夢うつつ
私は影に追われていた。
私は夢の中を必死に逃げた。
しかし、影は恐ろしく力を持っていた。
「なぜ、私を追いかける」
私は、とうとう影に捕まった。
「あなたは、人を殺したのです」
影が言った。顔は見えなかった。影は顔も影だった。
「私は人を殺したのか・・」
「そうです。あなたは人を殺したのです」
「・・・」
確かにそう言われれば、私は人を殺した気がした・・。
「あなたの奥さんです」
冷たく硬いコンクリートむき出しの狭い面会室で、私は妻に引き合わされた。
「これが私の妻なのか・・」
だが、まったく記憶がなかった。目は一つしかなく、鼻はなく、大きく開かれた口は、顔の下半分を覆うように大きかった。
「・・・」
彼女は、やたらと目立つ紫色の服を着ていて、その体つきが妙に艶めかしかった。
「・・・」
愛情はまったく私の中に残っていなかったが、欲情は感じた。
「有罪」
のっぺらぼうのように顔のない裁判官が言った。
「・・・」
裁判官の声が、どこからしたのか私には分からなかった――。
私は、刑務所に送られた。
「刑務所に愛はないぞ」
やたらと広い、真四角の護送車の中で、私の隣りに座る男が言った。
「俺は三回入っているんだ」
護送車は私とその男だけだった。
「・・・」
しかし、男は密着するように私のすぐ隣りに座っていた。
刑務所は、巨大な壁に囲まれた灰色の建物だった。コンクリートと鉄の無機質が入り混じった質感をしていた。その周囲を、まるで生きているみたいな灰色の濃い靄が覆っている。
「・・・」
私はその壁を見上げた。それは巨大なビルのような高さに見えた。
刑務所の中は妙に冷たかった。世界中の温かみがすべて失われ、消えてなくなってしまったみたいな冷たさだった。
愛などまったく期待していなかったが、確かにあの男が言ったようにここに愛はなかった。
「愛の消えた場所・・」
愛が死んでいる。そんな愛のなさだった。
私は影に伴われ迷路のような通路を歩いて行く。そのそこかしこに亡者のように同じ顔をした囚人たちが彷徨っている。
灰色の彼らは生きているのか死んでいるのか・・。それが分からなかった。
「・・・」
私は言い知れぬ不安を感じた・・。
大きな螺旋階段をグルグルグルグル上って行く。グルグルグルグル、グルグルグルグル上って行く。グルグルグルグル――
ここは迷宮だった。
「・・・」
私は迷宮の中にいた。真っ暗な迷宮――
方向も方角も何も分からなかった。自分が世界のどこにいるのか分からなった。
螺旋階段の端に少女が立っていた。
「・・・」
少女は赤い靴を履いていた。それは、この灰色の世界にある唯一の色だった。
「・・・」
少女はどの角度から見ても後ろ姿だった。
遠くで女の声がしていた。それは曲だった。悲しい曲だった。多分、誰かが死んだのだと私は思った。
頭上に、真っ赤な信号機が灯っていた。何を止めるためなのか・・。いや、むしろ何かを進めるためのような気がした・・。
最上階の部屋。
そこは氷のような金属で出来ていた。私の心は芯まで冷たくなっていく。
――無駄に広い空間。それが私をさらに不安にさせた。そこに金属の冷たさが漂う。
「ここは・・」
ここは刑務所ではなかった。
「ここは精神病院よ」
女が言った。広い無機質な部屋のその中央に女がいた。女は囚人服を着ていた。
「あなたは、人なんか殺していない」
女は、恐ろしく美しかった。唇には、目の奥に痛みを感じるほどの赤い口紅をしていた。
「しかし、血の記憶がある」
「それは、あなたの記憶じゃない。あいつらの記憶よ」
「あいつら・・」
「あなたは革命を起こそうとした」
「革命・・」
「世界は平和になるはずだった」
「・・・」
私にはまったく記憶がなかった。
「・・・」
気づくと女は消えていた。私は冷たい刑務所の壁を見つめていた。世界はざらざらとしていた。いつから世界はこんなだったろうか・・。
「ずっと以前から・・、なのか・・」
そんな気もした。でも、以前の世界はもっと澄んでいたようにも思った。
「・・・」
やはり、私には世界の連続がなかった。
「あの女は嘘つきよ」
振り返ると看護婦が立っていた。看護婦はやたらとエロい顔をしていた。見ただけで堪らなく欲情してしまう、そんなエロさだった。
