葛の葉
このお話は、大阪の河内に伝わる、有名な昔話です。それを、狐視点に、オリジナルに再話したものです。かなり現代風なところもありますが、これを機に、皆さんにも、地域の昔話に興味を持っていただけると、嬉しく思います。
むかし、むかし、大阪の南にある、泉州信太の山は、狐が多く住み着いていることから、狐の森と呼ばれておった。ここの狐どもは、とにかく化けるのが巧みだったそうな。
「なあ、おっとうとおっかあは、何で一緒になろうと思たんや。」
まだ幼い女狐が、前を寄り添って歩く親狐に尋ねた。
「そりゃあ、おっとうもおっかあも、お互いに好き合ったからや。」
父狐が自慢げに鼻を鳴らした、
「好き合ったら一緒になるのん。」
子狐は不思議そうに小首を傾げる。
「いつかあんたにも解るときがきますよ。」
母狐がホホと笑った。
そのとき、すぐ近くで、ガサガサと音がした。どうも野生の動物ではなさそうだ。母狐も父狐も、音のした辺りをじっと見つめて、ピンと耳をそばだてている。子狐だけがきょとんと二匹の顔を見つめていた。
「はよ逃げ。」
父狐が叫んだ。母狐が同時に子狐に目配せする。
「え、どこに。」
子狐がおろおろとしている間に、ガサガサと音が近付いてきて、とうとう恐ろしい姿を現した。
「おお、おったおった、子狐や。これは悪右衛門さんがお喜びになるで。そら捕まえろ。」
棒切れを手に、人間の男が二人、狐の親子目掛けて飛び込んできた。びっくりした狐の親子は、咄嗟に三方向に分かれて逃げ惑った。
「このやろ、こいつめ、ちょろちょろと逃げやがる。ほれほれ、おとなしく捕まっちまえ。」
男達は、親狐には目もくれず、子狐めがけてどこまでも追い掛けた。
「だ、誰か助けて。おっとう、おっかあ、助けて〜。」
子狐は、泣きながら必死で走って逃げたが、いつの間にやら、神社の境内の中へと入ってきてしまっていた。しかも、子どもの狐には、もう逃げ切れるだけの力は残っていない。
「ほらほら、追い詰めたぞ。もう観念しい。」
不気味な笑いを浮かべて、男達がにじり寄ってきたとき、ふと、子狐の視界に布のようなものが入った。
(あ、あの幕の中に入ったら、助かるかもしれへん。)
子狐は、幕のようなものの中に、残りの力を振り絞って逃げ込んだ。
「おや、こいつは珍しいこともあるもんや。子狐やないか。」
幕の中には、人間の男達が、六人程で酒盛をしていた。子狐は、最後の望みと思って、男共の後ろへと身を縮めて滑り込んだ。
「邪魔するぞ。」
先程、子狐を追ってきた男達が、幕の中にするりと入ってきた。
「何者や。」
酒盛をしていた男達が驚いて刀を握った。
「今、この幕の中に、子狐が逃げ込んで来んかったか。わしらは、そいつを追って来たもんや。」
酒盛をしていた男の中の、特に若い男がふと顔を上げた。
「確かに、子狐はここにおる。しかし、なぜこの子を追う。」
若い男は、息を呑む程美しく、たくましい顔つきをしている。どうやら、この男達の主人であるようだ。
「河内の国の石川悪右衛門つね平という名を知っとるやろう。その人の奥方が、原因不明の病で苦しんでおられる。それを治すには、若い女狐の生肝が要るそうでな、わしらはその命を受けてこうしてそいつを追ってるんや。」
男達は荒い息で、狐にじりじりとにじり寄った。
「お前らこそ無礼やぞ。摂津の国の安部保明という名を知っとるやろう。この方は、その子、保名さんやぞ。」
供の侍たちはいきり立って男達を取り囲んだ。
「いや、そんなことはよい。しかし、そうは言われても、私とて、この子狐をみすみす引き渡す訳にはいかない。ここに逃げ込んで来たのも何かの縁。このような神聖な場所で喧嘩沙汰は良くないし、お前達は早くここから立ち去りなさい。」
保名は、刀の柄を握ると、男達を威嚇した。
「な、何おう。」
男達が後ずさりし始めたそのとき、
「今の話、聞かせてもらったぞ。」
しわがれ声がしたかと思うと、バサバサと張られていた幕が切り落とされた。
保名達がはっと気付いたときには既に遅く、いつの間にやら大勢に周囲を取り囲まれてしまっていた。
「わいが悪右衛門つね平じゃ。この状態でもまだ、その子狐をこっちに渡さへんつもりか。」
額に青筋を浮かび上がらせ、悪右衛門は言った。
「私の気持ちは変わるはずもない。早々に帰られよ。」
