456 一芸の事
クリスマスが終わると、もう年末一色だ。
クリスマス飾りはあっという間に撤去されて、お正月飾りに入れ替わり、気分もたった一日で余韻も空しく変わってしまう。子どもならばクリスマスプレゼント自慢をしたりして、話題はまだ残るのだろうが、大人は既に年明けを見越して動いているのだ。
だが、在仁は時の流れに完全に置いて行かれていた。
自宅療養中の在仁を往診した銀の顔は相変わらず厳しい。
「いいか、絶対に安静にしていろよ。」
「はぁい。」
めちゃくちゃ耳タコなんですけど。銀の厳しさに、在仁は生返事をした。不誠実な態度、ではなく、意識が曖昧なのだ。
「これ何本?」
「三本?」
銀が人差し指を立てると、在仁は首を傾げて答えた。それを見た全員が、こら駄目だ。と確信した。
銀が在仁の診察を続けているのを見ながら、東はため息を吐いた。
「悪いけど、綿毛ちゃんは抜きで行ってくれるかしら。大宰府で惟継殿が待っているから。」
言われたのは要だ。今日は櫓虎太郎の乳母を訪ねるつもりだった。だが、在仁は高熱で意識が曖昧であるから、絶対に外出など出来ない。東は稔元に案内を命じて、在仁を留守番とした。
幸いな事に、在仁はぼんやりしていて、状況を理解していないので、文句を言わなかった。
「もちろんです。それでは、行って参ります。」
要は了承して出て行ったが、「行って参ります」とは。
転移扉まで要を送った東は、要が昨日から在仁の自宅に泊まり込んでいる事実を思い出した。そう、泊まり込んでいるのだ。在仁への恩返しとして、療養中の在仁の介助を申し出て押しかけて来た要は、たいへん有能な世話係と化してしまった。ただ、在仁の自宅は部屋が余っているにしても、完全住み込み体制とは恐れ入る。
同じく押しかけて来たのばらですら、泊まり込みではなく通っていると言うのに。いや、のばらの場合は鶚に泊まり込むのは失礼だからと注意されていただけだ。だったら要は何かって?知らん。東は要の底知れなさが謎めいていて怖い。
とにかく、出掛けても帰って来る場所をここだと示すので、東は苦笑いした。
「恐いわぁ。」
よく考えたら、要が押しかけて来た時は、それくらいのお詫び相当があって良いと思ったが、この状況は見合っているのか不明ではないだろうか。東はちょっと冷静になって、状況を調べておく必要を感じた。
◆
「行って参ります。」と言って出て来た要は、正直不思議な気分だ。ずっと頼優のいる場所が帰る場所だったのに、一時的とは言え、別の人にお仕えする事になるなんて、夢にも思わなかった。
だが、これは頼優と二人で相談して決めた事だ。何の不満もあろうはずが無い。誠心誠意お仕えする事が、今の要の仕事だ。
正直、在仁の方が頭が良いし弁も立つので、断られて追い返される可能性を危惧していた。だが思った以上に在仁の体調が悪かったのと、東が強引に受け入れた事で助かった。
稔元の案内で、転移扉を越えて大宰府に着くと、言われていた通り惟継が待っていた。
「在仁殿はどうした?」
「ダウンしてます。」
「またか。懲りないひよこだ。」
「ですね。」
溜息をついた惟継は、それだけで状況を理解して要を促した。要はぺこりとお辞儀をした。
惟継が用意していた車へ行くと、そこにいた男は何となく見た事のある雰囲気だった。
「結城浩然と申します。本日は案内役として参りました。」
「要です。よろしくお願いします。」
要は普段、名乗るべきシーンがあまりない。頼優が「これは側近秘書の要だ。よろしく頼む。」かなんか言って終わりだから。なので自分で名乗るのはちょっと変な気分だ。苗字は無いので、名前だけを名乗ると、いや苗字はあるのかと思い出した。
「櫓虎太郎と、名乗るべきでしょうか。」
