第二十幕
舞は腕を割いた布切れで縛る。これ以上の出血は生死にかかわると判断してのことだ。それでも混濁し始めた意識の中、自分の死期が近づいていることは自覚していた。残った右腕さえも指先一つ動かせないほどに疲弊している。腰かけている石にポツリポツリと雨の染みがついてきた。いずれその雨は豪雨となり舞を突き刺すように降りしきる。雨粒の一滴一滴が矢のように冷たく痛い。身体中の感覚、五感さえも消えているように感じる。音も聞こえず、霞んだ視界。皮膚の感覚だけが周囲を理解するためのたった一つの手段だった。
『私はここで死ぬのか?』
この冷たさに舞は生前の自分を思い出していた。この村に生まれ育った時のことを。
私がこの村に生まれたのは明治の始まりだった。江戸の時代が終わり、様々な文化が入り込んできたらしいがそんな事はこの村には関係なかった。いつものように人々は暮らし、平穏とそして呪いに呪われながらも続けられてきた『祭り』。誰からも意見されず行われてきた儀式。私が生まれたのもそんな夏の中だった。この村の中でも有名な大家族の末子として生まれ、訳も分からず生贄として放り出された。
誰も庇うこともなく、誰も否定することもなく只生贄として選ばれた。生贄に選ばれたことよりも家族からも見捨てられたことの方が衝撃は大きかったことを覚えている。もう顔さえも覚えていない家族のことだが今どうなっているのかは少し興味があった。それは嘲笑や絶望するための要素ではなくただ純粋に行く末を見たかっただけという好奇心であった。
重い雨が瞼を閉じることを強制してくる。それに抗う力はもうない。舞はゆっくりと瞼を閉じた。自分の中の灯が消えていく感覚を覚えながら。
舞が再び暖かさを感じたのは錯覚ではなかった。左腕を除く四肢に血が通っていることを感じた。どうやら地面に転がっているようだ。背中に感じる硬さは恐らく床だろう。それ以上に舞が気になったのは視線だった。それは決して忘れることのない『視線』。生前、家族から向けられた目線。人を見るものではない儀式のための道具を見る視線。あの視線と同じものを感じた。
完全に覚醒しきらない意識の中で舞は自分の周りに付きまとう視線の原因を潰すため、その腕を振るった。生み出した得物を振り下ろし、その人間を殺す。目は見えなくとも視線の元はわかる。数は二人。視線の原因を殺す。
顔も覚えていない家族からの目のない視線。ただ感触と本能に従いその腕を振り下ろす。
数分もすればその視線は完全に消滅していた。いやな感触から解放され枚は少し落ち着く。呼吸を整え、状況を確認する。朧気だった視界が回復する。かすかな環境音が身を包んでいく。
その時舞は知った。自分の罪を。自分という『悪夢』、そして『巫女』という悪意の塊を。
視界を覆うほどの血溜まり。血の海で絶命した老夫婦の姿を。そして自分の血に染まった服を。そこまでは理解できた。しかし視界の端に映る囲炉裏に目をやった時、自分が何をしたのかを知った。囲炉裏の端には温かい粥が置かれていた。赤い漆器でよそわれていたであろうそれらは無惨にも飛び散っていた。そして自分の服は今まで着ていたものとは全く違う上等な和服だった。緋色の上衣に橙の下衣。
「まさか、私に施しを!?」
舞は裸足のまま外へ飛び出した。そして表に建てられた標識に目をやる。「櫛本」と書かれた名札は満月に照らされ輝いていた。照らされた上衣の袖には名前が書かれていた「菊」。
それは恐らく彼らの娘の名だろう。そして彼らの娘は恐らく『祭り』の遺族だろう。そして私を匿ってくれたはずだった。
「私は何を?」
