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第三幕


目を開いた時、目に入ったのは今にも崩れそうな屋根だった。朽ちた木材が落ちそうになっていた。


「おっ、やっと目を覚ましたか。」


男の声が聞こえる。その方向に目をやると若い男がこちらを見ていた。

そこが廃屋の中であることはその時気付いた。


「参った、参った。まさか始動もできない奴が吉永に攻め込むとは…。死にたくなったのか?」

「あんた、一体誰だ?」


男は髪をボリボリと搔き、疎ましそうな顔で呟いた。


「とりあえず命の恩人にその態度はどうなのかね~。まぁいいけど。俺は正直。門下かどした正直まさなお。ここら辺の底辺ライターさ。」


「俺は皆月晴樹。助けてもらったのは感謝している。だけどなぜ俺を助けた?」

「まぁ体が勝手に動いたのさ。理由はないよ。少しゆっくりしているといい。君の連れは外にいる。」


その言葉に従い外に出ると舞は泥だらけの服を乾かしていた。


「目を覚ましましたか。」

「悪かった。お前の言う通りもっと警戒すべきだった。」

「いえ、私の力不足でした。」


お互いにうつむく。はっきりと示されてしまった圧倒的な力量差。勝つことができないという事実。

その敗北が痛みとして、重みとしてのしかかってきた。


「お通夜気分のところに朗報だ。君たちに彼らを殺す力を授けよう。」

「あいつらを…殺す…?」

「ああ。君が生き残るには奴らを殺し、自らを勝利者とするしかない。覚悟を決めるならここが最後だ。さもなくば死ぬのは君だ。」


正直のうつろな瞳がこちらを見つめる。その瞳は暗くすべてを飲み込むような瞳、一切動かない、瞬きさえ一つしない瞳孔に恐怖さえも感じた。


「分かった。その力ってのを教えてくれ。」

「分かった。さっきも言ったがお前は始動ができていない。始動なくしては巫女の力は本来の微塵さえ発揮していない。」


「始動?ってのはどうやるんだ?」

正直は廃屋の縁側に寝転がる。


「日本には『言霊』って概念があるだろう?ソシュールも言ったが『名付けることによって初めてその意味を持つ』。いわば今のお前は『無銘』だ。だから存在が確定しない。名前を付けることによって存在が確約される。それが始動だ。」


「名付けるってどうやるんだ?俺はこの村の人間じゃない。名前なんか知らないんだが。」

「バカヤロウ。他人のつけた名前で自分が存在するか?感じるんだよ、目を閉じ心の底にある見えない形を具象化するんだよ。」


言われた通りに瞼を閉じる。そして今までのことを思い出す。あの夜の妖しげな囃子、舞との出会い、そして敗北。敗北への悔しさ、不条理への怒り、そして自分の無力さへの憤り。その意識は夢想へと段々と引っ張られていく。

瞳を開いたとき、晴樹は橋の中心に立っていた。高い高い吊り橋。橋の足板の間から見える真っ暗な闇の中から腕が伸びてきた。黒い腕、干からびたかのように細い腕がこちらを捕まえようと襲い掛かってくる。

晴樹は陸を目指して逃げ出した。しかしその足はうまく動かない。捕まりそうだ、逃げなければ、本能から来る恐怖に抗う術はない。あと少しで橋から、腕から逃れられる。その安堵の瞬間、足首に絡みつく重みに背後を見た。ミイラのような死体、黒い靄がかかった存在、体が腐敗した死蝋の大群。悍ましき骸たちに委縮した身体はもう動かない。目をつむった。手で顔を覆いつくす。数秒が経過しただろうか、指の隙間から外を見る。

白い狐が二匹、屍骸たちの手を封じていた。橙の瞳を持つ白狐が啼く。動きを止めていた腕は霧散していった。




瞳を開いた。夏の日の炎天下、どのくらい立ち尽くしていたのだろうか。気温のせいか、悪夢のせいか脂汗が全身を濡らしていた。

腕に少しの重みを感じる。それは舞が自分の服を掴んでいるが故だった。


「……転狐。」

その一声が合図だった。体を濡らしていた汗が一気に乾燥する。鋭い痛みとともに、何か熱いものが流し込まれるような感覚に陥った。


「ふん、始動を成功させたか。まったく世話のかかる男だ。」

正直は呟き、踵を返しその場を去った。



「晴樹さん、大丈夫ですか?とてもうなされていましたが…」

「あぁ。もう大丈夫だ。舞。あと俺には敬語じゃなくていい。」

「わかりました。晴樹。」

「さて、リベンジマッチと行こうか。」






小刀で指を傷つける。皮膚から出てきた血が丸く指の上に乗る。一滴の血を少女に飲ませる。蔵の中にあった書物で読んだ方法で契約を開始する。

「紅き血よ、仲人となりてその眷属を造れ。其方の名は白蛇。白き鱗は呪いのための贄となれ。」

その言葉とともに少女の体が白く輝いた。


「あなたが私の器ですか?」

「あぁ。よろしく頼む。名は?」

黒御くろみこと。あなたに勝利を届けましょう。志郎さん。」

「志郎でいい。」

簡素な挨拶を済ませ、彼らは外に出る。志郎と呼ばれた男の目はまっすぐ前を見つめている。それは信念かはたまた狂気か。

吉永家の蔵、二人は出会った。終わりなき夢を誓って





善次は杏子とともに屋敷の部屋に座っていった。

「善次さん。今朝のことは仕方ないと思います。契約して数時間、予想外の部外者。負けたわけではないのですから、気にする必要は」

「いや、私のミスだ。意地を張って格闘戦に移ったのは慢心だった。これでは弟たちに示しがつかない。」


そう呟く男の表情は辛そうだった。杏子は腕を彼の首に掛け、背中から抱き着く。


「大丈夫です。始動さえも行えない鼠一匹、次こそは駆除しましょう。」






昨日と同じ場所、田んぼが並ぶこの場所。4人は集まった。全く同じ顔ぶれ。


「昨日はしてやられたが、今回はそうとはいかない。」

「あぁ。俺もお前にリベンジしてやりたかったんだよ。」


杏子は槍を構える。刃先を舞に向ける。研ぎ澄まされた刃は田んぼを映し出している。

舞は晴樹に目配せする。舞の右手に光が集まる。掴んでいるものは電動丸鋸だった。丸いブレードが回転し、唸り声を上げる。舞の視線と杏子の視線がぶつかる。


二人の巫女が動き出した。急速に距離を詰めた二人の得物がぶつかる。槍の突きを丸のこで受け流し、丸鋸を押し付けようとするところを後ろへ下がり、回避する。巫女同士の高速機動戦。二人は戦場を田んぼへと移動した。


「この短期間で始動を使えるようになるとはな。能力は断頭台か、鋸挽きか。」

「さぁな。俺自身、この力の全貌は理解してないんだ。」


「俺は吉永善次。貴様はここで殺す。」

「闇夜に誘う細き指は、舐めずり、凍てつき、その刃を濡らす。伊邪那岐イザナギ‼」


いつの間にか握られていた槍、いやそれ以上に刃の部分が巨大だ。薙刀がこちらを射抜くように向けられる。


「ああ。いいぜ。その言葉そっくり返すぜ。」

晴樹は腕に力を込める。存在しないはずの重さを知覚する。徐々に質量を持ち始め、自らの牙が生み出される。


低く唸るエンジン音、圧倒的な馬力、持つ者の心音と同期する振動。その両手にはチェーンソーを。


「第二ラウンドだ‼」


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