459 猛毒の事
南斗棕櫚を探すために富士の樹海を歩いていた茉莉とのばらだが、途中で晦冥教徒らしき人影を発見した。
茉莉はすぐに追跡を開始。のばらは鶚にメールを送ってから、茉莉を追った。
人影を見たのはほんの一瞬で、のばらにはよく視認できなかった。けれど茉莉ははっきりと「黒装束」だったと言い、気配を追って迷いなく進んで行く。この差に、のばらは圧倒的な実力の格差を痛感した。動体視力からしてまるで違う。さすが地龍最強の女子だ。
茉莉が気配を忍んで進んで行き、大きな木の陰に隠れた。のばらは茉莉の足を引っ張らないように気を付けて、茉莉の後ろに隠れた。
「のばらさん、あれ。」
茉莉が指した先を、のばらが細心の注意を払って覗き見た。
そこには蔵が建っていた。
「こんな樹海の奥に蔵なんて…。」
マジか。のばらは目を疑った。
一緒に覗き見ていた茉莉が、その視力の良さで観察した。
「古い蔵だわ。大昔からあるのかも。あれ見える?蔵の上のとこ。六枚葉の棕櫚の家紋がついてる。もしかして、あれって血祭家の蔵じゃない?」
「血祭家って、南斗棕櫚の麻薬で大儲けしてたけど、御禁制になって滅んだって言う?実在、してたのか…。」
みよの祖母が言うには、南斗棕櫚は血祭家が独占していたと言う。みよと紅の予測で、南斗棕櫚の自生地が樹海のこのエリアに絞られたと言う事は、血祭家もこのあたりにあったと言う事なのだろうか。
血祭家が実在するとなると、いよいよ南斗棕櫚の存在にも期待が高まるところではあるものの、今はそれどころではない。
「のばらさん。」
考えているのばらは、裾を引っ張られてはっとした。茉莉は、蔵に誰かが入っていくのを見ていた。
「黒装束…。」
この距離であればのばらにもはっきりと分かった。一目で晦冥教徒と分かる黒装束だ。のばらはぞくっとした。
すぐに鶚にメールを打つも、手が震えた。まさか、こんな偶然のエンカウントがあるなんて。幸運か不運か…ドキドキするのばらは、茉莉の冷静な横顔を見て、しっかりせねばと思った。
「晦冥教の秘密基地なのかな。あ、出てきた。」
そうこう言っている内に、蔵から黒装束が複数人出て来た。のばらが捕らえるべきと思い、踏み出そうとすると、茉莉が腕を掴んだ。
「待って。蔵に行ってみない?もし翡翠眼があれば、先に押さえたい。」
「…わかった。」
驚いた。信徒を捕えようとしたのばらに対して、茉莉は敵の大将を狙っている。流石歴戦の猛者は判断力からして違う。これは経験値の成せる業だ。のばらは茉莉に促されて、そっと蔵に近付いた。
茉莉が先に蔵の戸口に立った。古い蔵はまだまだ現役の頑健さと見えたが、扉は朽ちてしまって無かった。茉莉はそっと中を覗き込んだ。
「誰もいない。入って良い?」
のばらに問う茉莉は、一応晦冥教案件の指揮権が司法局にある事を意識して、のばらに許可を求めているのだ。のばらは携帯を見たが、鶚からの返信はまだ無かった。連絡に気付いているだろうか。多少不安を思いつつも、この場を置いて去れるはずもなく、慎重に頷いた。
「そっと、ね。晦冥教徒たちが、こんな樹海の奥にどうやって出入りしているのか分からないから。戻って来るかも知れないし、すぐに…。」
「のばらさん、もしかしたら、晦冥教徒たちは転移して来たのかも知れないわ。」
「え?」
「見て。あれ。転移陣よ。」
茉莉が蔵に入らずに蔵の中の床を指さしていた。そこには転移陣が描かれていた。
そして、蔵の中に目を凝らすと、晦冥教のマークの描かれた大小さまざまな木箱が大量に置かれていた。それを見て、のばらははっとした。
「茉莉。これ、櫓家の蔵にあったものかも知れない。」
「え?マジで?じゃあ、あの開かずの蔵から略奪された物が、ここに運び込まれてるって事?でも、この蔵…櫓家の開かずの蔵より大分小さいよね。」
