二十六口目 今の本心と脅し
『まったく、あんたの世話は俺たちじゃないときっとできないな』
あえて思い出さないようにしていた声が自分の中で響きクラウンは顔を歪めた。その声を振り払うように頭を左右に振り、追い出そうとする。だが、声は消えずさらに反響した。
彼が舌打ちしかけた瞬間、不思議そうな声が反響する声を打消し落ち着かせた。
「クラウン、どうかした?」
「え?」
ハッとして意識を現実に戻せば、至近距離で覗き込んでくる漆黒の目。ギョッとしつつ今どこにいるかを思い出せば、覗き込んできているのが誰かわかる。
伊集宗。クラウンが契約をし、守っている少年。呪いという極めて希少なものを抱えた子供。
「そーちゃん」
「気分でも悪い?」
名前を呼べば、小さな手が伸びてくる。だが、その手はピタリと途中で止まり引っ込んだ。何度か反射的に叩き落としたり、拒否したのだ。馬鹿でない限り触れられることが嫌いだということを理解するだろう。
細められた光を吸い込む黒い目を見返して、いつものように薄く笑い大丈夫だと返す。
「ちょっと嫌なことを思い出しただけだから、気にしないで」
「そうなの?」
「うん。そんなに変な顔をしてた?」
こくんと小さな頷きが返ってきたので、反射的に顔を撫でたクラウン。ムニムニと自分の頬を触り表情の変化を確認する。その様子がおかしいのか、宗の表情が微かに緩み小さく笑みが浮かぶ。
ムッとしつつ手を伸ばして、頬を抓れば笑みはに眉間にシワが寄った。
「やめて」
「そーちゃんが笑うから」
「面白かったから仕方がないじゃないか。俺が同じことをしたらクラウンも笑うと思うけど」
「笑うかはわからないよ?」
パッと手を放すと、微笑ましそうに二人の様子を見ていたミノリに視線を向ける。宗に向けていた穏やかなものとは打って変わり、どこか険のある視線を向けられた彼女はハッとして姿勢を正す。
「それよりも、これの名前って知らないの? わかれば食べれると思うんだけど」
「ごめんなさい。そこまで調べきれてなかったみたい」
肩を落としてしまったミノリに向けて、クラウンは舌打ちをした。珍しく苛立ちを露わにしている彼の様子に不思議そうにしつつ宗は立ち上がる。
どこにいくのかと声をかければ、
「トイレに行く」
と言いながら部屋を出て行った。
気配が遠ざかっていき、徐々に室内の空気が重たくなっていく。クラウンは浮かべていた笑みを引っ込めると、探るような目を向けてきている女を軽く睨む。
警戒と敵意が混じり、さらに重苦しい空気になる。
口元を歪めるようにして彼は笑う。宗には、まだ見せたことのない邪悪と呼べるような笑み。ミノリは怯むことなくその笑みを見返す。
「あなたに聞きたいことがあります」
「聞いてごらん、気が乗れば答えてあげよう」
「あの子とはいつ知り合ったの」
「一か月くらい前だったかな。梅雨の晴れ間に、こんにちは」
「どうしてあの子の近くにいるの? あなたのその内包する力ならば、言い方は悪いけれども好き勝手出来るでしょう」
「見つかりたくないし、あの子とは利害の一致がある。それに」
ぺろりと赤い舌で薄い唇をなめる。細められた目には恍惚な光が宿り、場にそぐわない気の抜ける音が鳴り響く。この場に宗がいれば、無表情に呆れの色を浮かべて溜息を吐いただろう。だが、彼は今いない。
だから腹を空かせる王は楽しげに言葉を紡ぐ。
「とてもおいしそうだからね、宗は……。魂も体も」
「あなたは……!」
バンッとテーブルを叩き怒りに燃える瞳を向けられるが、クラウンはさらに笑みを深めるだけ。それが今の彼の本心だからだ。
だが、宗本人には伝えない。おびえられては困るからか、それとも別の思いがあるのか。それは彼自身にもいまだにわからないことだ。
「滅多に見つけることができない極上の食べ物。でも、あの子はとても珍しい存在。だから、興味のそそられているうちは食べないし、傷つかないように守るよ?」
逃がさない、あれは私の獲物だ。
歪な笑みをさらに深めて見せれば、彼女は面白いほど顔色を変化させた。心配の青と怒りの赤が浮かんでは消えていく。
それを面白そうに見つめ混ざり合って紫にでもならないだろうか、とクラウンは呑気に考える。手を伸ばしテーブルの上にある茶菓子をつかみ取ると、包装を剥がさずに口の中に押し込んだ。