「あの女は、パラノイア。嘘ばかりつくのよ」
看護婦が言った。
「近づいてはダメ」
「・・・」
私は黙っていた。
「あいつは集荷看護婦、あなたを殺そうとしてる」
女が言った。いつの間にかまた女がいた。
「・・・」
看護婦は消えていた。
「気をつけな」
「・・・」
殺されることよりも何が集荷なのか、そこが気になった。
どこを歩いても誰もいなかった。確かここに来た時はたくさんの囚人がいた気がしたが・・。
「あれは幻だったろうか・・」
私には確信がなかった。
「確かなもの・・」
そもそも確かなものなど、この世にあったのだろうか・・。
私は、廊下の真ん中で一人立ち尽くしていた。そこには冷たい無機質な空気だけが流れていた。
ここには時間がなかった。もう何年も経ったような気がしたかと思うと一瞬のような気もした。永遠も刹那もここでは同義語だった。
「・・・」
私は窓の外を見つめる。そこには時間があった。
「この世界の支配者がいなくなったの。私たちは自由になった。だから、あいつらと戦わなければならない」
また女がいた。
「あいつら・・」
「あいつらは正義の面をしている」
「・・・」
「ここにいる何ものをも信じてはダメ」
振り返ると集荷看護婦がいた。そして、いつの間にかまた女は消えていた。
「・・・」
そもそもこの世界に信じられるものなどあったのだろうか・・。私の自明は、壊れていた。
「世界は狂っている」
そう、世界は狂っている。その確信だけはなぜかあった。
世界はいつの時からか断片的に流れていた。連続した世界の同一性が崩れていく――。世界はこれで正解だったろうか――。
「・・・」
もともと世界は断片だった気もした。私は分からなくなる。この世界の正解は一体何だったろうか・・。
世界に感触がなかった。
「・・・」
私はじっと自分の掌を見る。
「・・・」
しかし、やはりそこに感触はなかった。
「まともな人間はみんな狂ってしまう」
女が言った。
「・・・」
私は、まともなのか――、それともまとも故に狂った人間なのか、狂うことのできない狂人なのか・・。
「・・・」
どこにも正解も目的もなく、意味も価値もない。私はそんな世界に生きている気がした。
世界の正常はいったいなんだったろうか――、私はそのことを完全に見失っていた。
私はどこにも寄る辺のない不安定の中にいた。
眠れなかった。私は何日も何日もまったく眠ることができなかった。
「眠れないんだ」
「これを飲めばいいわ」
集荷看護婦は薬を差し出した。
「・・・」
しかし、眠ることはできなかった。
世界には意味がなかった。だから、私は意味もなく不安になった。その不安はモアモアと次々湧き上がってくる噴火口の煙のように、どこまでも大きく膨れあがり私の中で膨張していく。まるで宇宙全体を覆う巨大な灰色の靄のように、それはこの世界すべてを覆いつくしていく。
私は不安だった。おののき立っていられないほど私は不安だった。
眠ることはできなかったが、夢は見ていた。夢の中の私は、知らない場所を歩いていた――
――私は知らない場所をひたすら歩き続けていた。どこを歩いているのかはまったく分からなかったし、どこに向かって歩いているのかもまったく分からなかった。だが、私は何かに憑りつかれたようにどこかに向かって歩き続けていた。
目の前に、突然、巨大な三叉路が現れた。
「・・・」
三叉路は不気味な闇で覆われていた。私はどっちに行っていいのか分からなかった。真っ白くぼやけたその迷いは、私を追い詰める。どちらに進んでも私は後悔するし、失敗する気がした。
三叉路をどっちに進んだろうか・・。記憶のない薄暗い地下の廊下を私は歩いていた。
暗い廊下のその先――、闇のその先に扉があった。
「・・・」
私はその分厚い鉄の扉の前に立つ。
「・・・」
中に誰かいた。
「・・・」
そこは血の匂いがした。
「その扉を開けてはダメよ」
いつの間にか集荷看護婦が私の背後に立っていた。
「狂ってしまうわよ」
そして、言った。
「・・・」
私はまだ狂っていないのか・・。私は言葉の意味よりそっちが気になった。
不安定だった。世界のすべてが不安定だった。グラグラグラグラと世界が揺れていた。グラグラグラグラと私の足元が揺れていた。
明日、私が、この私がいると、なぜ言える?