櫓家の蔵は象を飼えるような大きさだったが、この蔵はどこの屋敷にでもある普通の大きさだ。とても櫓家の蔵の所蔵品が収まるとは思えない。だが、虎太郎の乳母は櫓家の蔵には、晦冥教のマークが描かれた箱が沢山収められていたと言っていた。
「多分、色んな場所に分けて保管してるんじゃないかな。櫓家の財は今の晦冥教にとって絶対必要な資金のはず。万一隠し場所がバレて押収されても良いように、小分けにして隠しているのかも。」
「なる~。ってか、これだけでも結構な量だけどね。もしこれ押収したら、要様に返すの?」
茉莉が踏み込まずに周囲の様子を見まわしながら訊いた。のばらは鶚にメールをしつつ答えた。
「いいえ。櫓家の蔵の所蔵品であるという証拠はないの。蔵の中身を正確に知る者もなく、目録などもない。今後晦冥教案件で押収された財のどれが櫓家の蔵から略奪した物かは不明。だから、要様にお返しする事は出来ないの。」
「うっそ。要様の財産なのに?」
「既に要様からは、櫓家に関わる一切の相続放棄の意思を伝えられてる。」
「そうなの?もったいな。それが手に入れば、一生遊んで暮らせるのに。」
「一生、鎌倉様の御側にいたいんじゃないの。」
「あはは、やば。病気じゃない?」
「そういう茉莉だって、経済的に働く必要が無いのに働いてるでしょ。」
「だって、在仁が武士大好きだからぁ。」
「それも病気だってば。」
「愛って言う病?良いね。それ。」
にっと笑った茉莉が、のばらがメールを送信したのを見てから蔵に入ろうとした。のばらは待っていてくれたのかと気付いてペコっとした。
二人で蔵に足を踏み入れた瞬間、ヒヤリとした空気を感じた。
「変な空間だね。もしかしたら、敵のテリトリーかも。」
言いながら茉莉が抜刀した。のばらは警戒して周囲を見回したが、普通の蔵よろしく出入口はひとつだ。閉じ込めようにも扉が無い。万一見つかっても退路は一つ。のばらが扉の方を振り返ると、茉莉が腕を引いて大きな箱の陰に隠れた。
「誰か来る。」
一緒に隠れながら扉の方を見ていたのばらを、茉莉が引っ張った。示しているのは、転移陣の方だ。つまり、誰か転移してくると言う事。まさか、そんな事まで感じると言うのか。のばらは驚きながら潜んだ。
◆
みよと紅は、ハイペースで樹海を進んでいた。
植物に精通した二人をすれば、南斗棕櫚があるかないかはすぐに分かる。だから早いペースでわき目も振らずに進む。
東と夜鷹はただそれについて行く。これはトレッキングか何かかな。思ったよりも順調というか、簡単な作業だったのでちょっと気が楽になった。
「茉莉様たちはこっちに行きましたよね。そろそろ合流できるでしょうか。」
「おそらくな。だが、発見の連絡は無い。このまま合流してしまえば、南斗棕櫚は見つからなかったと言う事になるな。」
みよと紅が残念そうにした。二人はまだ見ぬ毒草に胸を躍らせていたので、収穫無しは辛い。
だが最初から眉唾っぽい話であったから、ダメ元だった。無いなら無いで諦めるしかない。
そう思いつつ歩いて行くと、突然みよの前に人が飛び出した。
「きゃっ!」
ここにはみよ達以外に誰もいないはず。まさか熊か?みよがびっくりして転びそうになると、その体を紅が抱きとめた。
「おみよ。」
「紅様。」
みよが紅の胸の中で安堵すると、東がすかさず前に出た。
飛び出して来た者は、みよたちに驚いて逃げて行った。
「黒装束よ。晦冥教?」
驚愕の声をあげた東は、抱き合うみよと紅を見た。無事を確認するなり、夜鷹に言った。
「夜鷹、二人をお願い。それから佐にも連絡入れておいて。私はさっきのを追うわ。」
「了解。後から行く。」
