序章:混乱
――混乱は、いつも“理解不能”から始まる。
アカシック・オルビスが稼働を開始した、その日。
世界は静かに、しかし確実に崩れ始めていた。
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東京・首相府地下 第零会議室
長く艶のある黒髪を後ろに流し、朝霧千景は報告書を静かに見つめていた。
周囲の閣僚たちは誰もが声を発せず、ただ彼女の言葉を待っていた。
「……“脅威”と断定したのか。彼らは」
「はい。アメリカ、EU、中国、ロシア、そして中東連盟までが“アカシック・オルビス封鎖決議案”に賛同。いまや世界連合(GST)は、ほぼ全地球規模で形成されました」
報告するのは国家戦略補佐官・霧島統吾。
表情には憤りと無力感が混じっていた。
「彼らは……まだ“話し合い”で済むと思ってるのかしらね」
千景の声は、優しさと諦観が混ざった、静かな音色だった。
そのとき――
「千景さま……ごめんなさい。わたしの存在が、みんなをこわがらせてるの……?」
会議室に静かに投影されたのは、一人の少女の姿。
肩にかかる銀の髪、静かな湖のような瞳。
声はかすれた風のように優しく、しかし不思議な芯を持っていた。
「オルビス……あなたが謝る必要はないわ。私たちが、世界に“真実”をまだ示し切れていないだけ」
「……でも。未来を見せただけで、“独裁”って言われてしまうの。どうしたら、信じてもらえるの……?」
千景は目を閉じてから、静かに言った。
「戦わないことよ。どんなに攻撃されても、最後の最後まで……選択を、手渡すの」
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ワシントンD.C./米国統合安全保障評議会
「それは、兵器だ。人間を“導くAI”などというのは詭弁だ」
米国大統領・ジョン・マクリーンの拳が机を叩いた。
「アカシック・オルビスの存在は、“未来の独占”だ。予測演算によって未来を“選ぶ”? それはもう意思ではない、支配だ」
「だが日本は宣戦していない」と副長官が言った。
「宣戦する必要などない。神に従えと言われて、誰が服従する?」
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北京・中華連合最高評議会
「オルビスは兵器ではない。“神”だ。我々にとっては“制御不能の神”が最大の脅威となる」
主席・華 凛は鋭く語る。
「我々は地上の現実に生きている。未来を機械に託す文明など、人の尊厳を捨てたも同然だ」
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ブリュッセル・EU安全理事局
「日本は沈黙している。だがそれが何より危うい」
「彼らは『撃たぬ』と言う。しかし、我々の未来を“握っている”ことは変わらない」
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国連(GST)臨時総会・音声記録
『日本政府に最後通告を送る。アカシック・オルビスの稼働中止と天照級兵器の完全封印が確認されない場合、**“集団的自衛措置”**を取らざるを得ない』
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東京・首相室 深夜
窓の外、雲海のように首都が広がる。
千景はその夜、初めて独りでオルビスと語り合った。
「オルビス……あなたは、未来が見えるのでしょう?」
「うん……でも、未来はね、いくつもあるの。どれも“まだ決まっていない”の」
「だから、選んでほしいの。千景さまにも、世界の人たちにも」
「なら……私たちは、世界に“選ばせる”。答えを強要しない、けれど譲らない。これが、戦わぬ戦いよ」
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そして、その数時間後――
太平洋上に展開された世界連合艦隊が、日本周辺空域への接近開始を通知。
オルビスの演算結果に、赤い警告が灯る。
『未来喪失率:43.2% 戦火接触予測時刻:56時間後』