本当の名はもう知っている。迷う要を、浩然は自然な動きで車に促し、自分は運転席に回って言った。
「さぁ。お好きになされば良いかと。私も訳あって生家がありません。弟は家名を名乗り続けていますが、私は名乗っていません。生き方はそれぞれですよ。」
私も、と言われると浩然が櫓家の事を全部知っているのだと分かった。
要が車に乗り込んでシートベルトをすると、惟継が言った。
「はじめに櫓家が晦冥教案件ではないかと言い出したのは浩然殿だ。捜査にも大きく貢献した。」
「そうでしたか。ありがとうございました。」
昨日の内に、在仁から櫓家の事や、事件についてなど、詳細は聞いた。だが、そこに浩然は登場しなかった。語られない協力者が、こうして存在していると知れば、多くの人の力を借りて今ここにいるのだと感じる。要は改めて、無事に戻って来られた事に感謝を抱いた。
「いえ。私のは好奇心と言いますか、まぁ大した気持ちでは無かったので、偶然ですよ。」
要の気持ちに反して軽く笑った浩然は、要とは初対面だと言うのに、随分と親しみがあった。
「調べている内に、知らぬ関係とも思えなくなりまして。」
「ああ…。それは、こちらも不思議な感覚です。」
その後浩然は、櫓家の開かずの蔵の逸話について話した。以前から蔵の中身には多くの興味関心が集まっていたのだから、知らぬ内に略奪されてしまったとは悔しいと漏らした。あの蔵には結城家を凌ぐ財があったとされるので、それを失ったのは惜しいと。本来継承すべき要にとっても、勿体ない事をしたものだと言われた。要はそれを聞いて、およそ現実感が湧かなかった。そんな大金を手にしたとて、どうしようもない。もしそれが手に入るならば、例の奨学金制度の寄付金にでもしてしまおうか。
ぼんやりと考えていると景色が変わってきた。九州は初めてだが、故郷なのだと思うと、やはり不思議だ。自然と懐かしさとか感じるのだろうかと想像していたが、やはり知らない景色だ。それも当然か、三十余年経っているのだから、虎太郎としての記憶があっても、懐かしさなど感じなかったかも知れない。
「要殿は今、在仁殿の家に居座っているらしいな。」
唐突に言われた気がしたが、話を聞いていなかっただけかも知れない。要は惟継を見た。
「ええ。ご恩返しの為に。」
疚しさの無い端的な言い方をしたが、惟継の鋭い目が細められた。
「ご恩返し?緊急避難では?」
「…まさか。」
読まれてたか。要は図星だったが、肯定する気は無い。これは飽くまでお礼とお詫びを込めた行為だ。
「さようか。まぁ、在仁殿にそうと言えば返って進んで庇護しようからな。余計な心配をかけるとひよこが病む。恩返しという事にしておくが平和だろうな。」
「…いえ。」
会話をするとボロが出る、というかボロが出るまで攻める気やも知れない。惟継から目を逸らして、再び景色を見た。しかと一択だ。
◆
東は、そろそろ要が乳母に再会した頃だろうかと思いながら時計を見た。
年内の在仁の業務はお休みなので、書斎の看板はclosed。北辰隊拠点はぼちぼち営業中で、胡桃は在仁の自宅とこちらを行き来していた。在仁宛ての文や、情報を整理しつつ、胡桃が報告した。
「司法局が今回の事件を公表しました。」
東は携帯端末を置いて顔を上げた。
「早かったわね。まだ捜査中でしょ?正直もう年末だし、年明けに回しても良い気がしたけど。」
「今回は蜻蛉の他に、主導した晦冥教構成員の存在もチラ見えして来てますから、情報共有は早い方が良いんじゃないですか。」
「とは言え、指名手配する程の情報は皆無だけれど。」
「術力サンプルはゲットしてますよ。」
「そんなの照合されるって事は、何かやらかして捕まった過去があるって事でしょ。」