夜鷹の了承を聞いて東が去ると、残されたのはみよと紅と夜鷹。夜鷹はすぐに佐長に連絡し始めた。
みよは紅の腕の中にしがみついたまま言った。
「すみません。びっくりしちゃって。折角の毒を使い損ねました。」
有事の対策として毒を持って来ていたのに、いざとなったら使う事はできなかった。みよが紅に謝ると、紅は首を振った。
「仕方ない。急な状況で毒を使う余裕は素人には無い。みよが無事ならば良い。」
「紅様…。」
みよは紅の優しさに救われた。そして思いの外温かい紅の腕の中に、ほっとしながらドキドキする矛盾を覚えたのだった。
「ちょっと、二人だけの空気出さないで。」
夜鷹の声は聞こえていないようだった。
◆
茉莉は少々嫌な予感がした。
蔵に入った瞬間に、この空間が相手の領域にあると感じた。何かの強制力が働けば、戦いは不利だ。と同時に、おそらく侵入はバレていると思っておくべきだろう。さて、どう動くべきか。
大きな木箱の陰に潜みながら覗き見れば、転移陣から感じた術力の気配の通り、誰かが転移して来る。こんな場所に転移陣を固定しているなんて、確実に違法だ。そして、高度な技術。先日の要誘拐事件での鳥攻撃は実に高度なものだった。正直、あんなことをする武士はいまい。相当に優れた術者だ。
晦冥教徒というものは、これまで社会の落伍者ばかりと思われていた。優秀な者はいくらでも再起できるのだから、落ちぶれてカルト教団で死を望んだりすまい。だから、晦冥教側にこんな技術力を持った術者が存在していると言うのは、想定外だった。
晦冥教の教えを妄信する者は、呪いによる世の終焉の礎となる事を望み、死を求める。だから生きて働く信徒は偽物だ。晦冥教を利用して、何かを企む偽信徒。それが一般見解だった。
ただ、蜻蛉だってマジで晦冥教を歌っている訳ではない。目的の為のただのツールだ。だから晦冥教を利用したい者があっても、蜻蛉からも利用価値があれば手を組む事はあろう。互いに利益があれば。
茉莉はこの環境と転移陣を見ながら、今の晦冥教はちょいと不味い者が入り込んでいるのだなと理解した。人間社会を理解しているようでありながら、結局は人間というものを解さない蜻蛉は、何となく人の世に疎いところがある。だが悪知恵が働く人間と手を組んでしまうと、晦冥教のポテンシャルが遺憾なく発揮されてしまうかも知れない。今までよりも更に巧妙に世を蝕んでいくのでは、という嫌な予感。
その予感を裏付けるように、転移陣から現れた者たちの声がした。覗き見れば二人とも黒装束だ。
「A様、所蔵品の運び込みはすべて完了しました。」
「おーけー。じゃあ足がつかないように少しずつ売って、資金にしていこう。例のトラックは既に司法局に目を付けられているだろうから、先に処分してくれ。それから、工房の場所を変えよう。司法局が全家門を指揮下に入れて捜査を始めてる。出来るだけ速やかに今の工房を畳んで、既に捜査が終わった場所に移して時間を稼ごう。引っ越し作業は信徒たちにやらせれば良い。呪術札の売買ルートが確立すれば、安全な根城も手に入るだろう。」
「分かりました。では、蔵から運んだ品々は売ってしまって良いのですね。」
「足の付き難い物を厳選してくれ。あれは例の密売組織が扱うはずの品だからな、今は所有に司法局の許可が必要になってしまった。闇流通ルートはあるにしてもリスクはある。本当は呪いを付与して売買出来れば更に高値が付くのだろうが、仕方ない。馬鹿な運営の所為で、折角の密売組織はもう無いんだからな。はぁ。俺がもっと早く晦冥教に目を付けていれば、司法局になど手を出させなかったのに。」
「仕方ありません。A様は戦後の片付けに追われていたのでしょう。」
