二十二口目 ずぶ濡れと男
「……クシュン!」
宗はずぶ濡れになっていた。
半袖のシャツと薄い生地のズボン、髪からポタポタと雫を垂らしながら半眼で犯人を睨みつける。
七月に入ったとはいえ、まだそんなに気温は高くない。衣替えをしても少し肌寒い日の風は容赦なく吹き付け、彼の体温を奪っていく。
「そーちゃん、もどった……罰ゲーム?」
「クラウンの目って節穴だったんだね」
「冗談だよ、冗談。それで……何をしたのか、な?」
ねぇ、お二人さん?
クラウンがにたりと笑いながら硬直し青ざめている立藤と璃華に顔を向ければ、顔色が青から白に変わった。後日、クラウンの背後に般若が見えたと二人は語る。
「あぁ、なるほど。力の制御ができなくて、そーちゃんだけ水を被ったということか」
「すまぬ……」
「大丈夫だよ、今日は何もなかったからそろそろかなと思ってたし。案の定何かあったしね……」
「背中が煤けてるぞ、宗」
立藤が持っていたタオルで宗の髪の毛を拭いてやりながら呆れたように溜息を吐く。璃華は縮こまっており、ため息を受けてさらに体を小さくした。
気にすることはないといっても、全身ずぶ濡れこのまま帰宅すれば家族の誰かに怪しまれるだろう。
「ちょっと痛いけど我慢してね」
どうしようと悩んでいると、クラウンの落ち着いた声が耳にそっと滑り込む。えっ? と思った瞬間、背中を強く叩かれた。
ジンジンとした痛みに呻きながら振り返ればクラウンの掌にピンポン玉サイズの水球が浮かんでいた。それをぽいっと口の中に放り込むと、そのままごくりと飲み込んでしまう。
「な、なにしたの?」
「気にしない気にしない。それより、そーちゃんそろそろ帰らないといけないんじゃない?」
「え、あ、本当だ」
左手首に巻いている腕時計を持ち上げるようにして見せられ、はっとすると鞄を肩にかける。二人にまたねと手を振って、パタパタと駆け出す。制服が渇いていることに気付かないまま。
その背を追いかけるようにクラウンがついていく。二人に、刺すような視線を向けてから。
視線の鋭さに二人は青ざめ、硬直する。
完全に宗の小さくだが確実に彼だとわかる気配と、クラウンのどこまでも大きく飲み込むような気配が消えてから、立藤は脱力し璃華はペタンと座り込む。
「宗のやつ、よくあんな御仁の傍にいて潰れないよな」
「もしくは知らぬかもしれぬな。巧妙に隠し、そばにいる。互いの利益のために」
「どういうことなんだよ?」
「あの男は常に腹を空かせている。そして坊の周りには常にいろいろなものが集まる。男は食し、坊は平穏に暮らせる。二人の間にどんな取り決めがあるのかはわからぬが、互いを上辺だけとはいえ受け入れておる。だからこそ噛みあっておるのではないかと、妾は推測しておるのじゃ」
すーはーと何度か深呼吸をして、気分を落ち着けようとする璃華。
宗が取引を持ちかけた時に、クラウンは内包するものを垣間見せた。空間を丸ごと飲み込んでしまうような重圧と、得体のしれない覇気を。
それを真っ向から受けても崩れなかった小さな背中が大きく頼もしく見えた半面、不思議なものに見えた。
結果として、クラウンは宗の取引に応じ許可証でもあり大切な宝でもある勾玉は璃華の小さな手の中に戻ってきた。
さらに寂しさを埋めてくれる相手も流れとはいえ連れてきてくれた。
「良いことばかりではあるがの……」
「何か引っかかっているのか?」
「うむ、あの男。本当に何者なのじゃ」
「確かに、な。言うなって釘を刺されたけどさ」
瞬間、まるで言葉を遮るように風が強く吹く。
まるで誰かが警告をするように、その先の言葉を言ってはいけないとたしなめるように。音になった言葉は風に飲み込まれて消えた。
「わっぷ!?」
「わー……そーちゃん今日もある意味絶好調だね」
「全然よくない」
突然の突風によって飛んできた砂ぼこりに目をやられ、涙をぼろぼろとこぼす。擦ると余計に悪化するので、涙で流されるのを待つしかない。が、痛い。
赤くなってしまった目を痛そうな表情で見つめながら声をかけようとした瞬間
「ごめん、そーちゃん! ちょっと離れる!」
クラウンは緊迫した声を上げてどこかに走り去ってしまう。
突然のことに、ぽかんとする宗は涙を流しながらいなくなったクラウンを探すように顔を動かす。