肩を竦めた東は、再び携帯端末を見た。
「どうやら、これを見越していたようね。」
「これ?なんですか?」
東の呟きに、胡桃が首を傾げた。東はその可愛らしい小動物のような姿を見て言った。
「要よ。急に押しかけて来たけど、ようするに事件が公表されると、鎌倉では大注目されちゃうでしょ。実は九州の大富豪の御曹司だとか、開かずの蔵の財の相続人とか、色んな情報が明るみに出て、更に色んな奴らに目を付けられる。だから、逃げて来たのよ。」
「え~?そうなんですか?だったら紫微星様への恩返しは嘘ですか?」
「嘘ではないでしょ。あの頼優殿の側近秘書なのよ?綿毛ちゃんの敵ではない事だけは確かよ。ただ、わざわざ泊まり込んでるのは、今は鎌倉にいられないからって事なら、納得できるなって思ったのよ。」
ただでさえ、火傷痕が治って実はイケメンだったから、なんて理由で大モテにモテまくっていたので、それが金持ちの御曹司だったなんてなったら事だ。実際はその財は晦冥教に根こそぎ奪われているが、司法局は捜査中で、事件が解決すれば戻って来る可能性もある。それに相続争いで消えた家門とは言え、出自が明らかになったのも都合が良い。良いとこの商家の血筋だと判明しているので、どこの馬の骨とも知れない人は卒業したのだ。これでまた、結婚や養子縁組のお誘いが山となる。
「何で逃げるんでしょう。結婚しないつもりですか?」
「それは知らないわぁ。でも、こうなったから手のひら返してって人と結婚したいと思う?」
「ま、嫌ですよね。」
折角のご縁だと、在仁ならば言うだろう。だが相手の現金で調子の良い人間性を知っていて、好きになれるだろうか。東は要はそういうのは嫌いなんじゃないかと思った。自分だったらお断りだ。
「でも、逃げ込んで解決しますか?」
胡桃の疑問に、東は頷いた。
「時間が経てば解決するんでしょうね。でも、おそらく目的は新年会よ。新年会の全家門集合の場で、要殿が今恩返しの為に綿毛ちゃんに仕えていますって広めるつもりなんでしょ。どうせ綿毛ちゃんの事だから、しゃあしゃあと要を友だちだって言うんでしょうし。そうしたら要個人に紫微星様っていう強い味方を周知が出来るわ。綿毛ちゃんの威光の凄い所は、清く正しく美しいものしか認めない所よ。要に近寄る者の殆どが打算的な腹があるんだから、バックにいる聖人の目を恐れて、蜘蛛の子散らして逃げるんじゃないの?」
「うっわ。本当ですか?」
「ちょっと盛ったかも。」
「どっちですか。」
「まあ、だいたい合ってるはずよ。」
東は携帯端末を置いた。鎌倉にいる者たちのネットワークを使った調査で得た情報をまとめると、だいたいそんな話になるのだ。
だが胡桃はまだ疑わしい顔をしていた。
「でも、だったら紫微星様がすぐに勘付きそうじゃないですか?」
「今の綿毛ちゃんじゃあ無理よぉ。頭がまともに稼働するまで気付かないわよ。」
怪我をしてからとても具合が悪そうだし、ずっとぼんやりとしている。あれは使い物にならん。東はその方が平和だと思った。
「でも、要様がいてくれると心強いですよ。何でもできますし。」
要にどんな事情があっても、要は有能なので、在仁の世話係としては満点だ。胡桃がずっといて欲しいなと思って言うと、東は訝し気にした。他家所属の要を警戒するどころか、認めてしまうなんて、胡桃らしくない。
「…胡桃ちゃん、もしかして、タイプなの?」
「え?違いますよ!何言ってるんですか!怒りますよ!」
「もう怒ってるじゃない。やだぁ、胡桃ちゃん。面食い。意外~。」
「やめてください!マジで!それ以上言ったら社会的に抹殺しますよ!」
「こっわ…。」
目がマジじゃん。胡桃のバックにはニックたち姉妹がついているので、マジで社会的に抹殺されかねない。東は慄いて黙ったのだった。