「戦商売が出来なくなったのは痛かったが、こんな金山が眠っていたとはな。晦冥教には精々、大儲けさせてもらおう。」
蔵の中に二人の会話が反響して、はっきりと聞こえた。茉莉は真剣に耳を傾けて、出来るだけ覚えようと思うが、あまり自信は無い。過去に星河山でアウラの言葉を忘れてしまった前科があるので、こういうのは向かない。だから一緒に聞いているのばらが頼りだ。そっとのばらを伺い見ると、のばらは携帯端末で会話を録音していた。なんと!素晴らしい機転ではないか。茉莉は流石は優秀な司法局員だと感動した。
だが、あまり気を抜ける状況ではない。
「K。残念だが、既にここに鼠が入ったようだ。」
「え?」
やはり。既に侵入はバレている。おそらく、Aと呼ばれる男がこのテリトリーの主だ。ならば、転移陣をつくった張本人。つまり、要誘拐事件で鳥攻撃をした犯人だ。在仁に怪我を負わせた仇。
茉莉はそう思いつつ、向こうが動く前にのばらに指示した。
「のばらさん。バレてる。私が敵を引き付けるから、のばらさんは転移陣を壊して。」
「…わかった。」
術陣は少しでも損なえば発動しない。床に書かれた転移陣なんか、消してしまえば良いだけだ。転移陣さえ使えなくすれば、敵には逃げ道が無い。茉莉の意図を理解したのばらが頷いて、二人は目くばせだけで飛び出した。
「K!」
Aの叫び声がして、Kが茉莉の方へ向かった。茉莉は最初から抜刀している。晦冥教徒相手に手加減は無用だ。
相手の顔も体格も視認する前に、気配だけで全力でフルスイング…をすると蔵の財を損壊するかも。茉莉は寸手のところで思い留まって、Kに踵落としをお見舞いした。
「負荷!」
男より重い蹴りで一発ノックアウト。
Kはあっさりと床で気絶だ。それを見たAは、数歩下がった。
「葛葉、茉莉…。」
茉莉を見て呟いた声は震えていた。流石に最強相手を分が悪いと思ったのかも知れない。茉莉がAを見定めて刀を握り直した。
Kと同じくAも黒装束であるから、顔や体のかたちが分からない。これまで見て来た晦冥教徒と同じ姿だ。実にカルトっぽい見た目だが、全く信仰心が無さそうなので、ただの変装だろう。
「降参しても手加減しないよ。」
茉莉が踏み出そうとすると、Aはすぐに踵を返した。逃げの判断の早さは、優れていると分かる。茉莉は逃がすか、と思った。
Aが向かっているのは、今来たばかりの転移陣だ。そこにはのばらがいる。
「のばらさん!」
はやく転移陣を消してくれ。茉莉の叫びに、のばらが焦ったのが見えた。
同時に、大切な退路である転移陣を消そうとしているのばらに気付いたAが、焦って叫んだ。
「何をしている!お前!よせ!」
Aが懐から術札を投げた。まるでそれが撒き餌のように、扉から大量の鳥が飛んできた。茉莉はまたも鳥攻撃かと思って、冷静に厚い結界を張って侵入を堰き止めた。
「二度も同じ手は通用しないわ。」
だが、その間にAがのばらに近付いていた。
◆
のばらは茉莉に言われてすぐに転移陣に走った。
転移陣を消そうとあれこれ試みるが、どうやら消せないように細工がされているようだ。少し思案してから、ならば床ごと壊せば良いと思い至った。
その時だ。
「のばらさん!」
茉莉が叫んだ。はっとして見れば、Aがこちらに迫っている。のばらは慌てた。
装備からサバイバル的なナイフを出して、床に突き立てる。Aと茉莉の攻防を感じつつ、のばらは転移陣を破壊するのに集中した。
ナイフで床を壊すのはちょいと厳しい力技だ。だがのばらは奮った。
「元ヤン、なめんなよ!」
こういう時は気合と根性だけでいけ!強引に床に刃をぶつけると、術陣を描く線に切れ目が入った。
その瞬間、Aがのばらの腕を掴んだ。
「お前!何してくれるんだ!」
