神さまを信じて ~しんじること、たかみ~
本編外伝。
衣留の過去話になります。
もしもこの窓から飛び降りたら、みんな私を見てくれるだろうか……?
病室の窓を見つめ、私はそんなことを思った。
「…………のさん……野さん!」
「…………」
「夢野さん!」
窓から目をそらすと、怒った顔のナースさんが見えた。
「聞いてますか、夢野さん! 用もないのにナースボタンを押すのは止めてください! 分かりましたか、夢野さん!」
「……はい、ごめんなさい」
「謝るくらいなら、もう止めてくださいね!」
いいですね! と言い残し、ナースさんが病室を出る。
とたんに、病室は冷たい静けさに包まれた。
「バカ、ですよね……」
重たい手を動かして額を抑え、私は天井を仰いだ。
ふと視線を横に動かすと、真っ白な花瓶が目に入った。
何も生けられていない、空っぽな花瓶が。
「お花、見たいですね……」
乾いた笑い声を上げながら、呟く。
私の名前は――夢野衣留。
この病室でひっそりと咲く、枯れかけの住人だ。
◆ ◇ ◆
「それじゃあね、夢野さん。また、その……お見舞いに来るから」
そう言って、小学校からの友達が病室を後にする。
「うん、それじゃあ」
またね。そう言おうとして、しかし私は言えなかった。友達の顔にあった、沈痛そうな表情を見てしまったからだ。無理に作った笑顔の奧に隠れる、どうしようもないほどの悲しさ。
私は掲げた自分の手を見た。かさかさに干涸らびてしまった、青白い手。
昔の健康なころの手とは全く違うそれ。顔もきっと酷いものになっているだろう。それが分かっているから、もう長いこと鏡を見ていない。見たらきっと、絶叫してしまうと分かっていたから。
私はもう、ずっとこの病院で暮らしていた。ずっと、ずっとだ。代わりばえのしない白い病室と、鈍色の窓枠に切り取られた空だけが、私の見る世界の全部だった。
それでもまだ、お見舞いに来てくれる人がいるうちはよかった。誰かが私のことを気にしてくれている。誰かが私を見てくれる。それだけで元気になれたし、頑張ろうと思えた。
けれど、それもだんだんと減ってゆく。
一番最初に私を見てくれなくなったのは、まさかのお父さんだった。
私にお母さんはいない。ずっと前に病気で死んじゃったからだ。それでも私は寂しいと思ったことはなかった。お父さんが、お母さんの分まで私に優しくしてくれたからだ。
そんなお父さんが、病院に来なくなった。
最後にお父さんが来てくれたときのことを、私は良く覚えていた。
その日、お父さんは手ぶらでお見舞いにやってきた。いつも必ず花束を持ってきてくれるお父さんが手ぶらなのは珍しかった。小さな頃、「衣留ね、大きくなったらお花屋さんになる!」と言っていたことを覚えていたお父さんは、必ずお見舞いに来るときは色とりどりの花を買ってきてくれたからだ。
しかし、その日、お父さんは手ぶらだった。お父さんの買ってきてくれる花束を見るのが、何よりの楽しみだった私は少し残念に思いつつも、笑顔でお父さんを迎えた。
しかし、お父さんの顔に笑顔はなかった。
そしてお父さんは、突然私に言った。もう限界なんだ、と。お父さんの目からは、涙が溢れていた。
『ごめんな、衣留……でも、もう、お父さん……限界なんだ……』
何が限界なのか、お父さんは言わなかった。けれどきっと、日に日にやつれてゆく私のことを見ていられなくなったのだろう。泣きながら、お父さんは私に謝り続けた。
『待って……! 待ってよ! お父さん! わたしを一人にしないで!』
そう言って叫んだが、お父さんは謝るばかりだった。それが私が最後に見たお父さんだった。
最初の頃は、私はお父さんを責めた。一人娘を見捨てるなんてと、一日中お父さんの悪口を言い続けていた。
けれど、それも長くは続かなかった。やっぱり私はお父さんが大好きで、例えお父さんに見捨てられたとしても、好きな気持ちは変わらなかったからだ。
そして私は――仕方がないと諦めた。
大好きなお父さんを責め続ける事なんて出来なくて、そして責められないなら仕方がないと思うしかなかったからだ。
それからは、急激に私の周りから人が減っていった。友達、親戚のおばさん、学校の先生……だんだん、みんな私のところに来なくなっていった。
花瓶に何もない日が、何日も何日も続く。からっぽの白い花瓶。最後の花が生けられたのは、いったいどれくらい前だっただろうか。
今もそうだ。花瓶には、何の花も咲いていない。
「まるで、私みたいですね……」
花が生けられるはずなのに、何も入っていない花瓶。
それを見て、私はまるで自分のようだと思った。
私は花瓶から目をそらすと、窓の外へと視線を移した。こうして何もせず、何も感じず、何も見ず、一日を過ごすのが私の日常だった。
しかし、そこで私の日常にぴしりとヒビを入れる声が響いた。
――どうも、ご利用ありがとうございます! 花屋『ルンランリンレン』よりお届け物です!
