三十一口目 ジェフと砂糖菓子
見えざる壁に亀裂が入る。少しずつ砕けていく音がその場を彩っていく。
パリパリと割れていく乾いた音は、へたり込む宗とその様子を見つめるクラウンの二人にしか聞こえない。
夕方の金と朱色が少しずつ混ざりながらも本来の色を取り戻していく空。
その鮮やかさは目を奪われそうだが、今の二人にはそれを見る余裕がない。
宗は口を開いたり閉じたりする。何か言おうとするが音にならならい。喉の奥に引っ込んでいく言葉を引き出そうとして、もごもごと口を動かす。
クラウンも、言葉をかけようとして迷う様子を見せていた。琥珀の目をあちこちへと動かし会話の糸口を探している。
互いに気まずい沈黙が落ちる。
それを破ったのは、拍手の音だった。唐突に響いた音にびくんと反応する。
拍手に合いの手を入れるようにカツカツと靴音が。
感嘆をあらわすような口笛が重苦しい沈黙を切り裂いた。
その音に一歩後ずさる宗。守るように彼の前へと立つクラウン。
先ほどとは別の緊迫した空気が急速に生まれる。
「相変わらず、すさまじいことで」
畏怖することなく楽しげな声を伴って現れたのは一人の男。クラウンの背後から顔を出し、相手を見た宗は驚く。
高級そうなスーツ、後ろに撫で付けられた黒髪、笑うように細めている銀の目。
昨日、少し会話をした男だった。
「お見事。さすがはクラウン様だな」
「ジェフ……」
「ジェフ?」
キョトンとする宗とは対照的に、不機嫌そうなクラウン。小さく吐き捨てるように男の名が呟かれ、それを宗が拾い上げる。首をかしげながら呼んでみれば、明るい笑みを浮かべてうなずかれた。
銀色の目が優しく細められる。
「おー、坊ちゃん。昨日ぶり」
片手をひらひらと振る姿がおかしくて気が抜ける。敵意のある人物ではないと理解した宗は、警戒と無駄に入っていた力を抜く。
が、目の前に立つクラウンの背中は強張っており、威嚇するように低い声で唸っている。
いつもと違うその姿に不安が膨れ上がる。チラチラと白い背中とジェフを交互に見ればジェフがため息をはいた。
「クラウン様。俺に敵意を向けるの構いませんがね」
やれやれと言わんばかりに頭を振り、浮かべていた笑みを引っ込める。
「後ろにいる坊ちゃんが不安がっていますから、一回クールダウンしたらどうですか? 現時点で、俺があんたに対してなにかしても、メリットはないんですから」
「……ちっ」
不快そうに舌打ちをするクラウン。その珍しさに宗は目を丸くする。斜めに立っているので、整った顔に浮かぶ不機嫌そうな表情が見えた。
はっきりと嫌悪を表すことは今までなかったので、ぽかんと呆ける。
その表情がおかしいのかジェフは吹き出し、腹を抱えて笑う。
「喜怒哀楽が素直な人だね」
「ジェフは隠すってことをしないからね」
思わず呟けば、それを聞いたクラウンがぼそりと言葉を返す。涙を流してまで笑っているところを見ると、相当おかしな表情を宗はしているらしい。
口も閉じ、目を細めるが明るい笑い声は止まらない。
「あー、笑った。ずっと見てたけど、坊ちゃんがそこまで表情を崩すなんて」
クラウン様もはっきりと表情を出すしな。
喉の奥で笑いをかみ殺しながらジェフはさらり、ととんでもない言葉を吐くので、柳眉がどんどん寄っていく。
はっきりと怒っていますという表情に、そろりと下がっておく。
「とりあえず、クラウン様にはこれを」
ポケットの中に手を入れ、取り出したのものを無造作に放るジェフ。それを反射的に受け取ったクラウンはクンと匂いをかぎ、一つ溜息を吐いた。
手のひらに収まるほどの巾着を開くと、中のものをつまんで口の中に運び始める。
なんだろうと不思議そうに宗が見詰めれば、眉間にしわを寄せたままのクラウンが振り返る。差し出された手のひらにのっているのは、砂糖の衣をまとった何かだった。
おそるおそるつまんでみれば、ふわっと二種類の香りが宗の鼻をくすぐる。青空に水を注いで淡くしたような色。そこから砂糖と果実の甘さが漂ってくる。
手で丸めたような不格好な形。
ジーっと見つめ、食べていいのかと問いかける。二人が頷いたのでパクリと一口で食べた。じんわりとした甘さが口の中で溶けていく。心の隅に引っ掛かっていた恐怖も一緒に溶かしたような気がして目を細めた。
ゆっくりと咀嚼して飲み込めば、無意識のうちに言葉がこぼれる。
「おいしいです」
「そいつはよかった。体力を使った後は、甘いものが一番だからな」
「ありがとうございます」
かすれた声で礼を言えばどういたしましてと嬉しそうに返事をしてくれる。宗の様子を見て、甘いものを食べているはずのクラウンは苦々しい表情を浮かべた。
「それで……」
「はい?」
「あれは、いったい何が目的だ」
菓子の入っていた巾着もムシャリと噛みちぎりながら鋭い声でクラウンが問いかければ、すっと真面目な表情になる。
宗は鞄をぎゅっと抱きしめた。背中やのどの痛みはまだ治まらず、ジンジンと熱を持っている。無理やり大声をだしたこともあり、かすれはとれない。
それでも、向き合うために視線を向ける。
問いをこめた眼差しを受け止めるジェフは肩をすくめ、やれやれと呟くと話し始めた。
「あいつらの目的は、坊ちゃんが投げてクラウン様が空の彼方に蹴り飛ばしたアレです」
「それは理解しているよ。なりふり構わず飛びかかってきたからね」
