二十三口目 寝坊と卵
柔らかな日差しがカーテンの隙間から部屋を照らしている。
それを退屈そうに眺めながらも、ベッドの上で毛布にくるまり幸せそうに眠る部屋の主をクラウンは起こそうとはしない。
ゆっくりと上下する毛布の塊に、何度か視線を向け口を開こうとするがそのたびに思い直したように口を閉ざし溜息を吐いた。
グウゥっと腹の虫が切なく鳴く音が響くが、時を刻む針の音にかき消される。
「お腹すいたな」
諦めが彩る声音が、部屋の空気を震わせるのは数度目。
だが、それは眠りを妨げるような大きな音ではなく、静寂を揺らすだけの音だった。
盛大に吐き出される溜息の音のほうが遥かに大きいかもしれない。
「何か、食べてくるか。でもな……気配が近いから迂闊にそーちゃんの傍を離れたくないんだよな」
家の外に出れば不運に見舞われる宗の安らぎの時間を奪わないように、独り言をつぶやき続ける。机に肘をついて頬杖をつき、愁いを宿す琥珀の目を隠すように瞼をふわりと閉じる。
何度目かの溜息を吐いたその時、
「ん?」
宗が寝返りを打った拍子にベッドからコロンと何かが落ちた。
コツンと硬い物が落ちる音に気付き、クラウンはその方向に視線を向け目を丸くした。
「これは……」
のそのそと宗が動き出したのはそれから数分たってからだった。毛布に埋まっていた頭がのそりと出てきて、閉じていた瞼が開かれる。壁に掛けられている時計に漆黒の目を向けて、時間を確認するとまたのそりと毛布の中に頭を戻し、二度寝しようとする。
それを止めたのは、いつになく真剣なクラウンの声だった。
「宗、起きて」
「……クラウン?」
寝起きのどこか気の抜けた声で名前を呼び、のそりと寝返りをうちクラウンのほうに顔を向ける。その表情には二度寝を邪魔された不満がくっきりと刻まれている。
「何?」
「いや、ちょっとね……」
いつになく歯切れが悪いのでゆっくりと体を起こし、とりあえずベットの上に正座する。体温と部屋の温度の差に一度くしゃみしてから、再度真剣な顔をしているクラウンと目を合わせた。
「俺の安眠を遮るくらい重要なことじゃないと怒るよ」
「そーちゃんってそんなに寝起き悪かったけ?」
「おもしろい夢の続きが見られそうだから。じゃなくて本題」
バシバシと毛布を叩いて急かす。
クラウンは何度か口を開閉させ逡巡すると、意を決したように口を開いた。
「そーちゃんって人間だよね」
「寝る」
「わー! 待って待って! 最後まで話を聞いて!」
ゴロンとベッドに寝ころがってしまったので止めるために大声を出し止める。
今度は胡坐をかき、睨むように相対する宗にズイッと詰め寄り、肩をがしっと掴むクラウン。
「あのね、心して聞いてね」
「うん」
「そーちゃんが、卵産んだの」
沈黙が流れた。
時計が時を刻む音すら飲み込むような静寂が二人の間に横たわる。
ゆっくりと宗が動く。
小さな手を伸ばし、クラウンの前髪をかき上げるとぺたりと掌をおでこにあてる。自分のおでこにも反対の掌をつけて熱を測る。宗の手はすぐに叩き落とされてしまったが、手と同じようにひんやりとしていた。
「正常だね。どこかに頭ぶつけた?」
「ぶつけてもすぐに治るよ」
「何か変なもの食べた?」
「私、朝から腹の虫鳴らすほどひもじい思いしているけど?」
肩をつかんでいた手を頬に伸ばし、腹の虫を鳴らしながらムニッとつねる。痛いと涙目になるが気にせずに、つまんで伸ばす。
じんわりと柔らかい頬が赤く染まったのを見て、ようやく手を離す。
「痛い」
「痛くしたからね」
「いきなりあんなこと言われたら正気を疑うと思うけど」
つねられた頬をさすりながら涙目で睨めば、それもそうかとクラウンは納得しつつ机の上にある何かに手を伸ばして取り上げる。
「じゃあ、これなんだ」
「……卵」
コロンとクラウンの白い掌の上に乗っているのは、見間違うことなく卵。
色はほんのりと青く、表面はつるりとなめらか。大きさは鶏の卵と同じくらいの物だった。
「クラウン、お腹がすきすぎてついに卵産んだの?」
スパン! とクラウンに頭を叩かれた宗。
その痛みに思わず頭を抱えてフルフルと震える。ジトリと見下ろしてくる目は氷のように冷たい。
