僕は犬を家族とは思っていなかったのかもしれないということ
家に帰り、門を通ると必ず聞こえていた音があった。
繋がれた鎖と木で出来た小屋の板とが擦れる音で、鎖だけが擦れる渇いた音が小さく、木材と擦れる音が大きく響く。
小屋から出てきて、満面の笑みで足早に向かってきて、構ってほしいと身体を震わせる。
僕は頭を撫でてやり、背中を擦ってやる。校庭で拾ってきたテニスボールを放り投げてやると追いかけて行く。
追いつきくわえると、たいていの場合は小屋の裏側の宝物置き場に隠してしまう。たまに気が向いたときにしか持ってこない。
僕はもう一度放り投げたいからそこからテニスボールを取ろうとすると、必死でじゃれてきてなんとか取られないようにと邪魔をしてくる。それでもテニスボールを掴むと「はやくはやく」と急かしてくるので、たぶん本当は満更でもないのだろう。
大好物なものはパンだった。すかすかのパンでも甘い菓子パンでもとにかく好きだった。だから僕は給食で余ったパンがあれば必ず持って帰ってきた。パンをちらつかせてから高く投げると、文字通り飛びついた。
それからの行動は大きく二通りあって、どちらをするにしても僕はその行動を取る彼をいつもうっとりと眺めていた。
一つはあっという間に食べてしまうことだ。あんなにすかすかなパンを四回か五回だけ咀嚼するだけで喉を通してしまう光景を見ると、やはり人間とは根本的に体のつくりが違うのだと見とれてしまう。第一それは咀嚼というよりもただ飲み込むために位置の調整をしているようにしか見えない。
もう一つは、例の宝物置き場へ埋めてしまうかだ。前足で穴を掘って、そこにパンを落とし、鼻で土を被せて埋める。僕も一日中見ているわけではないのだけれども、掘り起こして食べているところは見たことが無い。
一度、埋めたのを見た翌日に掘り起こそうとしたことがあったが、半分はじゃれついてくるように、もう半分は邪魔してくるように体当たりを受けて断念したことがある。
少なくとも翌日までは埋めたことを覚えているのかもしれない。
そんな我がまま気ままな彼が我が家にやってきたのは僕が小学生半ばの頃だ。クラスメイトの家で子犬が産まれ、そこから鼻の先だけが黒く体全体が白とベージュ色をした、柴犬ふうの雑種が我が家の新しい住人となった。
やってきた日から何日間かは夜が来るたびに泣いていた。そばにいてやっても、まるで「こんな人なんか知らない」とばかりに泣き止まない。今までは多くの兄妹と母親と一緒だったのが急に見知らぬ人たちのいる家に来たのだから無理もない。
それでも昼間は特別に淋しい素振も見せずにはしゃいでいた。やはり夜というのは人間だけではなく、誰しもが淋しさを迎え過ごす時間なのかもしれない。
僕も元気の良い小学生だったので、帰宅後に暗くなるまでひたすら遊ぶようになると、夜鳴きをするまでもなく深い眠りにつくようになった。
家は片田舎の平屋で庭も広く裏には雑木林もあり、遊び場所には困らなかった。あちこちで遊ぶようになり、彼も場所を見慣れるようになってから、夜も淋しくなくなったようだった。
昔から、散歩のときは紐など関係ないくらいに突っ走っていく。飼い犬が前を先導していくのは、その主よりも自分のほうが頼りがあって前に出て行くと聞いたことがあるが、彼の場合はとにかく興味の向くがままに突っ走っていっているというほうが正しい表現のような気がする。
少し成長してからオスワリとオテを教えることになり、まず食事の前に必ずそれをさせるようになった。すると彼は、これをしないと食べられないのだと悟ると食べ物を目にするなり言っても何もしていないのに勝手に座り込み、手も出していないのにこれでもまだ足りないかとばかりに手を何度も前に出してくるようになった。
もちろん尻尾はぶんぶんと唸っている。まったくゲンキンなやつだ。
高校へ進学すると、僕は部活を始めた。毎日が夜遅く、くたくたになりながら帰るようになった。それでも僕の帰りを待ちわびていたのか、鎖を小屋に擦りながらいつものように出てくる。けれどもそれにも関わらず僕は少し挨拶をする程度か、今日はもう構ってやれないよと言い玄関に入っていくことが多くなった。