が、どこにもいない。
あの目立つ金色の髪や白いコートはどこにもない。
「どうしたんだろう」
パチパチと瞬きをしてたまった涙を落としながら首をかしげていると
「うわ!?」
背後からドンっと押されよろめく。
予想もしていなかったことなので、グラグラと体は揺れそのまま前のめりに倒れる。またかと覚悟をして目をぎゅっとつぶり、来るべき痛みに耐える。
が、痛みも衝撃も来なかった。
「おっと、悪いな坊ちゃん」
代わりに、低いハスキーボイスが背後から流れてきた。腹に圧迫感を感じ、恐る恐る見下ろせば長い腕が回っており、背後にいる人物が咄嗟に抱えてくれたことが分かった。
宗は、涙をぬぐいながら謝罪する。
「いえ、こちらこそこんなところで立ち止まっていてごめんなさい」
「いや、俺の前方不注意でもある。悪かったな」
グイッと腕をひかれ、腹に圧迫感があったがすぐに離れていく。
よろめきつつも、体も反転させ支えてくれた人物と顔をあわせた。
「怪我はないか? 咄嗟に抱えちまったが苦しくなかったか?」
「は、はい。大丈夫です」
高級そうなスーツに身を包み、灰色の瞳で見下ろしてくる男にコクコクと頷く。鋭い目に見据えられ只者ではないと思わず緊張してしまう宗。
口調は優しいが、どことなく雰囲気が怖い。
それを見抜いたのか、ふっと優しげな笑みを浮かべた男。
「怖がらせちまったな。俺は、顔が怖いもんでいつも初対面の相手にびくつかれちまう」
「あ、そのごめんなさい」
「いいって気にすんな。この顔は生まれつきだから、慣れたもんさ。ところで、坊ちゃん一つ聞いてもいいか?」
「はい、どうぞ」
ズイッと顔が近づけ、まるで観察するようにじろじろと宗の顔を眺めまわす。居心地の悪さを感じつつも、動かないようにしている宗の肩を唐突に男はつかんだ。かなり強い力で。
「いっ」
「男を見かけなかったか?」
「ぐ、具体的には?」
「そうだな。常に腹を空かせていると言えばいいか、あと大人だけど中身は子供っぽい男だ」
思わず目をぱちくりさせる。
男の言う人物に該当する者が一人いるからだ。
今、一番身近にいるといっても過言ではないであろう人物。
クラウンに。
「えっと……なんで、急に?」
「あー、なんというか、そのー、その男の気配がこっちのほうにあったような気がしてな。それを追っかけてきたら坊ちゃんとぶつかってしまったというわけだ。だから、見かけてないかと思ってな」
あいている手で後ろに撫でつけている前髪を崩すようにガシガシと、頭をかく。深い溜息を吐くその姿はどことなく哀愁が漂っていて、他人かもしれないが伝えたほうがいいかなと宗が口を開こうとした瞬間。
「ん、電話か」
オルゴールのような音が男の胸ポケットから流れてきた。宗の腕を捕まえたまま、男は折り畳み式の携帯電話を取り出し、誰かと通話を始める。高い声が届くので相手は女性かなと予想をつける。
男はうんざりとした表情で聞き流していたが、早口で何かを伝えるとブチッと乱暴な動作で通話を切ってしまう。
「はぁ、あっちで見かけたか。じゃあ、こっちのは気のせいか」
「あの?」
「あぁ、悪いな坊ちゃん。痛かったか?」
「大丈夫です」
「そうか。時間とらせて悪かった気を付けて帰れよ」
ニッと歯を見せて笑うと、宗がうなずく前にあっという間に走り去ってしまった。ぽかんと男が消えた方向を眺めていれば、目の前に今度は白い背中が降ってきた。
「うわっ!?」
「ふぅ、お待たせ」
「クラウン……どこに行ってたの?」
「ちょっとそこまで。それより、涙は止まった?」
「うん、止まった」
「じゃあ、帰ろうか」
額に汗を浮かべるクラウンをめずらしそうに眺めながら、歩き出す。クラウンらしき人物を探している男について伝えたほうがいいかと思ったが、険しい表情に言葉を飲み込む。代わりに他愛ない話を振る。
「今日は金曜日だから夜更かしできる」
「そーちゃん、寝坊する気かい? 朝ご飯食べれないよ」
「クラウンが朝ご飯食べれないから、俺が夜更かしすることに渋い顔するんでしょ」
「まぁね」
クスクスと笑うクラウンにやれやれと溜息を吐いた。
その後、特に何事もなく宗は一日を終えた。
翌朝、また何かが起きるということは知る由もなく。