舞は頭をかきむしる。自分のした罪を見せつけられ、結局自分は『道具』だ。手で顔を抑える。真っ赤な血で染まった手が顔を湿らせる。べっとりとした触感が顔全体を覆う。
本能のままに人を殺し、何の理由もなく巫女≪同胞≫を殺し、遂には他者からの優しささえも手にかけた。
自分は呪いを映し出す鏡だ。すべてを否定し、悪意を薪に憎悪を滾らせる鬼人。心の底で思っていた。自分がなぜ選ばれたのか、不可抗力だと思っていた。だけど違った。家族は分かっていたのかもしれない。私自身の潜在的な危険性に。
「あああぁぁあああぁぁ!!!」
もしかしたら私は否定したかったのかもしれない。自分自身を。だから『生贄』として選ばれた時も感情はなかった。人間としての自分を認められない世界を憎み、己を正当化した。だけど違った。自分は生きる『道具』だ。人を殺し、すべてを壊し、救いの手を退ける『道具』だ。誰からも認められないのではない、認められてはならない存在だ。
舞は泣いた。それは罪に対しての贖罪の涙だった。自分という邪悪ができる自分の精一杯の謝罪だった。夜が明け、再び月が出ても舞は泣いていた。
涙はもう出ない。自分の体に残った水分全てを涙に変換してもなおとめどなく流れた涙はもうない。舞は立ち上がり、家の中の死体を丁寧に弔った。庭に大きな穴を掘り、そこにやさしく埋めた。今の自分にできる最大限の弔いはこうするしかなかった。丁寧に、丁寧に。その老夫婦の亡骸はとても軽く、片腕で上げられるほどだった。彼らがどんな気持ちで私≪先祖≫を匿ったのか。それは分からない。ただ彼らの善意は紛れもない優しさだった。それを私は踏みにじった。
舞は墓の前で手を合わせた。墓とは言えないただの意志であったがそこには紛れもなく彼らが眠っている。舞は髪にかかっている櫛を石の下へ埋めた。
「ごめんなさい。」
たった一言だけでも自分を救いたかった。それが私の最後のエゴだ。鉈を首筋にあて、強く強く押し付けた。反転する視界の中、舞はただ呟き続けた。
「ごめんなさいごめんなさい。」
「どうじゃ。思い出したかの?」
「あぁ。すべて思い出した。私の罪を、私の悪夢を。」
舞は自分が泣いていることに気づいた。贖罪の涙。
3人は崩れ落ちる舞の姿を黙って俯くことしかできなかった。少女の苦しみを理解することはできない。同情することさえも彼女へのためにはならないだろう。それだけは分かった。
晴樹は舞へ歩み寄る。彼女に肩を貸し、うなだれた背に手をまわし支える。
「尚更、俺はこの呪いを潰さなければな。相棒と一緒にな。」
いすゞは微笑む。まるでその答えを待っていたかのように。
「やはりそう答えるか。よかろう。その答えは最後の吉永家の使者が教えるだろう。しかし、おぬしがそれに値するか、童に見せてみよ。」
ゆっくりと立ち上がったいすゞは右側に置かれた日本刀を構えた。
「少しばかり稽古と行こうじゃないか。」
『古より青空を懸ける天翼の主は戦いを鎮め、その願いを語り継ごう。開闢。』
静かに流れる小川のように滑り出た言葉は暗い部屋を更なる深淵の帳へ誘った。
ただ一人暗闇に立つ晴樹は日本刀を出現させ、構える。周囲を警戒し柄に手を掛ける。
目先がぼんやりと明るく光る。暗闇に慣れていたせいか想像以上に明るく感じる。
徐々に収まっていく光は人の形を形成し、その姿を現した。
光の主は日本刀を構えた青年だった。
「これが試練ってわけか。」
その青年は剣を振り下ろす。晴樹はその攻撃を後方へ回避。抜刀し、即座に反撃へ転じる。
上段から振り下ろし、返し刀で上へ跳ね上げる。男は刀で弾き返し、突撃してくる。
上段から下段、突きと回避。連続での攻撃と防御を互いに何度も繰り返す。
ガキンッ!!!