微塵も焦った様子を見せず、保名は刀を鞘から抜いた。
「何と生意気な若造や。皆の者、こいつの首を切ってしまえ。」
悪右衛門の一声で、その場は大乱闘となった。
保名も相当に腕が立つらしく、ずいぶん悪右衛門を手こずらせたが、悪右衛門の多勢に、六人の力だけでは敵うはずもなく、とうとう疲れ果てて、保名自身も大怪我を負ってしまった。
「ずいぶんな事をしてくれたなあ。さあ、覚悟せい。」
悪右衛門が保名に止めを刺そうとし、保名自身もこれまでかと諦めががかったその瞬間、
「おや、悪右衛門どの、ここにおったんか。」
やんわりとした声がすぐ近くでした。
はたと悪右衛門が手を止めて、声のした方へ目をやると、何と、いつもお世話になっている、河内の藤井寺のらいばん和尚が立っているではないか。
咄嗟に、悪右衛門はペコリとお辞儀をした。
「先程、そなたの家に行ってみたら、女房どのがすっかり元気になっておったもんやから、それを伝えにここまで来てみたら、どうしたことや、この騒ぎは。それに、そこの人は一体どうされたんや。」
和尚がしかめっ面で悪右衛門を睨み付けると、悪右衛門は恐縮した様子で、今までのいきさつをこれこれこれと話して聞かせた。
「何と。私がここを通りがかったのも、きっと神さんのお導きや。この男の命は私に預けてくれへんか。」
和尚が保名を助けるように悪右衛門に勧めるが、なかなか首を縦に振ろうとしない。
「この男、きっと私の弟子に仕立て上げると約束するから、どうか私に譲ってくれ。」
和尚の強い願いに根負けして、悪右衛門はしぶしぶ保名の命を見逃してやった。
そして、すっかり元気になった妻のことを思って、初めの子狐のことも忘れて、浮き足立って、部下を引き連れて帰っていった。
「保名どの、大丈夫でっか。」
和尚は保名の体を起こすのを手伝ってやると、奇妙なことを口にした。
「実は、私は人間やありまへん。先程、娘を助けて頂いたお礼に、この姿に化けて、悪右衛門を騙したのです。この先に、湧き水の出る美しい川がありますよってに、そこで傷を洗われるといい。」
そう言い終わらないうちに、和尚の姿はするりと元の狐の姿に戻って、森の中へと消えていってしまった。
(何と不思議な事もあるもんだ・・・。)
保名は呆然として、しばらくその場に座り込んで動かなかった。
「ええか、あんたはあの保名という人間の男に命を助けられたんや。あんたは人に化けて、一所懸命に看病してやりなさい。それが狐の礼儀というものです。」
草陰で、母狐は子狐に静かに諭した。
「そうや、あんたも狐の子や、恩を報いらなあかん。もうすぐ、そこの川辺へあのお人は傷を洗いにくるはずや。さあ、早う行ってきなはれ。」
父狐も子狐の頭を鼻でぐいと押した。
「うち、ほな行ってくる。」
子狐は両親との突然の別れに涙しながらも、命を張ってまで自分を助けてくれた保名に、一生を捧げる覚悟を決めた。
「そやけど、絶対に誰にも正体を悟られてはいけまへんよ。悟られたら、掟によって、人と関わりをもつことができなくなりますからね。せやから、十分に気をつけるんですよ。
母狐は、名残惜しそうにちらちらと振り返りながら掛けていく娘狐に、何度も忠告した。
さて、子狐が十六、七の娘の姿に化けて、川辺で洗濯をしているふりをしていると、とうとう保名がよたよたと危うい足取りで、傷を洗いにやって来た。
(あ、あの人やわ・・・。)
保名の方も、娘に気付いた様子で、じっとこちらを見つめている。
ざっくりと切れた、右肩から胸にかけての傷は、どす黒い血でぬらぬらと不気味に光っている。保名は、傷を洗おうと屈み込んだが、力尽きたのか、その場にどさりと倒れこんでしまった。
「どないされたのですか。」
娘は洗濯物を放って急いで保名の元へと駆け寄った。
「私は、信太の神社に参ったのだが、訳あって荒くれ者と切り合いになり、手傷を負ってしまったのだ。あなたは。」
娘は、保名の顔を見つめてから、頬を紅く染めた。
「うちはこの山中に一人で住んでおります。近くに家があるさかいに、そこで傷をお癒し下さい。」
娘は保名に肩を貸してやり、我家へ招いて、毎日懸命に看病してやった。
その甲斐あって、保名の傷は癒え、いつしか、二人は互いの美しさと優しさの虜になってしまったのだ。