そんな日が一年半続き、ようやく出場枠に入れた僕は、その大事な試合の直前に怪我をしてしまい落ち込んでいた。
庭でしゃがみこみ膝を抱えてうなだれていると、彼が黒い鼻を腕の下から潜らせて突っついてきて腕をほどこうとする。顔を上げると黒い鼻が少し白んでいるのが見えた。彼には何も報告はしていなかった。それでも何かを感じてくれたのかもしれない。
僕は近くに座らせて何度も頭から背中までをゆっくり撫で下ろす。手が頭の上まで来ると少し鼻を上げて目をつぶり手が下りてくるのを待っている。昔から僕は彼のその表情が好きだった。
ただその後も、それまでとはあまり変わらない日が続いた。
そして僕は大学へ入学する。アルコールを覚え、遊びを覚えた。あまり家に帰らない日々が過ぎる。たまに夜中に帰ると、それでも彼はいつもと変わらない音を立ててこちらへ向かってくる。けれども向かってきてすぐにユーターンをして小屋に入っていってしまうようになった。冬の寒い夜には小屋の中で丸くなっていて、少し顔を上げるか上げないかの反応をするだけのときもあった。
そんなとき、たまにだけ、僕は小屋まで行って手を突っ込み顎を擦り、まるまる背中を撫でた。外の空気と同じように冷えた背中と、温かい顎が、彼を感じさせた。トレードマークの黒い鼻は、鼻の頭だけ黒いのが目立つようになっていた。
さらにそれから二年が経ち、我が家を立て替えることになった。僕たちは一時的に住む場所として家のすぐ近くにある狭いアパートに引越をした。
彼はどうするんだ?
毎日、朝晩、ないし、朝昼晩に顔を出して行けば平気だろう、着工が始まれば現場の方にも可愛がってもらえるかもしれないし、それに三ヶ月くらいだから。それが答えだった。
僕はそれでいいのかと思った。だけど今までろくに構ってやっていなかった自分を思えば、何も言えなかった。その分これからの三ヶ月間をできるだけ毎日長い時間顔を出してやれば、彼も淋しくはないはずだとも思った。
もぬけの空になった家に土足で多くの人たちが入り込み、窓を外し、ドアを外し、天井を抜き、柱を取り去る。重機が家を取り壊す。その間、彼は必死に家を守るために吠え続けた。決して若くは無い身体を粉にして彼の仕事をした。
僕は「いいんだから、大丈夫だから」と、寄り添い、気を紛らわせようとする。名前を呼び身体を撫でる。それを繰り返すが、家から大きな音が聞こえると我に帰りまた吠え出してしまう。それはその家が跡形も無くなり更地になるまで続いた。
彼は遠くを見ることが多くなった。裏の雑木林も一緒に伐採され、そこ一帯にはなにも無くなった。彼の記憶にある風景はもうどこにも無かった。遊んだその雑木林も、いつもの散歩コースも、庭も、家も。もしかしたら彼が知っていた僕はとうの昔にいなかったのかもしれない。
見た目は、それほど変わらなかった。急激に痩せたわけでもなかった。けれども、あれだけ旺盛だった食欲は失せて、先頭を切って走っていった散歩も少し歩くとへたり込んでしまうようになった。
そしてある朝、いつものように更地になった家へ行くと彼は横たわっていた。綺麗で透明な色をした太陽の光が差していた、とても寒い日だった。
口元からはオレンジ色の体液がこぼれていて、目は見開いていた。抱き上げても姿勢は変わらなかった。
最初に過ごした夜よりも、最後に迎えた夜が何よりも淋しかっただろう。裏切られていた気持ちがあったかもしれない。守りきれなかった憤りがあるかもしれない。
最期に何を見ていたのだろうか。あの日の暖かな我が家だろうか、それとも、この現実であったのだろうか。
彼は三途の川の向こう側で僕を待っていてくれているだろうか。もう一度、笑顔で小屋から出てきてあの音を響かせてくれるだろうか。
きっと牙を剥くかもしれない。
「ごめん」には何の意味もないだろう。
僕に出来ることは、首を噛み千切られながらでも、ただ抱きしめてやることだけだ。