「……?」
まだ若いだろう、男の人の声。
いつもなら何も感じないはずなのに、なぜかこの時だけは気になった。少しだけ身を乗り出し、窓の下を見る。
果たしてそこにいたのは、真っ赤なエプロンをつけた私よりちょっと年上くらいの男の子だった。手に持った花束を、お見舞い客と思しきおばさんに手渡していた。
『こちらが領収書になります。退院のお祝いの花束だって聞いてたんで、ちょっとサービスしときましたから』
『あら、ありがとう。ようやくお爺ちゃんが退院できたんで、それでね』
『それはよかったですね。お父さんですか?』
『ええ、主人のほうのね。もうずいぶん歳なんだけど、でもまだまだ長生きして欲しくて。わたしのほうの父も母ももう亡くなってるからよけいにね』
『退院できて本当に良かったですね。――それでは、今後とも花屋『ルンランリンレン』をよろしくお願いします!』
勢いよく頭を下げ、そして荷台付き自転車に飛び乗る男の子。そのまま走り去る。
「……花屋『ルンランリンレン』……」
私は、なぜかその名を覚えた。
◆ ◇ ◆
それから私の日常に、ちょっとした楽しみが加わることになった。
花屋の店員さんと思しき男の子が届けに来る花束を、遠目から眺めることだ。花の名前をどれだけ当てられるかなんてことにも挑戦した。一本も分からなかったときなど、妙にムキになって病院の図書室からありったけの植物図鑑を借りたりもした。
だいたい、男の子は一週間に一回の頻度で配達に来た。毎日毎日、私は窓の外を見続けた。
いったい、今度はどんな花が見れるのだろうか?
そんな思いが、徐々に『今度はいつ、あの男の子に会えるのだろうか?』というものに変わっていったのは、もしかしたら当然だったのかも知れない。
色あせた私の日常に、唯一の楽しみを提供してくれる男の子。私はいつしか、そんな男の子のことが気になり始めていた。
もちろん、これは私の自分勝手な思いだ。私が毎日毎日花束を楽しみにしているなんて、あの男の子が知るはずもない。
けれど、私はそれでよかった。それでいいと、思い込んだ。
しかし、そんな私の日常に亀裂が入る。
本当だったら私が高校二年生に進級していただろう、ある日のことだった。
その日も、私は窓の外をじーっと見つめていた。最近になって自転車からスクーターに乗り物が変わったためか、前よりも男の子の配達の頻度は上がっていた。それは私にとって、とても嬉しいことだった。
何も入っていない花瓶を視界に入れないようにしながら、窓の外を眺める。
「あ……!」
そこで、私は顔をほころばせた。病院へと続く道に、真っ赤なスクーターとエプロンが見えたからだ。スクーターの後ろにダンボールが括り付けられているのを確認し、私は身構える。
病院の前にスクーターを止めると、男の子はダンボール箱から花束を取り出した。すかさず、私は目を凝らす。
ええと……チューリップに、かすみ草……あとは、えーと……
「あら、またあの男の子を見てるの、夢野さん?」
「ッ!」
突然の声に、私はビクリと肩をふるわせた。
振り返ると、ナースのおばさんがにんまりとした笑みを浮かべ、私の方を眺めていた。
時計を見ると、ちょうど検温の時間だった。
「夢野さんも年頃だもんね。男の子が気になる気持ち、おばさんも分かるわー」
「ち、違います!」
私は慌てながら、
「わ、私はただ、花の名前を当てる……そ、そうです、クイズをしてるだけなんです!」
「照れない照れない」
ニヤニヤと笑いながら、ナースのおばさんは私の方へと歩み寄ってきた。同じように窓の外を見る。
「商店街にある花屋の息子さんね、彼。いつも家の手伝いをしてて偉いわ。彼、きっと良い旦那さんになるわよ、夢野さん。なんなら、おぼさんが声をかけてこよっか?」
「だ、だから私は、その……」
ナースさんの言葉に、私は縮こまる。
が、しかし――
それも、次のナースさんの言葉を聞くまでだった。
「そういえば彼、ちょっとだけ夢野さんのお父さんに似てるかしらね」
「……え?」
私の心臓が、ドクリと音を立てて跳ね上がった。
「……お父さんに似てる……私の……?」
「ええ、目元なんか結構。そういえば、ここのところずっと見かけてないけれど、お父さんは元気? お仕事が忙しいのかしら?」
「…………」
「夢野さん?」
突然黙り込んだ私を、ナースのおばさんが怪訝そうに見る。
しかし私はそれどころではなかった。
心臓がバクバクと凄まじいスピードで脈を打っている。冷や汗が止まらない。
そして次の瞬間だった。
「ぐっ!」
私の胸を、強い痛みが走った。肺が引きつり、呼吸が出来なくなる。
「ゆ、夢野さん!? ――誰か、先生を呼んで! 303号室の夢野さんが!」
ナースのおばさんの慌てたような叫び声を聞きつつ、私の意識は遠のいていった。
