置き時計
その街を訪れたのは、祖父の従兄弟の奥方だか何だか、とにかく遠い親戚筋の人間が亡くなって遺品を片付けられる立場の人間が私しかいなかったからだ。名前も知らない誰だかの訃報を受け、いついつまでに片付けに来て欲しい旨を伝えられた時は、勝手に処分してくれと返しそうになったが、激務のせいで眉間から取れなくなった皺を伸ばすための休暇として良い口実になるかもしれないと素早く頭が回転した結果、私は鞄一つを手に電車を乗り継ぎほぼ一日がかりの移動の末にその街に降り立った。
妙に愛想の良い駅員に切符を回収され、改札を抜けるとそこは静かな商店街の入り口だった。駅前にはタクシーが数台止まれる程度の駐車スペースがあるだけで、ロータリーもバス亭もない。商店街は開いている店とシャッターを閉めている店が半々と言ったところで、歩道や街灯だけが統一感のある真新しいデザインのものであることでより一層店々の古さが際立ってしまっていた。
電話で指示されたところによると、親戚のお宅はこの商店街を通り抜け、さらに少し行った辺りにあるはずだった。大きな通りには面しておらず、周囲は住宅街のようだったから、場所が分かるかどうか少し不安でタクシーの乗ろうかとも思ったが、まあ迷ったらその辺の人間に聞けばいいかと思い直し、私は歩き始めた。
日没間近の時刻で、商店街は夕飯の買い出しをする人間や学校帰りの子供たちでそれなりに賑わっている。自宅になっていると思しき商店の二階からは焼き魚やカレーの匂いが漂ってきて、そういうばこういうものを感じられる余裕も最近はなかったなあと、私はしみじみと日常の雰囲気に心を和ませながら歩いていた。
と、突然真後ろからクラクションが鳴った。驚いて振り向くと一台の車がすぐ後ろで停車し、運転席では年配の男性がしっしっと手を振っていた。井戸端会議の主婦や学生が道路にはみ出していたので気がつかなかったが、どうやら歩行者天国のようにはなっていないらしい。私は頭を下げつつ慌てて右側の商店の軒下に避難した。
ふうと息をついて道路脇をよく見れば、膝下ほどの高さの自然石が縁石として車道と歩道を区切っていた。石はかなり密に置かれていて、店と向かい合う一部が円形に夕日を反射していた。おや、と思って屈んでみると、それは時計だった。丸いガラスの向こうに掌より少し小さいくらいの大きさの懐中時計が石にはめ込まれていた。針も数字板もモダンな装飾がほどこされており、なかなか粋な一品に思えた。しかし感心して顔を上げた時、私は少しぎょっとしてしまった。見える限り、縁石となっている石の全てに時計がはめこまれていたのだ。しかもその全てが違う時計だった。文字盤が暗闇で光る目覚まし時計のようなものもあれば、高価そうなブランドの腕時計もあった。その全てがまるで閉じ込められているかのように石の中にあった。石が音を遮っているのか、秒針の動く音などは全くしなかったが、道の両側に整然と石に埋まった時計が並ぶ様は、商店街で統一した意匠だとしてもあまり趣味が良いものには思えなかった。
私は何かいけないものを見たような気がして時計から目を逸らし、目的の家を目指して歩き出した。太陽が沈んだ後の赤紫の空の下に、家々の屋根が黒く浮かび上がっている。商店が切れ、あの不気味な時計の石から離れてほっと息をついて暫く歩くと、周囲は静かな住宅地に変わった。携帯に登録しておいた位置情報を頼りに辺りの家の表札を確認していると、
「××さんちをお探しですか?」
後ろから声をかけられた。先ほどの車を思い出し、びくりとして振り向くと、背の低い中年女性がにこやかにこちらを見ていた。
「え、はい。そうですけど」
「それは良かった。××さんに縁のある方がもうこの辺りにはいなくて、どうしようかと思っていたのよ」
どうやら電話で聞いた話が伝わっているようで、私はほっとして言った。
「あ、××さんのご近所の方ですか。すいません、遅くなりまして。ちょっとお家の場所が分からなくて」
「いえいえ、分かりにくいわよねえ。この街は初めてでしょうし。あ、鍵も私がお預かりしてますから、ご案内しますね。どうぞよろしく」
そう言って彼女は左手を差し出してた。私は抱えていた鞄を右手に持ち替えて彼女の手を握った。
「ああやっぱり」
「え?」
彼女は私の左手の内側をじっと見つめて言った。握った手が汗ばんでいる。
「そうよねえ、残念だったわね」
「あの、手を…」
「外の人は大抵そうなのだけど。全くどうしてそんなところに時計をつけるのかしら」
時計?確かに私は左手に腕時計をしている。女性用ながら渋い色味の皮バンドが気に入って自ら購入したもので、文字盤を内側にしていつも身につけていた。
「時間を持ち歩こうなんて。まあでもそのおかげでまた一つ新しいものが置けるのだけど」
「は、はなしてください!」
彼女は私の左手を握ったままこちらの話には全く耳を貸さず話し続けている。振りほどこうとしてもぎりぎりと固く握られた手はびくともしない。びりびりとそこから危険が這い上ってくるようで私は腰を引いて必死に抵抗した。
「はなして!何なんですか一体!」
「××さんは全然後のこととか考えてなかったみたいだから。連絡のつく人がいて良かったと思ったのだけど。でも仕方ないわね」
どすん
突然抵抗がなくなって、私は尻餅をついた。
「いったあ…」
「あら、ごめんなさいね。でも、これで良いわ」
そう言いながら、彼女は左手に持ったものをとん、と地面に置いた。私の左手だった。
「え、あ、ああああああ」
「ほら、ね。時計は、いえ時間っていうのは携帯するものじゃないでしょう?」
痛みよりもおそらくは突然の失血のせいで、私は意識が遠くなりその場に倒れこんだ。傾いだ視界の中を血の滴る鉈をもった彼女の右手と、断面を下にして地面に立てられた自分の左手首が移動していった。手首には時計がついたままになっていた。
「だってねえ、時間はただ流れるものなんだから。人が細切れにして持ち歩いたりして良いものじゃないわよ。精々許されてこの形。時計は、人の外に置いておかなきゃね」
時計。時計、そうだ。
徐々にぷつりぷつりと回路が切れるようにぼやけていく頭で私は思い出していた。あの愛想の良い駅員も、車を運転していたおじいさんも、そしてこの女性も、腕時計をしていなかった。駅舎の壁にさえ時計はかかっていなかった。街の時計は全てあの石の中だ。人間の営みの外側に、けれどもすぐ傍に、徹底的に時は固定されていた。それだけが時間と関わる唯一の方法だとでも言うように、執拗に時は固い石の中に閉じ込められていたのだ。
「片付けは他の人に頼まなきゃ。ああ、大丈夫よ。これはちゃんとずっと置いておいてあげるからね。さて、それじゃあ。さような」
最後の言葉は鉈が風を切る音でよく聞こえなかった。