(おっとう、おっかあ、やっとあの時の話の意味が解ったわ、うち。)
いつかの狐の両親が言っていたことを理解した娘は、間もなく保名と婚姻を結んだ。
そして七年が過ぎた。
二人の間には、童子という名の子ができ、保名は田畑を耕し、妻は布を織っては幸せに暮らしていた。そんなある日のことである。
「まあ、何ときれいな菊の花やろ。」
息子を寝かし付けた後、妻は、庭に咲き乱れる菊の花の美しさにうっとりし、思わず変化が解けてしまっていたことに気付かなかったのだ。
「おっかあ、おっかあや。」
幼い童子が昼寝から目を覚まして、突然母の元に駆け寄って来た。
「ああ、どうしたんや。」
優しげな声で振り向いたのは、いつもの母の顔ではなく、狐の顔であった。
「ひっ。」
あまりに驚いて、童子は声も出さずに真っ青になって、家の中へと引っ込んでしまった。それを見て、初めて母は、自らの姿が狐に戻りかけていたことに気付いたのだ。慌てて元の姿に戻ったが、
(えらいこっちゃ、どないしましょ。可愛い童子に本性を見られてしもうたわ・・・。何て阿呆なことを・・・。)
と、自分の浅はかさに落胆して、がっくりと首を落とした。
そして、いつしかの、母狐の忠告を思い出した。
「絶対に誰にも正体を悟られてはいけまへんよ。悟られたら、掟によって、人と関わりをもつことができなくなりますからね。」
掟を破ることは、一家全員の死を意味する。
しかし、愛する夫保名と、幼い我子童子をそのような目に遭わせる訳にはいかない。
「こうはしておれない。本当は、保名さんにもう一度だけ会いたかったけれど、なるべく早くここを出なければ・・・。」
妻は、達筆に手紙と一句の歌を書き置くと、後ろ髪を引かれる思いで泣く泣く山の中へと消えていった。
恋しくば 尋ねて見よ 和泉なる
信太の森の うらみ葛の葉
夕暮れになり、保名が家に戻ってくると、童子がおろおろと家中を捜し回っている。
「おっかあはどうした。」
保名が童子に尋ねると、童子は顔中真っ赤にして泣きじゃくった。
「おっかあが、おっかあがおらなんだ。」
保名もまさかと思い、家中、妻の姿を探すが見つからない。
「これは・・・。」
障子に書かれた一句の歌と、寝間の枕元に置かれた手紙を見つけ、震える手で開けてみると、そこには、驚くべき事が書かれていた。
『今まで直隠しにしておりましたが、わたくしめは、七年前、あなたに助けられた女狐でございます。御恩に報いる為、お傍に仕えさせていただいておりましたが、とうとう正体を我子に悟られてしまい、掟により、森へ帰らねばならなくなりました。どうか、お許し下さい。そして、わたくしの分も幼い子を守り育ててやって下さいませ。』
読み終えると、保名は声もなく涙を流した。
「何と・・・、私の妻は、あの時助けた子狐であったのか。今頃、我子が恋しくて、森でしくしくと泣いているだろうに。」
一方、夜が更けゆくに従って、冷たい風が吹き荒び、より一層、愛する夫と子から引き裂かれた、女狐の辛い思いは増していった。女狐は、狐の姿に戻って、狐の棲家に向かって、とぼとぼと一匹歩いていた。
(ああ、今頃、保名さんはがっかりしてはるんやろうな。七年間一緒に暮らしてきたのが、狐やったなんて・・・。それに、童子は『おっかあ、おっかあ。』と寂しがって泣いているんやないやろうか・・・。)
幼い子を捨てて置いてきてしまったことに、不憫でやりきれない気持ちでいっぱいであったが、しかし、もう二度と二人に会うことは叶わないだろう。
「やあやあ、お前さんよ。これで良かったんや。」
何処からか、仲間の狐が木々の間から顔を出した。
「さあさあ、早うこっちへ。」
ほろりほろりと涙を流す目狐を、数匹の狐達が棲家へと誘う。
「お前さんは今まで十分あの人間に恩を返してきた。せやろ。今日はもう疲れたやろうから、ゆっくりと休んだらええ。」
しかし、女狐は一向に泣き止む気配はない。女狐は、しくしくとひたすらに泣き続けた。
そんな折、
「大変や、大変や。」
一匹の狐が息を切らして棲家に駆け込んで来た。
「一体どうしたんや。」
毛並みもすっかり悪くなってしまった、狐の長が尋ねた。
「すぐ近くの池のほとりで、人間の親子が心中しようとしとるで。どうも、女房に逃げられたらしいわ。」
