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第三章 孤塔の歳月、驚変を待つ

時というものは、この見捨てられた灯台の中では意味を失ったかのようだった。日の出と日の入り、潮の満ちきも、分厚い石壁と一年中晴れることのない海霧うみぎりへだてられ、ぼんやりと遠いものになっていた。塔内で唯一信頼できる時計といえば、おそらくあの焚火たきびが燃え尽き、また新しくおこされる、その繰り返しだけだったろう。


阿鯉アーリーは、自分が巨大な、ゆっくりと呼吸する貝殻の中に閉じ込められたように感じていた。空気は常に、ぬぐい去れない湿気と塩辛い生臭なまぐささ、そして石壁の奥からにじみ出る、こけ忘却ぼうきゃくにも似たふるびた匂いを帯びていた。


白璃パイ・リーは依然として干し草の敷かれたすみを占めていた。彼女の回復は、ほとんど気づかぬほど遅々(ちち)としていた。大抵たいていの場合、彼女は精巧で壊れやすい磁器のように眠りこけており、ただ胸の極めてわずかな起伏きふくだけが生命の存続を示していた。時折、彼女は何の前触れもなく目を開けることがあった。その人ならざる金色の縦長の瞳には焦点がなく、ただ無関心に揺れる炎の光や、頭上ずじょうの石の隙間すきまかられる、生気せいきのない一筋ひとすじの青白い天光てんこうを映しているだけだった。彼女はほとんど話さず、たとえ口を開いても、その声は溜息ためいきのようにか細く、不明瞭ふめいりょうで、まるで別次元から聞こえてくるかのようだった。阿鯉の彼女への世話は、麻痺まひした惰性だせいのようになっていた――水を渡し、彼女がほとんど口にしない魚の汁を無理にでも与えようとし、湿った干し草を取り替える。それは同情や好奇心というよりは、むしろのがれられない、何か未知の存在とわした目に見えぬ契約を履行りこうしているかのようだった。


奇妙な真珠や血の珊瑚さんごは、依然として彼女の回復(あるいは、彼女の苦痛と言うべきか?)に伴って現れた。時には彼女が無意識に眉をひそめた際に目尻めじりからこぼれ落ち、時には寒さや痛みで体がかすかに痙攣けいれんした後に、かたわらの干し草の間に散らばっていた。それらは美しく、光がきらめいていたが、どこか病的な、まるで苦難の中から結晶化けっしょうかしたかのような不気味さを帯びていた。


一方いっぽう小青シャオチンは……小青はこの塔の中で最も正確な歯車はぐるまのようで、ここのもろ均衡きんこうを保ちながらも、人ならざるややかさをただよわせていた。彼女はほとんど睡眠を必要とせず、昼夜を問わず、阿鯉はいつも彼女が白璃のそばで静かに見守っているか、あるいは塔の中の数少かずすくないものを黙々(もくもく)と片付けているのをにした。彼女の動きは常に柔らかく、効率的で、完璧かんぺきすぎて不気味なほどだった。灯台の内部は彼女の手によって異常なほど清潔になり、ける石はどれも火の光を映すほどみがかれていたが、この過度かどな清潔さは、むしろ石壁の隠しきれないみや、この場に固有の荒廃こうはいを無言で嘲笑あざわらっているかのようだった。


彼女の白璃への世話はじつに行き届いており、水を飲ませ、体を拭き、髪をかし、ては白璃の体にかかった干し草を少し整えることまで、一つ一つの手順が精密に計算されたかのように、まるで千度せんど稽古けいこを重ねたかのように完璧で、一点の瑕疵かしも見当たらなかった。


だが阿鯉に対しては、彼女は常に目に見えない壁、礼儀正しさで織り上げられた、打ち破ることのできない壁を隔てていた。


阿鯉は何度も試みた。


小青殿どの一度いちど、彼が小青が手慣れた様子で奇妙な真珠を扱っているのを見て、思わず尋ねた。「あなたと白璃様は……龍宮りゅうぐうからられたのですか?どうもこの海辺の人間には見えませんが」

小青の手の動きは少しも止まらなかった。ただ僅かに首をかしげ、顔にはもうし分のない、穏やかな微笑びしょうかべて言った。「恩公おんこうにはご心配をおかけいたします。お嬢様は福縁深厚ふくえんしんこうな方、おのずとそのきたる所と帰るべき道がございます。わたくしめはただお嬢様におつかえすればよいだけで、その他ははかりかねます」。その言葉は実に見事で、答えているようで何も答えていないかのようだった。


またある時、阿鯉が窓の外で数人の村人がこそこそと灯台をうかがっているのを見て、石壁を拭いている小青に心配そうに小声で言った。「小青、外の連中……最近ますます増えているし、役場やくばの人間もぎ回っている。あなたたちがずっとここにいたら、危ないかもしれない」