互いのつばがぶつかり合い、金切り音が耳をつんざくように響き渡る。
晴樹は男を前蹴りで吹き飛ばす。態勢を崩した男へ飛び掛かる。振り下ろした日本刀が止まる。
「なっ!?」
目の前に向けられた銃口がコチラを睨んでいた。地面を蹴り、回避する。耳元で響く轟音と掠める弾丸のソニックウェーブに脳が揺らされるのを知覚した。
「チッ。」
右手に刀、左手に拳銃。ゆっくりとこちらへ歩いていく青年の姿はまさに天敵。制裁者の名に違わず、その命を全力で狩るために向かってくる。
こちらに向けた拳銃が火を噴いた。晴樹は刀で弾道を逸らした。どうやら型式はかなり古いもののようだ。回転弾倉式拳銃から黒色火薬の煙がシリンダーから漏れ出している。
「残り4発。」
晴樹は前に出る。刀を逆袈裟に下げ相手の左腕、拳銃を握っている側を狙う。刀を振り上げる。青年は左手をかばうように刀で防御。同時に左腕をこちらへ向ける。晴樹も両手持ちしていた刀から左手を離し、二十六年式拳銃の砲身をつかみ、狙いを外す。
一瞬の硬直の直後、青年の膝蹴りが鳩尾を狙い、3発。
「ぐはっ。」
強烈な痛みと呼吸できない苦しみのなか晴樹は藻掻き、距離を取る。青年も再び同様の構えでこちらへ歩み寄る。
こちらに向けた26年式拳銃の引き金を立て続けて引いた。
「3発。」
「2発。」
晴樹は横方向へ走り二発を躱す。
もう一発を刀で弾く。
「残り1発。」
更に走るスピードを上げ、狙いを付けさせないようにする。
(残り一発の銃を捨てないあたり、銃の再装填は不可か)
晴樹は勝負に出る。動きを止め、刀を片手で構える。切っ先を相手に向け、睨みつける。
青年はこちらへ銃を向ける。引き金を引くのと同時に最後の一発が装填されたシリンダーが回転する。ダブルアクション特有の動き。
その瞬間、シリンダーとバレルの隙間から漏れ出すガスを見た。
「はぁぁぁ!!!」
晴樹は刀を握る手に力を込めた。その瞬間、日本刀の刀身に幾重もの線が伸びる。線に沿って砕けるように別れた刀身の欠片は一片一片が細いワイヤーのようなもので繋がっている。
蛇腹剣と呼ばれるその得物はしなるように複雑に動き、音速を超える弾丸を正確に叩き落した。
晴樹は剣の柄を振り払う。鞭のように打ち付けられた地面はひび割れ、その威力を伝えていた。
「力を貸してくれ。舞!!!」
晴樹は前に進む。歩み寄る足は徐々に加速し、即座に最高速度へ。光の青年へ一気に距離を詰める。大きく振りかぶり、振り下ろす。細い糸で繋がれた小片の列が音速を越えて薙ぎ払う。
青年は刀で防御へ移るも小片の奔流はその刀の刃を削り、刃こぼれを生じさせる。晴樹は力を込めて振り抜いた。真っ二つに折れた刀に目もくれず、そのまま前に突き進む。
「らぁぁぁ!!!」
再び刀の形へ変形した得物を青年の胸に突き立てる。手応えは無い。しかし間違いなく突き刺さっている刀をさらに深く突き刺す。その時、晴樹は周囲が明るくなりつつあることに気付いた。恐らくそれがとどめを刺したことの証明なのだろう。
力を無くした青年は腕を挙げ、晴樹の背中を掴む。晴樹は背を強張らせた。密着した体が隙だらけであることに気付いた。しかし、そのあとに続いたのは静かなつぶやきであった。
『ありがとう。僕たちの呪いを解いてくれて。』
言い残した青年は光の粒子と化し、その場から消えた。晴樹は明るくなる景色を見上げていた。朝の陽ざしを思わせるかのような光に晴樹は目を覆った。
「どうじゃ?童の神籬の中は。なかなかに手強いじゃろう。」
「まったくだ。」
「しかし、無傷で帰ってこられると凹むものよのう。」
晴樹は舞へ向き直り、その手を握る。彼女と同じ視線に屈み込み、目を合わせた。
「きっとこの呪いは元々祈りだったんだ。だけど長い時の果てに祈りは呪いへと変わったんだ。だからこそ俺たちは前に進まなければならないんだ。誰かの死に意味を与えられるのは明日を夢見る者の生き様だけだ。」
「死者のために?」
「あぁ。生贄として亡くなった者たち、祭りによって犠牲になった者、この村で死せるもの全てのために。」
舞は頷く。その両目には涙はもうない。一人の死者として、一人の巫女として、そして一人の罪人として償い、未来へ贖罪する人間としてそこに立っている。それこそが彼女に課された枷だった。
いすゞはエマに近づく。
「深淵歩き、過去との清算はついたかね?」
「あぁ。今の私には為すべきことがある。この手で掴みたいものを見つけた。だから私はもう迷わないさ。」
「そうか。ならいい。」




