秋色ノスタルジア
懐かしい香りがした。
ある日の朝、郵便受けを覗くと一通の封筒が入っていた。
シンプルでいて、それでもどこか女性らしい可愛らしさがあった。
手に取ってみる。
送り人は誰だろう。だけれど、僕の住所を知っていて、送ってくるような人はあまり考えなくても限られてくる。予想をして、そして裏返した。
送り人は、やはり―――N先輩だった。
僕はN先輩の独特の、お世辞にも上手とは言えない字を見ながら、様々な事を思い出していた。
僕が上京したのは、大学へ入るためだった。
何でもない、何にもない、ごくごく平凡な田舎町で僕は生まれた。
テレビの中の大きなビルや東京タワーなどを見ては、都会のきらびやかな夜に憧れ、周囲の地味な町を見てため息もついたりした。親に、「引っ越そう」なんて言って殴られたのも覚えている。
だけれど、そんな憧れもいつしか薄れるようになっていった。
僕は、地元の小学校、中学校と進学し、そして少し電車で行ったところの公立高校に入学した。何か強い目的があった訳でもなかったが、少しだけでも学力の良い所へ行こうとしただけだった。
高校では、文芸部に入った。ただ、運動が苦手で、楽器も出来ず、かといって役者なんかか料理は向いていなかった。美術部か、茶道部も迷ったし、理科部もなかなか良かった。だけれども、やはり一番肌に合うのは文芸部だった。小説を書く事は、自分で言うのも変な話だが、そんなに苦手ではない。むしろ得意な方だとは思う。勿論読むのはもっと好きだが。
「寂れている」と、クラスメートは言っていたが、むしろ人見知りをしてしまう僕にとってはさらに都合が良い事だ。部活に入っていたかどうかは、それなりに評価にも関わるだろう。
最初はそんな軽い気持ちだった。
「こんにちは」
そう言って、文芸部の扉を開ける。授業も終わった放課後、僕は部室に来ていた。今日は週三日ある活動の日だ。
入部から約一カ月たったので、それなりにだが馴染んではいるだろう。
部員は、一年生が僕と、もう一人幽霊部員になりかけている男子が一人。二年生に女子の先輩が一人と幽霊部員が男女一人ずつ、三年生に男子の先輩と女子の先輩が一人ずつという、合計七人だった。部員の人数としては、ぎりぎりだった。
場所は、文化棟の一番端、日当たりは良くないし、埃っぽいのが少しだけ悪い点だ。でも、窓も付いているし、なにより本もかなりある。図書室ほど図鑑や辞書など様々なジャンルがあるわけでなく、ほとんどが小説のみという点もあるためか、図書室にない本も多い。
勿論、僕達生徒の書いた本もあった。内容は、年によってはすごく読みごたえのあるものもあれば、不作の年もあったりした。これをいつか僕も書くのかと思うと、少しだけ気が重くなるのを感じた。書いた本が、この部室に保管されてしまうのだから。
部屋に入れば、そこにはパイプ椅子に座る先輩が一人いただけだった。二年生の幽霊部員ではない、真面目な文芸部員の先輩―――N先輩だ。
N先輩は、本を読んでいた目線をこちらにすっと移し、「こんにちは」と一言。そしてまた目線を本に戻した。
「他の先輩は、まだですか」
荷物を下ろし、この前読んでいた本を手に取る。
「三年生は、進路関係で今日はお休み。幽霊さんは知らないわ」
「そうですか」
「一年生の、もう一人は?」
「彼も幽霊です」
ちらりと先輩を見て、僕も椅子に座る。N先輩は依然本に目線をやったままだ。
「そう」
一言N先輩が言って、そのまま会話が無くなった。僕やN先輩のようにここにくる文芸部員は、あまり会話が続かない。それは読書を優先するためということもあるが、喋るのが苦手という理由がほとんどだろう。
N先輩は、少なくとも美人だから、笑えばかわいいのに、僕はまだ見た事が無い。それでも、二、三言話せただけで満足できた。
「それじゃ、さようなら」
部活は六時頃になると終わりだ。
季節は秋になる。文化祭用の小説も皆(幽霊部員を除く)で作り上げ、あとは配布するだけだった。
僕は先輩たちに挨拶をし、駅へと向かっていた。
陽が落ちるのが早く、星が見え始めていた。
僕が文化祭用に書いたのは、簡単なミステリー。三年生の先輩はホラーとファンタジー。N先輩は日常的なものだった。二年の先輩で幽霊部員の女子の先輩も、来なかったが、詩を作っていたようで、それを載せる事になった。一年生のもう一人も、ギャグのようなものを書いてきた。普段来ない分、真面目に執筆したと言っていた。
