価値観と靴
『靴』というお題で書かせていただいた作品です。
靴には、人間性が表れると云う。
それは、高そうな靴を履いているから誰某れは金持ちで、薄汚い靴を履いているから誰某れは貧乏である、と云う話ではない。非常に類似した話でこそあるが、私の云う人間性とは、人間の根幹にあるようなもっと深く暗いモノのことである。
高価な靴を履いていたとしても、靴の手入れを怠っている人間は、履いている靴に対して思い入れがあるわけではないのだろう――恐らく、その靴が高価であったから履いているだけなのだろう。だからその人は、比較的自己顕示欲が強く見栄っ張りな人間なのかもしれない。
反対に、そこまで値が張らないような靴でも、少しでも艶を出そうという工夫が見受けられたり汚れを残さないように気を付けようと云う努力が見受けられたのなら、その人は非常に寛容な精神を持ち、それでいて妥協を許したくないと云う人物なのかもしれない。
勿論これは推理ですらない。根拠の薄い憶測であるのかもしれないが、私にとっては、それが非常に根拠のある主張に思えるのだ。外見で人を判断するな、と云う先達の言葉もあるが、しかし外見にこそ表れる人間の本性と云うものもあるだろう。だから私は、人間を靴で評価する。
だからこそ困った。
ならば、この少女を私はどのように判断すべきなのか。
この――裸足で歩いている少女は、何者なのか。
「君は、何者なんだ」
思わず訊ねた。夕日が差す公園を裸足で闊歩する彼女は、しかしどこか儚げで幻想的だった。その白いワンピースにすら、触れば消えてしまいそうな印象を受けた。その脆弱な雰囲気を醸し出している細い足は、けれど何にも守られていない。
異質だった。
「私は、君の〈価値観〉だよ」
彼女は云う。
「価値観? 価値観とはなんだ。どういうことなんだ――君は一体、何者なんだ」
私は質問を繰り返す。
彼女が私の価値観であるなら、私の価値観とはなんだ?
「じゃあ逆に訊くけど、貴方にとって私は何者なの?」
私にとって、彼女は――
「――異質だ。異形だ。異常なんだよ君は。私には君が理解できない。君を判断できない。分からない分からない分からない――何者なんだよ君は一体」
何なんだよ。
彼女が私の価値観だと云うのなら、しかし私の価値観は既に崩壊目前だ。私の概念はむしろ彼女によって壊されている。靴はどこだ彼女はどんな靴を履いているんだ。靴は靴は靴は――彼女の人間性は、どこにある。
ああ、だから彼女は脆弱に見えるのか。
「私は貴方の〈価値観〉だよ。この脆くて壊れそうな体こそが貴方の価値観だよ。貴方の価値観は――人間性はこんなにも弱々しいんだよ」
彼女は云う。
私は黙って訊いていた。
「靴を見れば人間性が分かるとか、靴だけでどう云う人間か判断できるとか――そんな訳ないじゃん。そんな幻想、それこそ脆弱な妄想が罷り通る訳、ないじゃん。人間性なんかどんなに永い付き合いでも理解できないんだから、どんなに分かったつもりで居ても分かり切ることなんかないんだから。君が私のことを知らなかったように、自分のことでさえ何も知らないのに、たかが靴を見たぐらいで、そんなものが知れる訳がないんだから」
彼女の腕が崩れ始めた。ぼろぼろと云う音が私には訊こえる。恐らく、これは私にしか訊こえないのだろう。これは私自身が崩壊する音だ。
彼女は云う。
「私が靴を履いたら、私の人格は変わるのかな。君は靴を沢山持っているけれど、じゃあ君の人間性は日替わりで変わるのかな」
彼女の右腕と左足は既に崩れ去っていた。彼女はぼろぼろと云う音を立てて崩れている。私は急に不安になった。しかし安心した。心の中にあった矛盾が解き解されていく。そうだ、私は無意識のうちに矛盾を感じていたのだ。彼女は僕の矛盾を指摘するために表れたのかもしれない。だから彼女は――
「――だから君は、私なんだね」
私は云う。
もう一人の私は云う。
「そうだよ。私は君だ。人間は、その体の中にたくさんの人格を宿しているもので、だからこそ、その全てを理解することは出来ないんだね。だからこそ私は君の前に
彼女は、跡形も無く消えた。彼女は――私の価値観は、全て脆くも崩れ去った。もう彼女の声は私には届かない。しかし、それでいいのだと私は思った。私の中にこそ、私は居るのだ。
彼女の立っていた場所が微かに光った。私はしゃがんでそれを拾う。これは、この公園で遊んでいた子どもが落として行った物なのかも知れないし、そうではないのかもしれない。ただし、ここに置いておく訳にもいかないだろうと思った。
それは薄汚れた定規だった。
裸足で踏んだら怪我をしかねない。
私はその定規を、ポケットに入れた。
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