十口目 姉と傘
「佑姉さん、いつ帰ってきたの?」
「つい数分前。宗の靴があったから様子を見に来たの、ひどい雨だったでしょう? 濡れたりしなかったかなと思って」
「あー……大丈夫と言えば大丈夫かな」
ニコリとほほ笑み部屋の中に入ってきたのは宗の姉である、佑だった。
白のブラウスに黒のパンツ。肩上で切りそろえれた艶やかな黒髪が柔らかな色のカーディガンの上でさらさらと揺れた。
桜色の唇からは軽快な言葉がポンポンと。
「そういう、佑姉さんこそ大丈夫だったの? 朝、傘を忘れていったし」
「えーと……途中でビニール傘買ったし」
「へー」
「雨には濡れてないから大丈夫。あ、そうそう帰りにケーキを買ってきたから選んでほしくて」
「ケーキ……」
ちらりと彼女に気付かれないようにクラウンのほうを見る。
ケーキと聞いて目を輝かせていると思ったが、予想に反して真剣な顔で佑のことを見つめていた。静かに見つめる琥珀の瞳はそらされることなく、まるで観察をしているようだった。
「クラウン?」
「どうかしたの、宗?」
「あ、いや、なんでもないよ。どんなケーキを買ってきたの?」
ぽつりと名を呼んでしまい、ハッとする。クラウンの名前を呼んだことには気づかれなかったようだ。慌ててケーキの話題を出せば、さらに笑みが深まる。
身内びいきかもしれないが、華やかな容姿をもつ父親に似ている佑は美人だと思う。宗はどちらかという、愛嬌のある顔立ちの母親似である。が、無表情なので、あまり似ているとは言われない。
「季節のケーキ二種類と、ショートケーキとチーズケーキ」
「季節のケーキ?」
「見てのお楽しみ。そういえば、宗こそ人のことを言えないじゃないの」
「え、なんで?」
「傘を持っていかなかったんでしょう? 折り畳み傘が傘立てにあったから」
確かに、折りたたみ傘しかなければそう思われても仕方ない。
だが、実際は持って行って傘が壊れてしまったから折りたたみ傘を使ったわけである。
むすっとしながら、訂正をする。
「違うよ、持って行った傘が壊れたんだよ」
「え?」
「前に買った水色の傘が壊れたから折り畳み傘で帰ってきたんだよ」
「……水色の傘?」
次の瞬間、宗は姉の口から出た言葉に愕然とした。
「水色の傘なんてうちにあったの?」
「え?」
「いつの間に買ったの?」
思わずぽかんと口を開ける。
水色の傘、それは学校帰るときに使おうとして急な突風により壊れてしまいクラウンが食べた傘。
その傘を購入したのは、三か月前だ。両親も、目の前で不思議そうな顔をしている姉の佑も、使ったことのある傘だ。
きれいな色だったからと、母親が買ってきた傘のはずなのに。
「宗?」
だが、姉が嘘をついているようには見えない。彼女は嘘が嫌いだ。
コクンとつばを飲み込んで、ぎこちない笑みを浮かべる。
「あ、うん、ちょっと前に買ってね。また壊れちゃったんだけど」
「そっか。怪我はしてない?」
「大丈夫だよ。……一階に行ってケーキ食べたいの決めるね」
「ん、わかった」
またニコリとほほ笑んで佑は宗の部屋を出た。ぱたんと扉が閉まり、軽い足音が遠ざかったのがわかると勢いよく振り返る。先ほどから一言も発しないクラウンは椅子に座っているはずだから。
「クラウン、聞きたいことが……あれ?」
しかし、部屋の中には宗しかいなかった。机の下や、クローゼットの中を確認してみてもいない。
窓を開けてみて外を探してみるが、あの目立つ金の髪はどこにもいない。
どこに行ったんだろうと思う。いつもだったらケーキを半分頂戴とねだってくるはずなのに。
「クラウン、どうしたんだろう」
宗の小さなつぶやきが外の空気に溶ける。その声に答えてくれる相手は今そばにはいなかった。
「厄介なことになったな」
ぽつりとつぶやきながらクラウンは宗の部屋の壁をすり抜けて中に入る。のど元をなでながら険しい顔つきで、椅子に腰かけて足を組む。
白い瞼が苛立ちを表すように細かく震え、琥珀の瞳には燃えるような光がチラチラと。
「どうしようかな」
「なにが?」
「そーちゃん!?」
「どこに行ってたの?」
いつもの無表情をゆがめ、不機嫌さを表しながらに見つけてくるそうに思わず驚愕の声を上げたクラウン。
思わず時計を確認すれば、すでに日付が変わっている。ベッドの上で胡坐をかきクラウンを睨みつけている少年は普段ならば幸せそうに眠っている時間だ。
だから、声をかけられたことに驚きクラウンらしくない声を上げたのだ。
「そーちゃん、明日じゃなかった今日も学校でしょう?」
「徹夜一日くらいなら何とかなる。それよりもこんな時間まで、どこに行っていたの?」
「……ちょっと見回り?」
「ふーん」
納得していないという不満げな表情に思わず苦笑する。こんな答えで宗が満足するとは思わない。だからと言って真実を話すわけにもいかない。
どうしようかなと葛藤をしていれば
「見回りって外のアレが悪さしないように?」
「え?」
宗の指が示す先は、窓の外。慌てて身を乗り出して目を凝らせば、壁にぶつかっては弾き飛ばされる大きな水球。音はしないが、弾き飛ばされるたびに振動が伝わってくる。
ゆっくりと振り返りごまかすように笑う。
「あー、えー、うん、まぁ」
「クラウン」
「……ごめん、言えない」
「わかった、それは聞かないでおくだ。だけど別の聞きたいことがあるんだ」
「なに?」
「傘」
その一言でクラウンには伝わるだろう。スッと目が細くなった、狼狽えていた雰囲気が引き締まりピリッとした空気を纏う。
ゆっくりと重い空気が部屋を満たし始めるが、宗はクラウンから目をそらさない。そらしたら答えてもらえないからだ。
「……今はまだ答えられない、とだけ答える」
「どうして?」
「宗」
近づいてきたクラウンが腕を伸ばして、白く細長い指で左胸をつく。軽くつつかれただけなのに、ずきんと鈍い痛みが走った。思わず咳き込む。
「今はその問いには答えない。かわりに何かをするならば手伝うよ、無償でね」
「……なら、あそこに行きたい」
「どこ?」
「あの水球に襲われた場所」
「それは……」
さまざまな感情に染まったクラウンの表情。それをじっと見つめながら宗は繰り返した。
「明日の帰り道に、あの場所による。このままにしてはいけない気がするんだ」
宗のきっぱりとした言葉にクラウンは仕方がないというようにゆっくりと頷いた。