出来栄えは悪くなく、他の年と比べても平均か少しいいくらいの出来だったと思う。
季節はさらに進む。
文化祭で無事配布を終え、体育祭や大小様々な他のイベントも終わり、いつのまにか卒業式だった。
一年間はとても速く感じた。
三年生の先輩は泣きながら、「これからも、文芸部を続けてくれ」と言っていた。
二人とも進路は、第一志望に合格したようだった。
いつの間にか、部室はN先輩と僕だけになってしまった。
一年生も入ったのだが、やはりそれも人数合わせに近い物で、幽霊部員だった。
週三回の部活は、日に日に無声状態になっていく。
それでも時折、お互い本の感想を話したり、本屋に行ったりもした。
本を読んでいれば、時折視線を感じ、見れば先輩と目が会うこともあった。
N先輩が修学旅行に行ってきた。お土産を貰うと、それは綺麗な栞だった。そのチョイスが文芸部っぽくて少し笑えた。
文化祭では、やはり今年も本を出す。
ジャンルは、僕は今年もミステリー。それに加え冒険物にもチャレンジした。先輩は恋愛物と日常的なもの。
N先輩にとっては、最後の文化祭本だった。
売れ行きは、良かった。
売り切れという先輩の書いた字は、少し歪んでいた。
そこまで思い出し、ふと意識が戻る。
僕はソファに座っていた。無意識のうちに部屋に戻っていたらしい。
僕は、いつからかN先輩の事が好きだった。
年賀状を送る程度だったが、住所や電話番号はお互い知っていた。
だけれども、僕から電話を掛ける事は無かった。
結局、N先輩はするりと第一志望の地元の大学に進んだ。
「元気でね」
そう言って、微笑んだ先輩。ついに僕は告白が出来なかった。
片思いで宙ぶらりんになった思いを抱えたまま、僕は三年生になった。
一年生の後輩に、真面目な子が三人も入ったので、ひとまず部の存続は安心だ。
進路を考える時に立ったとき、僕はひとつ決めた事があった。それは、この街を離れるという事。先輩の事が気残りだから、という訳が全てではない。この町に虚しさを感じたから。少し昔に思っていた都会への憧れが、また僕に戻ってきたからだった。
学びたい学校はすぐに見つかった。
都合のいい事に、安いアパートも見つかった。
そう、そして後輩たちにすべてを託し、見送られながら、僕は上京したのだった。
そこからは苦労が多かったが、楽しくもあった。
恋人もできた。だけれども、彼女が笑うたびに、最後に見たN先輩の笑顔がどこかでちらりと姿を見せるのだった。
結局、二年の秋頃に、関係は自然消滅した。
その頃だろう、ふと先輩に手紙を書いたのは。本当に短い文章だった。
でも、その短い文章を書きあげるのは、文化祭用の小説を書くよりも難しかった。
投函するときの妙な緊張を今も覚えている。
N先輩からの返事は、無かった。
レポートや試験に追われ、バイトもしたりしている内に、いつの間にかN先輩を気にする機会は減っていった。大学で出来た彼女との関係に似た感じで、自然消滅していった気がした。
就職をした。
編集者になり、それなりの給料にも満足した。それなりの生活を続けていた。
故郷には、こちらに来て以来、年賀状や電話程度で、結局帰れていなかった。
最近の僕は、あの頃は憧れていた筈の、眩しい夜も何度も見て、ラッシュにも飽きていた。
手紙の内容は、結婚報告だった。
先輩の手紙には、さらに写真が二枚付いていた。
一枚目は、風景の写真だ。あの頃は変わっているようだったが、でも田舎町には見える。それが懐かしかった。
二枚目は、N先輩の結婚の写真だった。先輩は相変わらず綺麗だった。
僕は、胸に込み上げてきた、焦げ付く様な虚しい感情を抑え込もうとした。
それなのに、涙が出てきてしまった。
幸せに笑うN先輩の笑顔が、少しだけ憎かった。
思いを言わなかった、あの頃の自分が憎かった。
僕は、新幹線のチケットをとった。
久しぶりの故郷に帰る事にした。有給がたくさん残ってしまっているので、それの消費も兼ねて。
こちらでははっきりとは認識しづらいが、きっと故郷はオレンジと茶色と赤と黄色で埋まっているのだろう。
なんとなく、文化祭を思い出した。あの時もちょうど今みたいな時期だった筈だ。山が綺麗だった。
忘れられない、文化祭とN先輩、田舎町の事を考えながら、僕は故郷に帰る。
秋色の思い出に、少しだけ胸が痛んだ。