第2-6章
「いってぇ~」
不幸中の幸いか、頭は強打せずに済んだが、背中に伝わる温度がとてつもなく熱い。
「すみません、大丈夫ですか?」
優しそうな女の人の声が降ってくる。
「あぁ、なんとか大丈夫です」
昨日の飯の時の後頭部強打に比べたら遥かにましだ。
「って、お兄ちゃん!?」
? 誰だお兄ちゃんって?
寝そべっていた身体の首辺りに手が回されて、上半身が起こされる。これのお陰で、影しか見えていなかった相手の姿がはっきりとわかった。
「えっと、…結霞ちゃんだったっけ?」
「うん、そう」
そこにいたのは昨日色々とあった相手の自称妹の結霞ちゃん。
「大丈夫? どこも怪我してない?」
同じ目線になるようにしゃがんで俺の顔を覗きこんでいる。昨日の蕩けたようなまざしはなく、丸っこく大きな瞳をしていた。
「背中が少し痛いくらいで、他は何ともないから」
まだしっかりと姿を見たことはなかったけれど、正面から見た彼女は普通に可愛らしかった。ショートカットの後ろ髪を二つに分けており、食卓で見た時とは違った印象を受け取った。
あの襲われた時に受けた印象は、大人っぽそうだとか、妖艶、艶めかしいなどの類のものだったけれど、こうしてみると、年相応の幼さがその顔にはあり、中学の制服を着ていることもあって年下なんだなぁと初めて実感できた。
「本当にごめんね、結霞があんな見通しの悪い所で靴ひもを結んでいたせいで、こんなことになっちゃって」
だからあんな所でしゃがみこんでいたのかぁ。
自然と視線が下に向く、確かにほどけたままの靴ひもの靴を履いていた。顔に目線を移そうとした時にその途中で動きが止まる。太ももに、その奥に視線が行きそうになったがどうにか自制して止める。
「ほら、なんともないから、もう謝んなくっていいよ」
だいじょうぶだぞっと笑顔で答える。
「わかった、立てる?」
先に結霞ちゃんが立ち上がり、手を指し伸ばしてくるので、それを掴み取り、立ち上がる。
「サンキュー」
「あ、ちょっと待ってね」
起き上がらせたと思ったすぐさま俺の後ろに回り込む。殴りかかられるか!? と一瞬身構えそうになったけれど、そんなことはなく優しく背中に手が触れられる。
「砂で汚れちゃったね」
背中に着いた砂くずを払ってくれたみたいだ。
「おぉ、ありがとな」
「へっへ」
悪戯っぽく笑って答える。
「んじゃ、帰るか」
「うん」
遠目に見える月の方に向かって歩き始める。
「そう言えばなんでこんな時間まで外にいたんだ?」
俺は新しくできた友達と一緒に遊んでいたので、暗くなってから帰途についているわけだが。
「学校の友達と久しぶりに会ったから、マックでお茶していたの、そしたらこんなじかんになってたの」
そうか、中学の方も始まったばかりだから、友達と積もる話でもあったんだろうな。
「そういえば、結霞ちゃんは何年生なんだ?」
「2年生だよ」
「おぉ、一番楽しくなる時だな」
「そうなの?」
「俺の時はそうだったな」
2年生になった頃には学校に慣れてきて、友達付き合いも完成してきている。力を抜くタイミングも把握できるわけで、学校を上手い具合に乗り切ってもいけるようになるしな、中だるみって言えば聞こえは悪いけれど、適応してきたっていえばそうは聴こえないしな。
「部活は入っているのか?」
「うん、バドミントン部にはいってるよ」
どう? と訊くようにエアスマッシュを決めて見せる。
「それっぽいな」
少なくとも、俺が真似るよりかは何倍も様になっている。
「今日話していたのも部活の友達だったの」
「へぇ、いいな」
俺は帰宅部だったからそういう部活動の仲間と一緒に遊ぶってことは体験したことがないからちょっとだけ羨ましかったりする。
なんとなく天を見上げる、街明かりによって光が遮られてあまり星は見当たらない。街中は意外と静かなもんだった。耳に届くのは民家からこぼれる人々の営み、遠くを走る自動車の重低音、それくらいしか聴こえなかった。
「みんな大切な友達だよ」
「その気持ち、忘れるなよ」
俺みたいに寂し思いはして欲しくはないからさ。
「うん、大丈――」
「危ない!」
咄嗟に結霞ちゃんを引き寄せる。
低音を響かせて颯爽と自動車が一台通り抜けていく。
「大丈夫か?」
「えっ!? あ、うん」
何が起きたのか最初わからなかったようだが、はるか前方に消えていこうとしているテールランプを見つけて理解のだろう。
「にしても危ないな、こんな狭い道をあんなスピード出して走るか普通」
昨日も思ったけれど、やっぱりここは地味に危ないな。
「ありがとう、大丈夫だからもう放して」
「あっ、ああ、ごめん」
腕の中に結霞ちゃんがいたことを一瞬忘れていた。
込めていた力を抜いて解放する。
そして、止まっていた脚を再び動かして家路へと着く。
「すっかり日が暮れちまったな」
「そうだね」
そんな短いやり取りを交わしてからドアノブに手をかけ、開け放つ。
「おかえり、そーちゃん」
「あ、ただい…ま?」
言葉に詰まってしまった。前方から漂ってくるモノがとてつもなく冷たいせいで。
「何かいうことはないかな?」
聴こえなかったのかな、じゃあもう一回。
「ただいま! 叶さん!」
絶対に聴こえるように大きく明るい声でのご挨拶。
「他に言うことがない?」
心の中を窺うことのできないような笑顔でもう一度訊き返された。
「何かあったでしょうか?」
なぜだか自然と背中から冷や汗が流れ始める。何かの気配を感じ取ったのか結霞ちゃんが俺の横を通りすげて室内へと侵入していく。その後に付いて一緒に入り込もうとしたが襟首を掴まれて阻まれた。
「そーちゃん?」
「…はい」
「正座」
「はい」
昨日包丁を握っている時に一瞬垣間見せた冷徹な笑顔に抵抗することもできず、素直に従う。
「私は怒っています」
どうにか室内には入れてもらって玄関と廊下のつなぎ目辺りで足を揃えてしゃがみ込む。
「なぜでしょうか?」
「ヒント一、昨日」
昨日とそんな漠然としたようなことを言われても困るのだが、特に昨日はよくわからないことが色々とあったせいで記憶の中がカオスになってる。
「ヒント二、料理中」
料理中で印象に残っているのはあの冷徹な微笑みと、面倒くさい隆也さんくらいだな。
「ヒント三、帰宅後」
家に着いてから、叶さんとの約束?