◆ ◇ ◆
それから私の容態は、一気に悪くなっていった。前は少しなら出歩けたのだが、今はベッドの上に起きあがることもやっとだった。呼吸器をつけていなければ、息をすることだって苦しい。当然、起きあがって窓の外を見ることも出来なくなってしまった。
再び私の目にはいるのは、空っぽの花瓶だけになった。
『――どうも、ご利用ありがとうございます! 花屋『ルンランリンレン』よりお届け物です!』
ベッドに横たわっていると、ふいに窓の外から、あの人の声が聞こえてきた。
とっさに起きあがろうとして、しかし無理だと悟る。胸を走る鋭い痛み。私は大人しく諦めた。
仕方ないと、そう思った。
「……お花、見たいですね」
そう呟き、そこで私は自嘲気味に笑った。
――自分みたいな枯れ果てた人間が、花を見たいと願う。
それが妙におかしくて、バカバカしくて、私は乾いた笑みを浮かべていた。
結局、私はもう枯れ果てているのだ。
枯れ果てた花など、誰にも見向きもされない。ただ枯れ果て、朽ちるだけ。
そんな私が、キレイに咲き誇っている別の花を見てどうなるというのだろうか……
「ふふ……ほんと、バカみたいですね……バカみたい……で……」
そこまで言って、ふと私は、自分の頬を冷たいナニカが流れているのに気付いた。
冷たく冷え切った水の感触。
自分が泣いているのだと、すぐに気付いた。
「あ、あれ……な、なんで……私、泣いて……」
枯れ果てた私が、涙なんかを流すはずがない。
そう思ったが、しかし涙は止まってはくれない。喉の奥から嗚咽がこみ上げてくる。
私は悟った。
「いや……」
ああそうか、わたしは……
「いや、です……」
例え、枯れ果てていたとしても……
「一人は、いや……」
まだ、ここに居るんだ。
「誰か、わたしを見て……わたしを見てください……お願い、誰か……!」
私は一人、泣き叫び続ける。脳裏には、自分を見てくれなくなったお父さんの顔と、自分が見続けた男の子の顔が思い浮かんだ。
そして――
神さまからのお知らせがあったのは、それからしばらくたってからのことだった。
◆ ◇ ◆
「――良い終焉です。夢野衣留様ですね。お迎えに上がりました。わたしはアンジェロイド、ルピナス1280と申します」
最後の7日間が始まる、その前夜。
私は一人、病院の前に立ちつくしていた。気がついたときには、私の身体は昔の健康なときのものに変わっていた。
「これが……私、ですか……?」
呆然と、私は自分の手を見た。ほっそりとした、けれど健康的は手だった。思わず涙が溢れそうになった。
「はい、そうです」
クラシックなボンネットバスと共に迎えに来たお姉さん――メイド服に、なぜか運転帽をかぶっていた――は、淡々とした声で、
「最後の時を滞りなく過ごしていただけるようにという、優しい神様からの配慮でございます。あくまでも、7日間だけではございますが」
「それでも、私なんかには十分です……」
私は手の平で溢れそうになった涙を拭うと、そう答えた。
「それでは、まいりましょう」
運転帽を被ったメイド服のお姉さんが、乗車を促す。
私はバスに乗り込もうとして、しかしふと立ち止まった。改めて自分の身体を見下ろす。
今までの枯れ果てた姿とは違う、健康的な姿。
「ちょっとだけなら、いいですよね……」
「どうかされましたか?」
「あ、あの、ちょっと待っていてください!」
私はそう言うと、病院の入り口にある緑色の公衆電話に駆け寄った。一度も使ったことのないテレホンカードをポケットから取り出す。次いで、備え付けの電話帳を捲った。
花屋で……ら、り、る……る……る……
あった!
私はテレホンカードを電話機に差し込むと、番号を押した。
留守番電話に繋がる。
私はドキドキする胸を押さえ、ところどころつっかえながら言った。
「あ、あの……その……は、花束の配達を、お願い、出来ますか……? 配達先は、せ、聖クレナンド病院の、303号室です……時間は朝の9時でお願いします……た、退院祝いの花束です……」
受話器を置く。
バカなことをしているという自覚はあった。
7日間で終わる世界に、あの花屋さんがあるとは限らないのだから。
けれどもし私の願いが叶ったなら、そのときは神様に感謝しよう。願いを叶えてくれた、優しい神様に。
「もうよろしいのですか、夢野様?」
「はい、お待たせしました!」
ボンネットバスに乗り込む。メイド服のお姉さんの運転によって、ブスブス……ブロロロとバスが走り出した。
窓から空に浮かぶ星を見つめながら、私は思った。
花が、見たい。
枯れ果てていない、キレイな花が。
世界が終わるまで――あと7日だった。
――いつか貴方にも訪れるであろう終わりが、優しいものでありますように……