この至近距離でも黒装束の中の顔が見えなかったので、何か細工があるのだと察する。のばらは有益な情報を収集するより、ここでAを捕えれば良いのだと思った。だが、Aの握力を振りほどけない。サバイバル的なナイフを振ると、Aは結界で弾いた。戦い慣れているという感じでもないが、この速度で結界を発動できるのは凄い。油断出来ない相手だ。
「司法局だ。観念しろクソテロリスト!」
手を振りほどこうと試みながら啖呵をきってみたが、びくともしない。
それどころか、何やら力が抜ける感覚がする。まずい。何かされている。そう思った。
ここでAにやられるのは悔しいがマシだ。最悪は、要のように誘拐されて人質になってしまう事。捜査の足を引っ張る訳にはいかない。何としても腕を振りほどき、逆に捕まえてやらねば。のばらは思考を巡らせた。
方法を探すためにAの後方に目を向けると、茉莉がAの結界に阻まれて、のばらに近付けないでいた。だが、茉莉は冷静な目で結界に向けて刀を振り上げた。おそらく茉莉は、力技で強引に結界を壊そうと考えているのだ。
ただ、更にその後方、蔵の外に晦冥教徒たちが見えた。
「茉莉、後ろ!」
最初に出て行った者たちだろう。まさかトイレに行ってきた的な?屋外で適当に用を済ませて来たのだろうか、嫌だななんて思ったのばらは、雑念を振り払った。
茉莉は後方をちらっと見たが、無視して刀を振り下ろした。
まるで大きな窓ガラスが割れるような派手な音がして、Aの結界が壊れた。それを見たAが、わずかに怯んだ。
のばらはその隙に、みよに貰ったアンプルを出した。みよは野生動物撃退用として持って来た、肌に触れると腐る猛毒を、のばらにひとつくれたのだ。のばらは万が一にでも自分の肌に触れぬように気を付けてフタ部分を折ると、のばらの腕を掴んでいるAの手に投げた。
上手く毒液がAの手にかかった瞬間、Aが悲鳴に似た叫びをあげた。
「うわあああああ!」
Aが手を離してくれたので、のばらはやっと体勢を立て直した。Aは苦しみながらフラフラと後退した。
「ナイス、のばらさん。」
そこへ茉莉がフルスイングの刀を転移陣にぶっ刺した。駄目押しの転移陣無効化。
「これで退路は無し?」
「蔵の周りを結界で閉じ込めた。もう袋の鼠よ。のばらさんは日下様に連絡を。」
制圧は完了したようなもの。茉莉に言われてのばらが携帯端末を出した。
茉莉はのばらを置いて、Aに近付いた。
「その毒ね、皮膚に触れると腐るんだって。毒の名前とか知らないし、解毒方法も見つからないかも。でも良いよね、牢では腕いらないし。それとも、今その腕、私が斬り落としてあげようか?」
猟奇的な目を向ける茉莉に、Aは恨みがましい歯噛みをしたようだ。顔は見えないが、窮して焦っているのが分かる。
じりじりと後退りするAを、茉莉はそう執拗に追わなかった。ここはもう茉莉の結界内だからだ。
Aは茉莉から逃げるような格好で下がった。そのまま最初に茉莉がノックアウトしたKが倒れている場所まで下がると屈み、手の痛みに耐えながらKの黒装束に手を入れた。茉莉がその行動の怪しさに気付いて一歩近づこうとした。
「何を…。」
言うよりも早く、AはKの黒装束から転移陣の描かれた紙を出した。茉莉が眉を顰めたのは、ここが茉莉の結界内だからだ。この中で転移など、普通は出来っこない。そう思ったから足が鈍った。それは油断と呼ぶのだろうか、茉莉の逡巡の刹那。
AとKはその場から転移して消えてしまったのだ。
「ちょ…嘘でしょ。」
茉莉の結界から転移出来ると言う事は、常識でいけば上回る術力が必要だ。それは化け物クラスの術力であるから、最強武士でもない限り有り得ない。だが、ちょっと相対した感じで、そんな強さを感じなかった。そもそもそんなに強かったら、のばらが投げた毒液をくらうはずがない。だったら何故転移出来たのか。