「あっ!!」
「思い出した?」
この間も笑顔を一切崩さないところにより恐怖心を煽られてりる気がする。
「案内をしてくださいって頼んでましたね」
これがあの時に感じた悪寒の正体だったのか。
今回のことは怒られても文句は言えないな。誘ったのは俺なのに、その当人が約束を放り投げるなんて最低だろ。
「ずっと、待ってたんだよ?」
「どうも、すみませんでした!!」
もう、土下座をするしかなかった。これでも足りないなら、スライディング土下座、でも土下寝でも致しますので、どうかお許しを。
平謝りをしていたら、仁王立ちで俺のことを見下していた叶さんがしゃがんでそこまでしなくっていいから、と体制直させる。
「ちゃんとわかってくれたならそれでいいからね」
ポン、と軽く頭に掌が置かれ、撫でられた。
「あ、うん」
何かいままで感じたことのないような、暖かさというか嬉しさのようなものが心の中に沸き上がてってきた。
「それじゃあ明日こそは行くんだからちゃんと朝はやく起きるんだよ」
立ち上がらせる為に俺の手を掴んで起き上がらせて、手を繋いまだままリビングへと歩き始める。その先導して進む背中に向けて返す小さめの返事。
「うん」
なんと言えばいいのかよくわからないけれど、全てを包んでくれるような大きさ、温もりを感じ取っていた。
そんな余熱を心に留めながらもうじき寝ようと自室のベッド上に寝転ぶ。
今日はなんのトラブルもなく夕食にありつけたし、風呂も普通に入ることができた。
体にかかってくるのは今日という一日の中で蓄積してきた程よい疲労感、それによって徐々に眠気が誘発されてくる。
そういえば日記を付けないとな。
思い出したのですぐ行動に移ることにする。まだ一日しかつけていないんだ、責めて三日ぐらいは付けてみようじゃないか。
『4月5日金曜、晴れ』
今日も恵まれてた天候の下で助かったな。
『473という受験番号を握りしめて向かった雨峰高校、校門を通り抜け敷地内に入ったときはいよいよここに通う日が来たんだな、と胸に高まりが生まれてきていた』
この気持ちっていうものはそうそう味わうことはできないものだろうな。
『目標としていた友達作りも上手くいったと思う。ゲリライベントを乗り越え、街にでて久しぶりに遊んだ。そして楽しい時間はあっという間に過ぎてしまう』
まぁ、また月曜日になればみんなとまた会えるわけなんだから、それまで待てばいいだけの話か。
『そして帰り道に結霞ちゃんとあった。またしても出合い頭は良いものではなかったけれど、今回は普通に話すことができて一安心だ。で、あの細道の危険性を今一度知らしめるかのように通り過ぎていく自動車。結霞ちゃんが怪我をしなくてよかった。そのあとの叶さんによる説教。』
怒られたはずだったのに不思議と嫌な感じはしなかったんだよな。こんなことは今までなかったから新鮮な気持ちで受け止めていたからだろうし、〝お姉さん〟というオーラを感じ取っていたからなのかもしれない。
こんなものかね、それじゃあ寝ますか。
トントン、
叩かれる扉、返事をして開けてみる。
「どうしたの結霞ちゃん」
お風呂上がりなのか上気して赤みの残る頬、その顔から上目使いで飛んでくる視線に一瞬ドキっとさせられる。
「…うん、その、あのね」
なんの容量も得ないただ音を出しているだけの言葉にしかなっていない。
「一体どうしたの?」
もぞもぞとしている結霞ちゃんを訝しげな視線で見つめ続ける。
何かを決意したのか小さく息を吐いてから言葉を紡ぐ。
「相談があるの、訊いてくれる?」