◆
虎太郎の乳母の家は、要が想像したよりもずっと小さくて古かった。
予め連絡をされていたらしく、インターホンを鳴らす前に玄関扉が開いた。
「こ、こんにちは。本日はお時間を頂戴いたしまして、ありがとうございます。私は、鎌倉様の側近秘書をしております要と申します。」
何と挨拶したら良いのか分からない要は、やけに丁寧に名乗ってから、ソワソワとした。
女性は小さくて痩せていて、まさか一人で子育てをしていたとは思えなかった。だが、三十年以上も一人で喪に服しているのだから、その所為で縮んでしまったのかも知れない。哀れさと、無常が、女性の纏う悲壮的な波形に圧し掛かって、潰されそうに見えた。
「虎太郎、様?」
女性の小さな声が震えた。
「えっと…そう、らしいです。すみません。私は櫓虎太郎であった記憶がありません。ですが…。」
「そうですか。けれど、絶対に虎太郎様です。そのお顔が、何よりの証拠でございます。」
女性の震える声が大きくなって、要の前で泣き崩れてしまった。
要は、こんな再会を想像していなかった。
目の前で号泣する女性の小さな体に、要はそっと手を添えた。
「薄情ですみません。」
「いいえ。まさか。ご無事であれば、それだけで、なによりでございます。」
その言葉は、在仁が要に言った通りだった。乳母は要の実質的母親。要が無事でさえあれば、ただ喜んでくれる。その無償の愛に、要の中の意識していなかった何かが救われた気がした。
「ただいま。」
自然と出た言葉に、女性は声を上げて泣いた。
◆
のばらは在仁に怪我を負わせた責任をとって、休職して介助を申し出た。それは司法局員なのに民間人に助けられた事の不甲斐なさによる反省、そして命を救って貰った恩返し。誠心誠意尽くすつもりで、覚悟を決めて来たのだ。だが今は、たいへん困惑していた。
「紫微星様…?」
あの紫微星様が、物凄くしかめっ面をしている。ベッドに座って座禅する僧侶のような姿勢。そして顔はしかめっ面。普段仏様のような人であるから、この表情はレア。もしかして、物凄く怒っているのか?のばらは戸惑って呼んだ。
「紫微星様、どうなさいました?」
介助人として何か不足があれば言って欲しい。恐る恐る問うと、在仁はその表情のまま言った。
「申し訳ございません。お気になさらず。」
気にするななんて不可能では?のばらの困惑に、ベッド脇で読書をしていた青藍が言った。
「怪我が痛むらしい。」
「え?あ…ああ。」
痛いのを耐えている顔か。やっと意味が分かって合点がいったのばらは、スッキリしつつも、自分の所為で負わせた怪我が痛むと知っては自責を感じる。申し訳ない顔をすると、在仁はしかめっ面のまま言った。
「大丈夫でございます。心頭滅却せんと、胸の内にて般若心経を唱えております。知人が雑念を払拭するために、般若心経で頭を振り乱しておりましたので、俺も参考にさせて頂いております。頭を振り乱す事は、絶対安静に反しますので、こうしてひたすらに胸の内にて唱えているのでございます。」
「…え?」
ど、どうしよう…。というのばらの戸惑いが極まった。青藍はどうしようもなくて、見て見ぬふりをした。
柴謙が般若心経でヘドバンしていたのは、あまり効果があったとも思えないが、今の在仁には何でも良いから痛みから目を逸らす方法が必要なのだ。理由がそれとなると、在仁が修行僧みたいになってしまったのを、誰も止められない。脳内でヘドバンしているのかも知れないが、実に大人しくているので止める理由も無い。
諸々意味が分からないのばらはどうしたら良いか分からずに、大人しく座った。「般若心経?」ってどんなんだっけか。のばらは黙って、在仁の気が散らないように気配を忍んだ。