まったく理解できない茉莉は、悔しさを抱えてのばらを見た。
「ごめん、逃がした。」
「…見てました。仕方ありませんよ。」
のばらは、自分が大して役に立っていないので、茉莉を責める権利などない。逃がしたのは悔しいが、全く予定にない出来事であるから、お互い無傷なのを喜ぶべきだろう。あのAが在仁に怪我を負わせた者ならば、決して易い相手ではなかったはずだから。
とは言え悔しい。
そこへ、蔵の外から呼ぶ声がした。
「ジャスミンちゃん!のばらちゃん!」
東だ。
見れば、蔵の外にいたはずの黒装束たちは、東に捕まってひとくくりになっていた。
◆
「ちょっとぉ、どういう事?」
蔵の外に出ると、複数人の黒装束が束ねられていた。東はそれを足蹴にしながら茉莉とのばらを見た。
茉莉は結界を解いて言った。
「南斗棕櫚を探してたら、この蔵を見付けて。黒装束が出入りしてたんです。ちょっと覗いて見たら、怪しい転移陣があって、リーダーっぽい奴が転移して来たんです。仕方ないから捕まえようと思ったんですけど、逃がしちゃいました。」
雑な説明を聞いた東は、のばらが携帯端末を操作しているのを見て、詳細はのばらに聞いた方が良いなと判断。しつつも茉莉を咎めた。
「何勝手な事してんの?そういう時は連絡しなさいよ。」
東は茉莉の小さな頭をガシっと掴んで揺らした。「すみません~。」と茉莉が頭と同じ揺れる声で言った。
そこへ、樹海を踏み分けて来る大勢の気配。
「白鳥!」
声は鶚だ。
黒服たちを従えて駆けて来た鶚は、いつになく焦りを滲ませていた。
「日下部長!ここです!」
まさかこんなに早く来てくれるとは。のばらは大きく手を振って居場所を主張。鶚は急いでのばらの目の前にやって来た。
「白鳥、無事か?」
「すみません、二人逃がしてしまいました。」
「無事かと訊いている。」
「え、あ、はい。私は。」
きょとんとしたのばらが手を振って負傷を否定すると、鶚はその腕に手形があるのに気付いて目を細めた。
「後できちんと手当するように。」
「はい。」
びっくりしたのばらが返事だけすると、鶚は労うように肩を叩いて蔵の方へ向かった。
部下たちは東がひとまとめにした晦冥教徒たちをしょっぴいっていく。
のばらは鶚の後ろ姿を見て呆然とした。
「いま…ぶちょうが。」
よろよろしながら後退りしていくのばらを、茉莉と東が追った。どうやら鶚の労いがのばらにはトキメキだったようだ。その純心に笑いながらついて行くと、のばらは木にぶつかってへたり込んだ。
「だいじょうぶ?」
茉莉が笑った所へ、紅たちが合流した。
「一体何事だ?」
「晦冥教よ。どうも、その蔵が晦冥教のあじとだったみたい。」
夜鷹が連れて来た紅とみよも無事。東はとりあえず全員無事だなと分かりほっとした。
その時、みよが大きな声を出した。
「ちょっと!白鳥様のお尻の下にあるの、それ南斗棕櫚じゃないですか?」
「え?」
のばらがびっくりして退くと、そこには六枚葉の棕櫚があったのだ。
驚くのばらに、茉莉が抱き着いた。
「やったぁ!のばらさん、今日はお手柄だね!」
全くのばらの意図しない事であるから手柄と言われても困惑だ。だが茉莉の明るい笑顔を見たら、のばらは何だか気持ちが爽やかになった。
「茉莉のおかげだよ。」
「へへ。じゃあ二人のお手柄って事で!」
今日の目的は南斗棕櫚をゲットする事だ。在仁の怪我の仇を逃がしたのは痛かったが、とりあえず皆が無事であるから良しとしよう。本心では悔しいはずの茉莉が笑っているのだから、のばらは強くならねばと笑った。
司法局へ帰ろう。紫微星様への恩返しは、やはり仕事で返すべきだ。のばらは茉莉の笑顔を見て、そう決めたのだった。