私の世界は途切れていた。
助けて欲しかった。
「誰か・・」
誰か私を助けて欲しかった。誰か私を治して欲しかった。私を正常に治して欲しかった。
「ここに医者なんかいないわよ」
女が言った。
「・・・」
「人の心は誰にも治せないの」
「・・・」
私はそのことをすでに知っていた気がした。
「そもそも正常とは一体何なのか・・」
そもそもそんなものがあるのか・・。
私は、決して許されない存在のような気がした。
私は叫びたかった。
「うおぉぉっ、うおおぉぉっ」
獣みたいに、絶叫したかった。思いっきり腹の底から低能のバカみたいに絶叫してしまいたかった。
しかし、叫んでしまったら、私は完全に狂ってしまうと思った。
「どうしたの?」
「私は・・」
集荷看護婦は注射器を持っていた。その中身の液体は、赤い色をしていた。それはやはり赤だった。この世界にある唯一の色・・、それは血の色だった。
「それは何ですか」
「・・・」
集荷看護婦は答えなかった。そして、それを私に注射した。
「・・・」
目覚めると、世界は連続した世界を取り戻していた。
「私は・・」
「・・・」
私は思い出す。
「・・・」
あの時、私はどうしても殺さなくてはならないと思った。理由はなかった。恨みもなかった。だが、どうしてもそれをしなければと思った。
「・・・」
あれは夢だったろうか・・、それとも・・、現実だったろうか・・。
・・・
「世界は狂っている」
女が言った。
「・・・」
私はそのことをすでに知っていた。
「この世にまともな人間なんていない。もしいるとしたら、それは私とあなた」
女が私を見る。
「・・・」
「私たちは狂えるほどのまともな神経をもっているってことなのよ」
そう言って、女は私を見つめた。女の真っ赤な唇が私を吸い寄せるように迫って来る。私はそれに抗えなかった。
私たちは激しく唇を合わせ、決して溶け合えない生物がそれを知りながら、しかし、それでも必死で身をよじり溶け合おうとするかのように舌を濃厚に絡ませ合った。
女が私の中に入ってくる。それはまさに女だった。何年かぶりに味わう女という生生しい肉体だった。
それは確かな現実だった。痺れるように確かな現実・・。
「うああぁあぁぁ」
私は声を上げていた。快楽に快感に、そして現実に――。
私たちは狂ったみたいに、いや、狂うがままにまかせ激しくお互いの体を貪り合った。そうしなければ本当に死んでしまうみたいに、私たちは本能と悦楽に狂わされるがままに、その身を激しく悶えさせた。
「革命はもう始まっている」
女が喘ぎながら言った。
「世界は解放される」
女はオーガズムの絶頂に声を震わせながら叫んだ。
「・・・」
私は窓から病院を囲む高い壁を上から見つめていた。壁はまるで命を吸い取ってしまうみたいにまったく無感情な灰色の冷たい色をしていた。
「あの壁の向こうに自由なんかないわよ」
いつの間にか集荷看護婦が隣りに立っていた。
「みんなそのことを勘違いする」
「・・・」
私は壁の向こうを見た。そこには、壁と同じ灰色の靄が漂っていた。
「出て行こうと思えばいつでも出て行けるのよ」
「・・・」
あの靄の向こう側・・。
「自由なの」
「・・・」
それは真実だろうと思った。人生は自由だった。だからこそどこにも自由はなかった。今までもこれからも――。
「ここには何でもある」
そう言って、集荷看護婦は前面のファスナーを下ろし、その着ていたナース服をボディスーツを脱ぐみたいにスルスルと抜いだ。その下には何も身につけていなかった。
「・・・」
それは妻と同じ体だった。
その分厚い唇から、はちみつが滴っていく。それが美しい螺旋を描くような集荷看護婦の裸体全体に艶めかしく流れ落ちていく。
「・・・」
私はそのはちみつを堪らなく舐めてみたい衝動にかられた。私は飢えていた。
「舐めていいのよ」
「・・・」
私はきれいなピンク色をした乳首の先にむくむくと溜まっていく、その美しい琥珀色の液体をしゃぶりつくようにして舐めた。
「あああぁ」
それは絶望の歓喜だった。
はちみつは、次から次へと溢れてきた。私は、餓鬼のようにそれを吸い、舐め、しゃぶり、貪った。
目の前に真っ赤に熟したイチジクのような陰部が、ジュクジュクと口を開けていた。その毒々しいほどの赤は恐ろしい魔物の口の中のようだった。そこにも大量のはちみつが溢れ出ていた。私は貪るよにそれにむしゃぶりつく。
私は飢えていた。堪らなく飢えていた。私は溢れ出る蜜を貪った。
透明な欲望が私の中を流れていく。
「ああ~」
溢れ出る蜜は私を堪らなく甘美な世界へと溶かしていく。
「ああああぁ~」
私はこのまま私のすべてが溶けて消えてしまってもいいと思った。何もかも、もうありとあらゆるすべてを失ってもいいと思った。
集荷看護婦はそんな私を見て笑っていた。
