【掌編】翼の軌跡のその先へ
日課の剣の稽古をしていると、手がかじかんでジンとしてきた。
ヒルンが手を休め空を見上げると、ふわりと空から雪が降り始めていた。
(父が生きていたら、修練が足りないと豪快に笑い飛ばして、大きな手で包み温めてくれただろう。 母も、温かなスープを用意して、早く家に入るように言うだろう……)
しかし、冷たい体を温めてくれる家族は、もういない。
青年は自らの手をこすり合わせて、ハァと吐く息で温めた。
白い息があたりに広がる。
剣士の父とエルフの魔術師の母は、この雪月花の谷を出て、人々を苦しめる魔獣退治へ向かい、二度とは戻ってこなかった。
ヒルンがまだ子供だった頃のことだ。
そんな彼も、もう立派な青年になった。
エルフの谷にいるというのに、彼はエルフではない。
かといって人間の里にも行ったことはない。
ヒルンにとって、美しく閉じたエルフの谷が世界のすべてだった。
*
朝の稽古が終わり、丸太でできた簡素な家に入ろうとすると、その軒先にある泥でできた古い鳥の巣が目に入る。
(今年は、ツバメは戻ってこなかった……)
ヒルンは胸に、冷たい風が吹き込むのを感じた。
谷の外の世界は戦だとか魔物が出たとか、そんな不穏なことを風の噂で聞く。
(両親が谷の外で死んだように、ツバメももう二度とは戻らないのかもしれない……)
両親の亡きあと、毎年のようにやって来るツバメたちが、どこか心のよりどころになっていた。
外の世界をめぐり、ヒルンの元へ戻ってくるツバメ。
――― それが今年は、姿を表さなかった。
今年はツバメが帰らぬまま、年を越そうとしていた。
雪が静かに静かに、地を覆い隠すように降ってくる。
(今年も、そして来年も、僕はひとりなのかもしれない。 あのにぎやかな鳴き声も、空を舞う姿も思い出になってしまうのだろうか……)
そんな諦めが、ヒルンの胸の奥に重く積もっていた。
*
ヒルンは、剣の稽古を終え部屋へ入った。
朝一番で火を入れた暖炉の炎が揺れている。
その火を見ながら、彼はどうして自分があのツバメを心待ちにしていたのかを考えた。
森に行けば、いくらでも小鳥はいる。
輝く青い羽根を持つ鳥もいれば、美しい澄んだ鳴き声を響かせる鳥もいる。
なのに、なぜあの黒い小さな鳥が自分にとって特別なのか、ヒルンにはよくわからない。
ただ、薄青色の目を閉じると、季節を通しての、今まであのツバメの姿が思いだされた。
* * *
春の光が、谷に満ちていく。
ミモザの黄色い花がほころび、甘く清涼な香りが光の粒のように漂うと、ヒルンの心は少し落ち着かなくなる。
この時期になると谷の外から、花の香りと共にツバメが帰ってくるからだ。
ある朝、日課の剣の素振りをしていると、ふと小さな気配を感じた。
柔らかな風が谷を抜けると、空にひとすじの弧が描かれる。
ツバメが、春の光をすくうように飛んでいた。
ヒルンはその姿を見て、胸の奥が温かくなる。
(今年も戻ってきたんだな……)
黒く小さな鳥は、毎年確かな周期で谷にやってきて、春の訪れを告げてくれる。
その翼には、外の世界の息吹をはらんでいた。
遠い国々を渡り、必ずこの谷へ帰ってくる小さな渡り鳥。
春、雪月花の谷に、ヒルンの家にツバメが帰ってくるのは当然のことのようになっていた。
―― けれど、今年は空を切るあの細い影がどこにも見えなかった。
ヒルンは毎日のように谷の入口に立ち、春の風が運ぶ匂いを確かめた。
しかし、若葉の萌える音が聞こえるほど静かな谷に、ただツバメだけが戻らなかった。
*
夏になると、ツバメは谷の空を自在に飛び回る。
青い空を切り取るように、鋭く、軽やかに――。
ヒルンは、その軌跡を眺めながら剣を振る。
父に教わった剣を忘れないためだ。
谷の上空をツバメが縦横に舞い、鋭い軌道を描く。
ヒルンはその線を見るのが好きだった。
風を切るような、迷いのない線。
小さな体で遠い国々を渡り、外の世界を知っている鳥。
(あの鳥は、どこまで行ってきたんだろう?)