「なぜ、あれを必要としているかは言いませんよ。あんたら二人には関係のないことだから」
「関係あるよ、巻き込まれてるんだからさ。説明してくれない?」
「たとえ、命令されたとしても言うつもりはありませんよ。俺たちの世界のことですが、こっちにいるクラウン様には関係ないことでしょう」
「ジェフ」
冷たい声で名を呼ばれても、表情を崩さずに淡々と言葉を返すジェフ。さっきまで腹を抱えて笑っていたというのが信じられないくらいに。
宗は次々と落とされる情報を、頭の中でなんとかまとめていく。
その様子を見透かすように、ついっと銀色の目が見下ろしてきた。
「あと、あいつらの対処については俺のほうですでに手は打ってます。だから、完全に熟すまで逃げ回っていてください」
「逃げ回ると言われても、俺は学校あります……」
「クラウン様がついているから大丈夫だ」
でしょう? とジェフが軽い調子で問いかければ、答えを得られなかったことに不満そうな表情をしつつ肯定するクラウン。
それならばと、宗も小さくうなずく。
「熟すまではあと三、四日ってところかな」
「熟したらなんでも願いを叶えてくれるんですか?」
「うーん、不正解だけど正解。誰にどんなふうに説明されてんだ?」
問いかけてくるジェフに、ミノリから聞いた内容をかいつまんで伝える。すべて聞き終えるとうめき声をあげながらオールバックの髪をかきあげた。
ふわりと、香水の匂いが漂ってくる。クラウンとはまた別の、大人の色気というものだろうか? それが一緒に流れてくる。
「願いを叶えるには、叶えるな。でも、それはどんなものでもない」
「どういうことですか?」
「あー敬語はいらん。堅苦しくてしょうがない、呼び捨てでいい」
「……でも」
「そーちゃん、ジェフに敬語使うだけ無駄だよ」
「ひどいなー」
唇をとがらせて不満を漏らすジェフを、クラウンは鼻で笑い飛ばす。彼らが本来いるべき世界でのやり取りが垣間見えて、宗は小さく笑みをこぼした。
と、その頭にゴツンと何かが落ちてきた。痛いとうめきながら、コロコロと転がるものを見る。それは宗の予想通りのものだった。ジェフの磨かれた革靴にぶつかり止まる。
「こいつはな」
転がってきた卵型の実を拾い上げて、手のひらの上でポンポンと弾ませる。
「時間を巻き戻せる」
真剣な表情でジェフは告げた。沈黙が流れる。
宗は手を伸ばし、白いコートの袖をつまんで引っ張る。自分へと意識がむくのと同時に耳を示す。
「クラウン。俺、耳もおかしくしたのかな?」
「私の耳もおかしくなったのかも。ジェフは普段ふざけたこと言わないから。口調がぞんざいでも、冗談なんて言わないし」
「冗談言ってないから!」
「って言ってるけど」
「うーん?」
「クラウン様はともかく、坊っちゃんまで!」
ちゃんと俺の話を聞いて! と怒るので、えーと二人は声を揃える。
不満そうな声を咳払いをして払い真面目な表情に戻る。さてと、と仕切りなおすジェフ。
「この実は時間を巻き戻せる。戻せる時間は大きさによってまちまち。この大きさだと一年以内か」
「本当に?」
「本当だ」
疑いの眼差しを向けられても、真剣な眼差しをするので、一応信じることにする。
「これを使う方法は、戻したい人物に食べさせる。建物とかだったら埋めるだな。条件は熟してすぐってことだけど」
「なんか、条件厳しいね」
「しかも希少なもの。だからこそ見つけたら何がなんでも手にいれたがるんだ。これのせいで……」
言葉を飲み込みながら、同時にポンと放り投げられる実。それは放物線を描いて宗の足の間に落ちる。そっと掴めば、カイロのような暖かさが掌に伝わってきた。
胎動するように明滅を繰り返している。
「それは坊っちゃんが持ってろ」
「なんで?」
「んー、必要になるから。さてと、伝えることは全部伝えたから俺はそろそろ行きますよ」
「さっさと消えろ」
「おー、怖い。……あの二人についてはまだ誤魔化しておいてあげますから。坊ちゃん守ってあげてくださいな」
「言われなくてもそうするさ」
取りつく島もない様子のクラウンに苦笑を浮かべるジェフ。だが、表情を引き締めるとす宗のほうへと近寄ってきた。
つかつかと、あっという間に目の前に来ると、長い足を折り曲げ目を合わせた。
「いいか、坊っちゃん。それは、なんでも元にもどせる」
「え?」
「これを使うときから一年前まで巻き戻せる。半年前でも、二週間前でも、数日前でも。使い方は本能的にわかるだろうよ」
真剣な眼差しが注がれる。揺るぎのない銀色の目は、何かを伝えようとしていた。
それを見返して、秘められた言葉を探す宗。
「強く望んだ時間にまで戻せるからな。わかったな」
「わかった」
「よしっ、うおっと!」
「近いんだよ」
あわてて飛びのくジェフ。彼の頭があったところを、蹴りが通り過ぎた。クラウンがジェフの頭を蹴ろうとしたのが、危ないなという文句でわかった。
「ひどいですよ、クラウン様」
「用件はもうないんでしょ」
更に不機嫌さが増したクラウンの声に、妖艶な笑みを浮かべたジェフは頷く。彼は片手をひらりと振ると歩き出す。
振り返って念を押すように宗を見つめたあと、角を曲がって消えた。
「時を巻き戻す」
宗がジェフの言葉を繰り返すのと同時に、クラウンの体がぐらりと傾いた。