「なかなか美味しいね、これ。少しは満たされるよ」
目の前にご馳走があるのにもかかわらず食べれない。別の物を食べて空腹を紛らわせる。その時が来るまで。
だから、今は手当たり次第に。食べれるものは何でも食べる。
「あなたは……何者なの?」
顔色が真っ白になったミノリが震える声で呟くのを、咀嚼音の間から聞きつつ肩をすくめて見せる。答える気はないのだ。
何故なら
「私自身もよくわかってないからね」
「え?」
「私は、私という自我が生まれるまで何をしていたかよく覚えていないんだ。ただ、食べ続けていたことだけは何となく理解している。何をしていたかなんて興味を持ったところで、誰も答えてくれはしない。自分の欲求のままに食べ続けるしかなんだ」
ポカンとしているミノリを見ながら、口の周りについた食べかすを舌で舐めとる。腹の虫は止まった。だが、飢えは収まらない。
食べたくて食べたくて仕方がない。
食べたいという欲望は増し続け彼の自我を飲み込もうとする。
「でも、あの子との対話は楽しい」
あの闇のような目を見るたびに欲望は眠りにつき、鳴き声を潜める。あの小さな手から渡される食物はなぜか満たされる。
そして、彼との対話は楽しいと思う。
「だから、私を消したくはないんだよね」
ポロリとこぼした言葉に、思わず首をかしげた。今、自分は何といったと頭の片隅で疑問に思いつつ今度は質問をぶつける立場に回る。
「それで、これはどれくらいで熟すの? あの子をいろんな意味で危険にさらしたくないからさっさと消してしまいたいのだけれども」
「……熟すのに、平均的な時間は二週間。この色からしてあと一週間前後はかかるはず」
「一週間もかかるのか」
思わずぼやいて天井を見上げる。木の温かみが感じられる天井には、得体の知れないシミがいくつもこびりついていた。
意識を集中させて息を吸い込めば、部屋の中に漂う匂いの洪水が一気に肺の中にまで流れ込み思わず咽る。ツンとしたものや甘くまろやかなもの、ピリリとした香辛料のような匂いを同時に嗅いだせいで鼻水も出た。
「この部屋の匂いはあなたには合わなかったようね」
「あの子の嗅覚がおかしくならないか心配するほどに」
「普通の人間ならば気付かないわ」
「そう。……言っておくけど、今は宗を傷つけるつもりはないよ。信じられないっていう顔をしているね。信じるか信じないかは君次第だけど」
手を伸ばすと彼女の細い首をつかみ緩く力を込める。強く力を籠めれば、折れてしまいそうな首に長い指をわざとゆっくり巻き付ける。恐怖を煽るように。
「これ以上、私と彼の間に踏み込んでくるようならば容赦しないよ。正式なものではないとはいえ、契約も交わしているんだ。私は彼の呪いを解く、彼は私に食べ物を提供する。利害が一致しているんだ」
先ほどまでの歪んだ笑みを消し慈愛のこもった柔らかな笑みに表情を変え、あえて普段通りの口調で語りかける。
真っ青になったミノリを見つめる目に底なし沼のような闇をたたえて。
「余計なことをしたら、食べちゃうからね?」
手足からゆっくりと齧って、死にゆく感覚を存分に味あわせてあげよう。
ニッと白く歯並びのいい歯を見せて笑うと、首から手を離し力を抜いて座る。
「遅かったね、そーちゃん」
座ったと同時に部屋の中に入ってきた宗に、普段通りの笑みを向けひらりと手を振ってみせる。硬直しているミノリと、自分を見比べて不思議そうな顔をする少年を手招き自分の隣に座らせた。
「ねぇ、そーちゃん。この実が熟すまであと一週間かかるんだって。だからあと一週間、いつもより波乱万丈な生活になるね」
「え……一週間も?」
「でも、大丈夫だよ。私がいるんだから、私が守ってあげるんだから」
そうでしょうと首を傾げ意識して柔らかく微笑めば、真意を探るように見つめてきた後に小さく頷く宗。その返事に笑みを深めるクラウン。
「守ってあげるからね」
色々な意味を込めた言葉を受け止める様子を、わざと見せつけながら悪食の王はさらに笑みを深める。また、欲望の鳴き声が部屋中に響く。
何も知らない宗は、その鳴き声に予想通り呆れた表情をするだけだった。