そのことを思うたび、胸の奥に小さな憧れが灯るのを感じていた。
やがて、ヒルンの丸太でできた家の軒先に、土でできたツバメの巣が完成した。
黄色い口をぱくぱくとさせる雛たち。
献身的にえさを運ぶ親鳥。
そのにぎやかで微笑ましい様子に、ヒルンの心は安らぎを感じる。
――だが今年の夏、空はどこまでも澄んでいるのに、ツバメの影はひとつもなかった。
ただ、地を揺らす遠雷の音がかすかに聞こえただけだった。
*
秋になり、子ツバメが巣立ったあとの空の巣を見上げるとヒルンは一抹の寂しさを感じた。
谷の草原はミューレンベルギアで薄紅色の雲海のようになり、風は少し冷たくなる。
風に揺れる薄い草の穂が、月明かりに照らされて影を落とす。
大きな月影は、かつてツバメが描いた弧に似ているような気がした。
ヒルンは草原に立ち、風に身をまかせる。
淡い金の短髪とわずかに長い耳が風にそよぐ。
谷の外の風をまとったあの翼の記憶が、月の光の中で揺れると、胸の奥に小さな空白が生まれた。
(また、戻ってきてくれる日が来るのだろうか?)
ヒルンは、まるで帰ってくる場所を守るように、月を見上げていつまでも立ち尽くした。
*
冬が訪れると、谷を押しつけるように雪が降り始める。
何も忘れたくないのに、雪はすべてを覆い隠そうとする。
ただ、ヒルンの小さな鳥への憂いは消せなかった。
翌朝、ヒルンは剣の練習をしようと外に出たが、 その白い世界を前にして立ち尽くした。
(思いのほか積もったな……)
雪が降り止むと、世界は無音になる。
音が吸い込まれ、耳の奥が痛くなるほどの静寂。
氷のように透明で青い空と、白い平面がどこまでも続く。
(僕は、あとどのくらいここで過ごすのだろうか?)
* * *
雪原の向こうにきらきらと光るものが見え、ヒルンはそちらへ歩いて行った。
雪で白く飾られた木々の隙間から、日の光が差し込み細い光の道ができている。
(この道は、谷の外へ続いているのだろうか?)
そのとき、呼ばれたような気がし、ハッと空を見上げると、青空に影が走った。
(……ツバメ? いや、そんなはずは――)
冬にはありえない、小さな黒い夏の鳥の影。
その 影は彼の胸の奥を美しい弧を描くように切り裂き、重い枷を取り払った。
ヒルンは誰かに背中を押されたように、とっと彼の身体がわずかに前へ傾くと、雪上に一歩の足跡が付いた。
(探しに行こう、あの軌跡を――!)
顔を上げそう思った瞬間、ヒルンの薄青色の目から熱い涙がこぼれ落ちた。
*
ヒルンはせわしなく雪をかき分けながら、一直線に家へ戻った。
そして、思い出の品が詰まった箱を開ける。
父の形見の剣。
母のペンダント。
印が多く残された古い地図。
方位磁石。
それらをひとつずつ、旅袋に詰めていく。
どれも重いはずなのに、不思議と手早く詰めることができた。
かじかんでいた手は暖かく、それは胸の奥から湧き上がっているようだった。
ヒルンは小さな紙切れを取り出し、短い言葉を書きつけた。
(僕は旅に出ます。外の世界に行き、この軌跡を、自分の足で追ってみます――知りたいから)
手紙を机に残すと扉を開けた。
昨日と同じ白い息が、あたりに溶けていく。
それでもその足取りは力強く、もう迷いはない。
ヒルンは、春を待たずに谷を出た。
雪原の向こう、太陽の前を小さな黒い鳥の影が伸びやかに飛んでいった。
お わ り