「・・・」
私は灰色の世界にただ一人立ち尽くしていた。音もなく、色もなく、味も匂いもなく、感触もなく、空っぽのまま世界はただゆっくりと私の周りを回っていた。
誰もが知っているはずだった。生きるということ。誰もが当たり前に知っていることだった。
しかし、私には分からなかった。
「生きる?」
それはいったいなんだ?なんなんだ。
「・・・」
私には分からなかった。
「あなたは誰なの?」
女がふいに訊いた。
「・・・」
そう、――私はいったい誰なのか――。
「私・・」
私の名前は何だったろうか・・。思い出せなかった。
「・・・」
私は一体誰なのか・・。
誰も知らない世界に、誰も知らない私がいる。
「私は・・」
私はどこにも立っていなかった・・。
それは星のない真っ黒な夜だった。私は真っ白いベッドにただ一人横になっていた。
「・・・」
私は知っていた。私がもう私でないことを――。
「あなたは旅に出るの」
闇の中から女の声がした。
「旅・・?」
「あなたはあなたを集めるのよ」
私は突然爆発した。
私はバラバラだった。私は、私の欠片を一つ一つ集めなければならなかった。
「私はいったい・・」
私は欠片だった。
私は宇宙の中に散らばっていた。
それは光のまったくない完全な闇だった。その漆黒の闇は、絶望的な孤独だった。
「お前は死ぬんだ」
私の中から、低くくぐもった声が聞こえた。
「お前は死ぬんだよ」
もう一度聞こえた。それはとても恐ろしい声だった。
私の中に死の恐怖が湧き上がる。
それは死よりも恐ろしい死だった。
あまりの恐怖に、私はその場で失禁し、意識を失った。
―――
「・・・」
私は目覚める。私はベッドに縛りつけられていた。
「ここは・・?」
「ここは保護室」
集荷看護婦がベッド脇から私を見下ろしていた。
「あなたは夢を見ていたの」
「・・・」
これも夢のような気がした。
「夢と現実・・」
私はその境が分からなくなった。
集荷看護婦は何かの機械を持っていた。
「俺を殺すのか」
「ふふふ」
集荷看護婦は、ただ笑っていた。
集荷看護婦が、両手に持っていた機械を私の両こめかみに当てた。
「うっ」
私の芯を強烈な電流が流れた。
私は再び意識を失った――。
「・・・」
私は、保護室の片隅でうずくまっていた。月の明かりが保護室を凍るように冷たく照らし出していた。
堪らなく孤独で、最低な気持ちだった。何もかもが絶望で気が狂いそうに最低だった。過去も未来も、そして、今も、すべてが絶望で堪らなく最低だった。
時間も空間も宇宙のすべてが真っ暗な絶望の闇に覆われていて、その絶望の濃い闇が形のない生き物のように部屋の中に染み入って来る気がした。その闇の霧は私を襲うように私の体をゆっくりと覆い、心へと侵入して、私を支配していく――。
「・・・」
私の心はうずくまったまま、動くこともできずにいた。
美しさが欲しかった。確かな美しさ・・。あの純粋な少女のような美しさ。
それを手に入れられたら、私は確かな何かに変われる気がした。
そう、確かな何か・・。
どれだけの時間が経ったろうか――、ふと見ると、保護室の扉が開いていた。
「・・・」
私はふらふらと外に出る。そのまま私はふらふらと夢遊病者のように暗い廊下を歩いて行った。
私は夢の中にいた。
私は暗い地下通路を歩いていた。以前歩いたことのある廊下だった。それが分かった。
廊下のその先に部屋があった。
「・・・」
あの部屋だった。私はその部屋の扉の前に立ちつくしていた。扉は恐怖で出来ていた。
「・・・」
私は、この中に何があるのか知っている気がした。
『開けてはだめよ』
集荷看護婦の言葉が頭の中で聞こえた。
「・・・」
私は扉を開けた。
「・・・」
そこには何もなかった。何も――。
上も下も、時間も言葉もなかった。概念も空間もなかった。意味も価値も、喜びも悲しみも、絶望すらも何もなかった。
「・・・」
私もいなかった。私の肉体もない。私という存在もなかった。私はどこにもいなかった。どこにも・・。そして、それは永遠だった。
「・・・」
「見てしまったのね」
集荷看護婦がいた。
「あなたは知ってしまった。世界の本当の姿を」
「・・・」
「あなたはもう戻れない」
「・・・」
どこに戻るのか・・。いや、私はどこにいて、どこに行っていたのか・・。それすらがもう分からなかった。
「・・・」
私はあの部屋から、壁の向こうの靄を見つめていた。
「・・・」
私はあの靄の向こう側の霞みにいる気がした。あの靄の向こう側の霞みがここなのだと分かった。
「・・・」
どこにも自由はない。私はそのことを知っていた。ただ、知っていた。
だからこそ、私は自由だった。私は完全な自由だった。私はそのことを知っていた。ただ知っていた。