しばらくして、在仁の額から汗が流れたのを見て、青藍が立ち上がった。
「在仁。もう横になれ。」
「いいえ。とても眠れません。手が、燃えております。氷水に突っ込みたい…。熱くて、痛い…。」
譫言のように言ってふらっとした在仁を支えた青藍は、ゆっくりと布団へ寝かせた。
「術力炎による火傷は、内燃する術力が収まるまで焼かれ続ける。本来は本人の術力が戦って収まるものだが、在仁の術力は少ない故、長引くのだろう。」
可哀想に、という親の顔をした青藍に、のばらが心配そうに訊いた。
「一時的にでも術力を増やしたり、痛みを和らげたりする事はできませんか?」
「根本的に術力器官が弱い故、術力をどうこうするのは無理だろう。痛み止めは調整中だ。ただ、こうした火傷がいつまでも尾を引いて痛むのは常識だからな。良い薬が出来れば良いが、そう期待できるとも思えん。」
青藍の溜息には、歯がゆさが込められていた。
在仁は横になってもまだしかめっ面をしていた。目を閉じて眉を寄せる顔は超不機嫌な寝顔に見えたが、おそらく般若心経タイムだ。
「何か気が紛れる方法があれば良いんですけど。」
のばらは、こういう時披露する芸のひとつでも持っていれば良かったと思った。
◆
乳母の家には、小さな仏壇があって、そこには藤十郎と家族の位牌があった。
要はそれに手を合わせて、静かに死を悼んだ。
「藤十郎様も奥様も、御姉様方も、皆が虎太郎様を思っておられました。私に預けたのは、愛情故でございます。」
乳母は、虎太郎が捨てられて乳母の子として育てられたのではないと言いたいようだ。だが、要はそんな事を微塵も思っていない。
「大丈夫です。分かっています。私は望まれて生まれ、大切に育てられたのでしょう。覚えてはいませんが、疑ってもいません。」
優しく微笑む要の顔を、乳母は眩しそうな顔で見つめていた。あまり見られると照れるのだが、乳母が虎太郎が大人になる事をどれだけ想像しただろうかと思うと拒否出来なかった。乳母の理想と同じ大人の姿であれば良いけれど、と思いつつ、要は言った。
「紫微星様がおっしゃいました。私が人を信じられるのも、人を愛せるのも、虎太郎が愛され大切にされていたからだと。きっとそうなんでしょう。だから、感謝しています。」
親族に殺されそうになった虎太郎は、人を信じられなくなってもおかしくなかった。だが、そうならなかったのは、信じられる人がいるからだろう。
「大切にしてくださって、ありがとうございます。」
あれから三十余年経つが、乳母はずっと虎太郎を想っていてくれた。その事実が、何よりの証拠だろう。
要は火傷痕が治ってから、この顔の所為で鬱陶しい事が多くてうんざりしていた。あまり良い事は無いし、トラブルを呼ぶ顔なのではとすら思った。けれど、今ようやく、火傷痕が治って良かったと思った。この顔でなかったら、乳母に再会する事は出来なかった。
そうでなければ、乳母は一生虎太郎の生存を知らずに、手を合わせて謝り続けていただろう。そんな悲壮を、許容する事は出来ない。
「虎太郎様…。ご立派になられて。まことに、嬉しく存じます。」
まるで有難いものを崇めるように手を合わせる乳母に、要は笑うしかなかった。
「もう手を合わせるのは止めましょう。もし良ければ、父をはじめ家族の墓を建てませんか?そうすれば、私も時々手を合わせに来られますし。」
「ええ、虎太郎様がなさりたいように。私はただの乳母でございますから…。」
「違いますよ。貴女は私の母です。紫微星様もそうおっしゃった。私を育てたのは貴女ですから、貴女は私にとって親なのです。ですから、私は子として貴女に報いねばなりません。何か望みがあれば、おっしゃってください。」