女狐は、ぴたと泣くのを止めたかと思うと、他の狐が止めるよりも先に、棲家を飛び出して、走りに走った。
(何と、何ということや・・・。)
女狐がその場に駆けつけたとき、正に保名が、自らの刀を我子の首にあてがっているところだった。突如現れた狐の姿に驚いて、保名は刀をがちゃりと落とした。
「そこにおるのは、童子の母であろう。」
童子は怯えた様子で女狐を見つめている。
「頼むから、もう一度だけ、いつもの母の姿になってくれんか。」
保名の願いを聞き入れ、女狐は、今一度、池の水面に姿を映して、あれという間に元の女の姿へと変化した。
「あ、おっかあや。」
童子は声を挙げて母に駆け寄った。
「ああ、何で死のうとなんかしたんや。死んだら、うちが胸を裂かれる思いで、保名さんとこの子から離れた意味があらへんやんか。」
母の姿になった女狐は、子にすがりついて泣いた。
「お前と二度と会えぬならば、死んで会うしかないと、二人心を決めたんや。でも、こうして再び会うことができた。頼むから、もう一度、あの家へ戻ってきておくれ。お前が狐であろうが何であろうが、私がお前を愛していることに変わりはないのだから。」
保名もつたと涙を流し、妻の細く白い手を掴んだ。
「いいえ、それはできません。うちかて、できることなら、あなたとこの子の傍で添い果てたい。でも、狐の世界では、正体を人に悟られたら、二度と人と関係をもったらあかん言う掟があるんです。掟を破ったら、あなたもこの子も祟り殺されてしまう。せやから、保名さん、どうかこの子をうちの代わりに育て上げてやっておくれ。」
女狐は保名の手を優しく握り返した。その手は暖かく、出会った頃と何ら変わりはない。
「そやけど、この子は、普通の人間ではありまへん。成人したら、きっと世に一人の凄い力を持った者となりますさかい。せや、うちの形見として、これをこの子に授けましょ。」
女狐は、袖口から貝殻程の大きさの、金の小箱を取り出して、子の手に持たせた。
「おっかあ、これ何。」
涙と鼻水でぐしゅぐしゅになった顔を、もう片方の手の甲でこすりながら、童子は小首を傾げた。
「この箱はな、狐の世界でのお守りや。これを肌身離さず持って、正しく使えば、この世の全てが手に取るようにわかるようになるんよ。」
童子はほうとその箱を覗き込んだ。
「それで、ここを開けてごらん。」
女狐が箱の蓋を開けてみると、中に、水晶のように光る美しい玉が入っていた。
「この玉を耳にあてて聞いてみなさいな。」
童子は言われた通りに、その玉を自らの耳にあてがって、そっと耳を澄ました。
「おっかあ・・・。鳥がしゃべっとる。蛙も虫もや。」
目をきらきらと輝かせて、童子は保名の顔を見た。
「おお、何と・・・。」
保名は呆気にとられたように、その様子をじっと見ている。
「これは狐の血を引く者にしか使えまへん。さあ、もうこれで形見の品は渡しましたよ。夜が明ける前に、早うお帰り。今ならまだ間に合います。」
明るみ掛かってきた空を気にしながら、女狐は童子を父に手渡そうとした。
「嫌や、ぼく、ずっとおっかあと一緒がええ。おっとうようもおっかあがええんや。」
泣き喚く童子を受け取ると、保名は決心したようにこくりと頷いた。
「お前の気持ちはよくわかった。きっと私が、この子を立派に育て上げてみせるぞ。」
女狐は切なげににこりと微笑んだ。
童子は火がついたように泣き喚いている。
「これ、童子。おっかあをあんまり困らせるんじゃない。さあさ、お別れぞ。」
保名は、気を抜くと零れ落ちそうな涙を何とか耐えて、心を鬼にして、振り向く事なくその場を後にした。ただ、父の腕の中で、必死に、
「おっかあ、おっかあ。」
と母を呼ぶ童子の声だけが、いつまでも響いていた。
女狐は、その声を振り切るかのように、がむしゃらに高い岩場に駆け上り、その頂上で、渾身の力で遠吠えした。その声は、どこまでもどこまでも、天高く上っていったという。
そして、それきり、狐の中にも、人間の中にも、その女狐を見た者はいないそうな。
その数年後、世に、不思議な力をもって、星を読み、動物や御霊の声を聞くという、陰陽師安倍清明の名が知れ渡ることとなる。その人こそ、その保名の子、童子なのである。
稚拙な文にお付き合い頂き、ありがとうございました。