようだ。グリッと擦り付けてみる。
ビクンとクラウンは震えたが振り落とされることはなかった。
「そーちゃんは、熱いね」
「走ったからだと思うよ」
「ちゃんと、生きてる証拠だよ」
しみじみとした口調でクラウンは呟く。感情を押し殺しているらしく、声が震えていた。そのことについても聞けなくて、宗は黙って家に着くのを待つ。
「とーちゃく」
「ありがとう」
トン、と家の前に飛び降りるクラウン。その背中から滑り降りる。走っていても彼の体には、熱が戻らなかった。
「まず、水晶設置しないと」
「守りの壁がないからねぇ」
鍵を開けて中に入り、力の入りにくい足で自室へと向かう。家の中はシンとしていた。まだ誰も帰ってきてないらしい。
「これで、よし」
いつもの場所へと、黄水晶を設置する。水晶がチカリと輝いた。それは瞬きの間に消える。普段のように守られた感覚が戻り、宗はほっと安堵の息を吐いた。
「そーちゃん、もう大丈夫そう?」
ふよふよと背後で浮いているクラウンを振り返り、頷く。そっかと笑ったクラウンは、手を伸ばしてきた。
「まだ、喉痛む?」
「少し」
声は出るようになったが、ひりひりする。喉をさすりながら答えれば、その手をやんわりと剥がされた。
「ちょっと変な感覚があるかも」
と、言うなりクラウンは喉に触れてくる。正確には、掴まれた。急な行動にピシリと固まる宗。そのまま手に力がこめられ、軽く締められる。
「な、にを?」
突然の行動に動揺を隠せず、震える声を出す。出会いの記憶が引っ張り出された。
そんな宗を安心させるように微笑むクラウン。
「大丈夫」
「あつっ!」
カッと触れられている部分が熱くなり、声を上げる。が、その熱はすぐに収まった。白い手が離れていく。
喉に触れる。何度か撫でて、首をかしげた。
痛みがなくなっているのだ。
「なにをしたの?」
「ちょーっとね」
「やっぱり答えてくれない」
いつものようにはぐらかされる。じっとりと見つめても、答えは返ってこない。聞いても仕方ないとあきらめたとき、クラウンが小さい声で呟いた。
「喉に、呪いの力がくっついていたんだよ」
「え?」
それを拾い上げて、驚きの声を上げる。反射的に喉へと触れた。違和感は特にない。
ふわりと近づいた琥珀の目を見上げれば、ウロウロと動いている。まるで、伝えることを迷うように。
「教えて」
宗の言葉にゆっくりと瞬きをする。視線が手の下にある喉へと注がれた。
「ずっとそーちゃんを見下ろしていたし、感情に振り回されて気づけなかったんだけど。おんぶて振り返ったときに見えたんだ」
「なにが?」
「宗の、喉に張り付いている奇妙な模様が」
「俺の声が出なかったのは、それが原因?」
「だと思う。その呪いの証と似ている赤黒い模様が」
ここにと、自分の喉を示すクラウン。手の甲を見る。そこにはくっきりと刻まれた楕円形の模様。
これが、喉にも。想像して宗は身震いする。
「呪いと同じ感覚がしたから、私が食べちゃった。ごまかしたのはそーちゃんを不安がらせないためだったんだ」
「教えてくれないほうが、逆に不安」
「わかった。今度から伝えるよ」
呪いに関わることは、とクラウンは約束してくれた。ほっとしながら、ベッドに座る。そのまま横になれば、睡魔がやってきて瞼がおちていく。どっと疲れが出てきた。
「そーちゃん、眠い?」
「うん」
「そりゃそうだよね。全力疾走して、いろいろ追い詰められたから」
寝ていいよと、優しい声が降ってくる。ひやりと冷たい手が、サラリと髪をなでた。
「私が見張っておくから。お疲れ様、そーちゃん」
「クラウンも、休んでね」
重い瞼を持ちあげて見上げれば、クラウンは目を丸くした。そうだねと、曖昧に微笑みながら頷いたのを確認し、目を閉じる。
「おやすみ」
緊張の糸が緩んだ宗は、安堵に包まれながら眠りに落ちる。なにがあっても、クラウンがいるから大丈夫。
そう思いながら。