たかが使用人風情と割り切ろうとする乳母に、要は育ての親として恩返しを申し出た。けれど乳母は首を振った。
「その御言葉だけで十分でございます。虎太郎様、いいえ要様。どうかお幸せに生きてください。私の望みはそれだけです。」
心からの言葉に、要は驚いた。これが親というものなのかと知ると、その愛情を受ける立場である自分を、少々見つめ直した。思って貰える程、大した奴だっただろうかと。そんな要の手に、乳母が小さな手を添えた。
「優しく、思いやりのある、誠実な人であってください。藤十郎様のように愛情深い人に。」
「はい。きっと。」
乳母の望みは要の大成ではない。心根の清き事だ。その願いを要はしかと受け止めた。善き人になろう。それは要の新しい道だった。
◆
苦しむ在仁をどうする事も出来ないまま、のばらは途方に暮れていた。
そんな時、南木と蘇芳がお見舞いにやってきた。
通い慣れている様子で在仁の部屋のソファに座った南木と蘇芳は、要が乳母に会いに行っていると知った。
「へぇ。記憶がないんだろう?会っても仕方ない気もするが。」
蘇芳が気まずいんじゃないかと思って問うと、在仁は首を振った。
「これは縁でございますよ。繋がった縁から目を逸らしてはなりません。」
留守番は不本意な在仁だが、とても九州まで行ける気がしない。ベッドでしかめっ面のまま話すのが限界だ。
そこへ、南木が空中を浮遊する思考を手繰り寄せようとして言った。
「縁、縁ね。そうは言ってもだ。人は都合よく運命論と偶然論を使い分けて生きていると思わないか?良き出会いには運命を、悪しき出来事には偶然を当てはめて、自分を宥めすかしているだけだ。そんなのは、実に身勝手で滑稽な事だと思わないか。」
これが縁か否かなんて主観だ。そうだと思えば縁であり、そう思わねば通り過ぎていくだけ。解釈が全てだ。南木の哲学が誘う先に、いつも答えは無い。
急に何か言い出した南木に、蘇芳は慣れた顔で無視。のばらは頭がこんがらがって首を傾げた。これ、何て返すのが会話として正解なの?のばらが困惑した時、在仁がさらっと言った。
「さようでございましょうか。俺には、とても自由に思えます。人は元より身勝手な生き物でございますれば、ご気分でお好きな方をお選びになる事が出来るのでございます。どなた様も、ご自由にお選びになられる事は、幸福な事と存じます。」
ならば常にハッピーな解釈を選んで、自らを上げていけば良い。それだけで明るくなれる。在仁が言うと、南木は深く頷いた。
「成程。そういう考え方もあるか。」
「運命と偶然の使い分けは、人の生きる術でございますよ。素敵な方を選ばれれば良いのでございます。南木様と俺が出会いましたのは、運命でごさいましょうか、はたまた素敵な偶然でございましょうか。どちらでございましても、俺は南木様を尊敬しております。」
柔らかく言った在仁の顔が、今日初めてほころんだ。その花のような清廉さに、のばらは目を奪われた。
「よせやい。よくそういう恥ずかしい事を平気で言えるね。」
「平気ではございません。頭がくらくらしております。」
素面ではないのだ。在仁が熱っぽい顔で言うと、蘇芳が慌てて立った。
「おい、大丈夫か?」
「手が、燃えております。」
苦しそうに言って、再び般若心経タイムに入ってしまった在仁を見て、南木と蘇芳はどうしようもなかった。
「南木、もうちょい難題をふっかけた方が良さそうだぞ。」
「ボクそういうつもりじゃないけど?」
哲学問答をしていると多少気が紛れそうだ。蘇芳と南木の話を聞いて、のばらはそう言う事ならばと思いかけたが、全くそんな引き出しは無かった。
やはり芸の一つも持っているべきだった。のばらは不甲斐なさを痛感したのだった。