「そのおふざけ、私がたった今そーちゃん相手にやったけど」
「ちょっとした意趣返しだったのに、ひどい」
「これは、そーちゃんが寝返りした時にベッドから落ちたんだよ」
「俺のベッドから?」
ばさりと毛布をめくってみるが、なにもなく思わずクラウンと顔をあわせる。
寝癖でぼさぼさの手櫛でとかしながら、出した結論は。
「また、これかな?」
「だろうね」
左手の甲にある痣、つまり呪いによって何かを引き寄せたのではないかということだった。
それで納得してしまい、二人が溜息をつくと同時に腹の虫が鳴り響く。
宗は思わずというようにクスクスと笑う。さすがに恥ずかしかったようで、彼を睨むクラウンの顔には朱がさしている。
「とりあえず、ご飯食べてくる。クラウンが食べれるものも持ってくるね」
「いつもよりも多めでお願いするよ」
「はいはい」
パジャマ姿のまま一階におりる宗を見送り、ベッドに近づく。めくられたままの毛布をそのままに、マットレスを撫で他に何かないかを探る。
が、特に何もなく拍子抜けしたクラウンは毛布を整え、その上にボフッと座り込んだ。
「これどこかで見たことあるんだよな」
人差し指と親指の間に挟んだ卵をまじまじと見つめる。色が普通のものと違うだけで、たまに見かける卵と同じもの。なんだろうと思いながらため息を吐くと、つるっと指を滑らせてしまった。
「あ」
そのまま床に落下する卵。
まずいと青ざめたクラウン。このまま落ちれば、必ず割れる。割れたら宗に怒られる、慌てて手を伸ばすが、つかみそこね床に落下した。
「え?」
が、卵は割れなかった。
一度音を立ててバウンドしただけで、床にころりと転がっている。
唖然としながら卵を凝視しても何も起こらない。
「クラウン、ご飯もってきたよ……ってどうしたの?」
「そーちゃん、やっぱりこの卵変だよ」
「どういうこと?」
湯気を立ち上らせているお椀型の食器とスプーン、こんがりと焼けたトーストをお盆におせて戻ってきた宗に、まだ呆然としたままのクラウンは卵を見つめつつ、声をかける。
柔らかなコンソメと香ばしいトーストの香りが、クラウンの腹の虫を盛大に鳴らすが当の本人が今起こったことを必死に理解しようとしている。
「この卵、割れないんだ」
「割れない?」
「今、私がこの高さからうっかり指を滑らせて落したんだ。なのに、この卵は割ない。もしかしたらヒビもないかもしれない」
「ものすごく頑丈な卵ってこと?」
「いいや……この卵、私がいた世界の物かもしれない」
真剣な声音に、はっと表情を引き締める。
クラウン用に持ってきた朝食を机の上に置き、床に転がる卵を手のひらの上に載せる。ころりと手の上で回してみても、傷一つない。
「クラウンでも、これが何かわからないの?」
「わからない、ごめんね」
意気消沈してしまったクラウンに気にするなと言葉をかけ、部屋に入ってくる太陽の光に透かすように卵を持ち上げてみる。
卵はつるりとしたままで、特に変化はない。
「こういうのに、詳しい人がいる」
「いるの?」
「クラウンがご飯食べたら会いに行こうか」
時々、忘れそうになるがクラウンは知らないことのほうが多い。あれはなんだと聞かれることが、必ず日に一回はある。だが、一度覚えれば忘れない。驚異的な記憶力を持ち、知識を蓄えている。
だから、宗はクラウンがわからないといっても特に思うことがなかった。
「わからないことがあるならば、知っている人に聞きに行けばいいよ」
卵を手に持ち、当たり前のように告げる宗を眩しげに見つめクラウンはこくりと頷く。何かを言おうと口を開いたが、迷った末に閉ざしてしまい朝食に手を伸ばした。
「ところで、そーちゃんよくこんなに持ってきてばれなかったね」
「皆、出かけてた」
「そうだったの」
さくりとバターの塗られたトーストを口に運び咀嚼して飲み込む。
食べるスピードがいつもよりも遅く、どこか寂しげな表情をしているクラウン。
宗はそれに気づいていたが何も言わずに着替えることで意識をそらす。
いまだ二人の間には見えない壁があった。
奇妙な卵の出現とどこか物悲しい空気によって、二人の土曜日は始まった。