小青は拭く手を止め、振り返った。相変あいかわらず穏やかで波一つない表情だった。「恩公のご懸念けねん、痛み入ります。お嬢様には神仏しんぶつのご加護かごがございますれば、俗世ぞくせの者どもがうかがい知れるものではございません。恩公、もし他に御用ごようがなければ、わたくしめはお嬢様のお加減かげんが穏やかであるか、確かめに参ります」。彼女は軽く一礼すると、阿鯉の心配をかいさず、まっすぐに白璃の方へ向かった。


阿鯉は、もっと気楽な世間話をして、その隔たりを打ち破ろうとさえした。「今日は天気が良くて、海も穏やかだし、親父おやじの調子も少し良くなったんだ」彼は自分の日常を少し共有しようとした。「村の東のワンのおばさんちのせがれが、昨日でっかいハタを釣ったんだぜ……」

小青は静かに聞き、僅かにうなずき、口元にを描くことさえあったが、彼女の視線が阿鯉の描写するそうした「俗世のいとなみ」に真に焦点を結ぶことはなかった。彼が話し終えると、彼女はこう言うかもしれなかった。「恩公のご実家がご無事であれば、それは何よりでございます。お嬢様も近頃は少し長くお休みになられるご様子、外界の平穏を感じ取っておられるのかもしれません」。いとも容易たやすく、話題はまた白璃のことに引き戻された。


一度など、小青が疲れを知らずにせわしなく立ち働いているのを見て、阿鯉は思わず直接尋ねた。「小青、あんた……もしかして全然休まなくてもいいのか?なんだか……いつも何かしているみたいだけど。その……自分で何かしたいこととか、ないのか?」

この時ばかりは、小青はしばし黙り込んだ。そのあまりにも澄み切った瞳が静かに阿鯉を見つめ、それからようやくゆっくりと口を開いた。口調はやはり穏やかで波一つなかった。「お嬢様にお仕えできることは、わたくしめの本分ほんぶんであり、またほまれでもございます。どうして骨折りなどと申せましょうか。恩公はわたくしめのことをたいそう気にかけてくださるご様子、何かご命令でも?もしお嬢様のご心痛しんつうを和らげるようなことがあれば、わたくしめ、必ずや尽力じんりょくいたします」。彼女はたくみに阿鯉の気遣きづかいを曲解きょっかいし、それを「白璃への奉仕」のわくに組み込み、彼女の「自我」へと通じる道を完全にふさいでしまった。


どの会話も、まるで深井戸ふかいどに小石を投じるようで、一筋ひとすじ反響はんきょうさえ聞こえなかった。小青の応答は常に礼儀正しく、適切てきせつで、まるで全ての状況に対応する模範解答集もはんかいとうしゅうのようであり、それでいて、丹念たんねんみがき上げられた、きわめてなめらかな玉石ぎょくせきのようでもあった。冷たく、硬く、少しも入り込めるすきを残さなかった。


何度も壁にぶつかるうちに、阿鯉は馬鹿げた、そして暗い考えさえ抱くようになった:もし今、自分が銛を振り上げて彼女を突き刺そうとしたら、彼女はやはり同じように完璧な身のこなしで避けるのだろうか、あるいは同じように少しもるがぬ落ち着いた口調で、「恩公、それはどういうおつもりで?」と尋ねるのだろうか、と。


この考えは彼自身をも身震いさせた。彼はもはや容易たやすに彼女と交流しようとはせず、ただ毎日の短い共生きょうせいの時間に、この主従しゅじゅうを黙って観察するだけだった。一人は深淵しんえんのように神秘的で、もう一人は傀儡くぐつのように完璧(この言葉がおさえきれず口をついて出て、彼はわれ知らず身震いした)。そして彼自身は、この奇妙なわせのなか唯一ゆいいつ、塔の外の現実世界をにかけ、生計せいけい肉親にくしんじょうのために足掻あがいている……異分子いぶんしなのだろうか?


腕の貝殻の腕輪から時折伝わる微熱びねつも、今ではむしろ、自分がここの全てとれない、不吉ふきつつながりを持っていることを思い出させる、一種いっしゅ警告けいこくのようだった。


全てがもろく、そして不気味な均衡きんこうを保っていた。阿鯉は、この均衡が永遠に続くはずがないことを知っていた。満ち潮がいずれ引いていくように、穏やかな海面かいめんの下には常に嵐がかもせいされている。何かが「やぶれ」ようとしている。それは白璃の傷か?小青の冷淡れいたんさか?それとも……彼にはまだ予期よきできない、何かべつのものか?


彼はただ本能的ほんのうてきにあの強靭きょうじんな青竹の銛を握りしめ、揺れる炎の光のなかで、かならおとずれるであろう「変化」を待っていた。

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