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452 虎太郎の事

 夜になり、(かなめ)が帰ってきた。

 「鎌倉様、この度は休暇を頂戴し、誠にありがとございました。途中、携帯端末を紛失致しまして、連絡義務を怠る事となり、たいへん申し訳ございません。」

地面に額をつけて平伏する要は、まるで普段からそうしているように見えた。要は伏したまま頭を上げず、まるで沙汰を待つようだ。

主従関係はそれぞれだろうが、頼優(よりまさ)と要のスタイルがこうならば、(あるじ)と奴隷ではないだろうか。

 頼優はその要の異常行動を見下ろして、三度瞬きをした。

 「…大事ないか?」

 「はい。なにも。」

後頭部を踏みつけてください、とでも言わんばかりの要に、頼優は内心で焦っていた。

 要を依り代とした蜻蛉(かげろう)を誘き出す為に、噂を流した時、頼優は半信半疑だった。(やぐら)虎太郎(こたろう)の乳母から聞いた話でさえ、何だか残酷な作り話のように感じる。何もかもがおよそ現実味のないままであるから、まさか誘拐された要が自ら、何食わぬ顔で帰って来るだなんて。これまでの在仁(ありひと)の提案の中でも特に突拍子もないものに思えたのだ。

 だが、実際は目の前に要がいる訳で。

在仁が指示した噂はこうだ。「休暇中の要と連絡が取れなくなり、頼優は大変心配している。もう少し様子を見て、連絡が取れないままであれば、通報して捜索するべきかと言っている。」

何だか曖昧な噂だな、と頼優は思った。だが、在仁はやんわりとリミットを提示する事で、おそらく数日中には姿を現すだろうとした。要に成り代わりテロを企む蜻蛉にとって、司法局に通報されてしまった地点で作戦失敗だ。行方不明者が自ら戻ったとて、何処で誰と何をしていたのか詳細に聴取され裏取りをされてしまう。自らを危険に晒すリスクを厭う蜻蛉にとって、司法局の取り調べを受けるなんて自殺行為だ。だから、もうすぐ通報される、と思えば急がねばならない。…らしい。

 頼優は疑いながらも、いつ要が来ても良いように準備をして、待ち構えていた。

 だがまさか、噂を流した翌日に姿を現すとは。

 源氏本家の門扉を挟み、中に頼優が立ち、外に要が土下座をしている絵面がやばい。要が戻ったらそこに留め置き呼ぶようにと門番に言ってあったとは言え、これでは本当に罪人みたいだ。

 頼優は、要の土下座を見ながら、心の内では今すぐに抱きしめたい衝動に駆られていた。無事で良かったと泣いて抱擁したい感動の再会になるはずだった。だが、現実は違う。要の帰還を知らされて走ってきた頼優に、要の方から勝手に土下座をしたのだ。その態度は、頼優からしたら全然要ではない。休暇も与えていないし、連絡義務もないし、何も悪い事をしていないのだから、土下座をする由が無い。だから要ではない。 

 「鎌倉様。罰をなんなりと。」

 いつも「頼優様」と言う要が、「鎌倉様」と呼ぶ。そしてまるで奴隷のように平伏する。何もかも、全然これっぽっちも要ではない。

 頼優は要の見た目をした偽物を、酷く忌々しく思った。

 「そうだな。お前が如き下賤の者が、私の時間を無駄にした事、精々償ってもらおう。」

敢えて怒りをそのままに言うと、地面に着いた要の指先が震えた。それが頼優には要のSOSに見えた。

 「来い。」

乱暴に言うと頼優は奥へ歩き出した。平伏していた要は、いそいそとついて行った。


 ◆


 源氏本家の門扉を、要が通過した。

それを本家内に用意した捜査室のモニター越しに見ていた(みさご)が、通信にて全員に号令をかけた。

 「要殿が戻った。作戦開始。」

音も無く全員が配置につくのが分かる。

 本作戦は晦冥(かいめい)教による誘拐事件として、既に司法局の指揮の下で行われている。過去の実績により、司法局の他、在仁はじめ北辰(ほくしん)隊、(かさね)大隊の協力を得て、今回は源氏からも応援が用意されている。こうして源氏本家敷地内に入ったからには、もう袋のネズミだ。今度こそ、蜻蛉を絶対に逃がさない。そして無事に要を奪還する。鶚は静かに燃えていた。

 共有している回線から、茉莉(まつり)の声がした。

 「門の呪性検知されませんでしたね?」

 「確かに。アラーム切ってんじゃないのか?」

同意したのは蘇芳(すおう)だ。

 「アラームは切っていますが、実際に通過時に呪性検知器は反応がありませんでした。」

鶚が答えると、晋衡(くにひら)が疑いを投げた。

 「だったらアレはただの要なんじゃないのか?」

 その疑いに、在仁が全力の否定を向けた。 

 「あり得ません。要様は誘拐されたのでございます。ご無事に戻られたならば、平伏ではなく、抱擁でございますべき!自ら休暇と音信不通をお認めになられ平伏なさるなど、何もかも間違っております。あれは要様ではございません。真っ赤な偽物でございます。」

 「…す、すまん。」

勢いよく怒られて、晋衡はたじたじになって引き下がった。

 「だったら何で呪性検知にひっかからないの?」

蜻蛉は呪いだ。警備ゲートに引っかからないはずがない。茉莉の問いに、青藍(せいらん)が言った。

 「呪い耐性、の所為かも知れん。蜻蛉は要殿の体内にいるため、守られている状態かも知れない。」

 「…と、申しますと、もしや外から浄化致しましても、要様の中におられる蜻蛉には届かないのでございますか?」

 「待て待て、ここへ来てそれは…。作戦が変わるぞ。日下(くさか)、大丈夫か?」

晋衡が焦ると、鶚は少々思案しつつ言った。

 「どちらにしても既に作戦は開始しています。最悪の場合は拘束してから…。」

 「いいえ。拘束なさってお時間をかけ解決を模索する事は、要様の安否に関わります。絶対にここで、要様から蜻蛉を引きずり出します。」

今日の在仁は絶対に譲らない。もう、今日ここで要を取り戻すと、決めてしまったのだ。

 皆は譲らない在仁に引っ張られるように、作戦決行の場へ向かった。


 ◆


 そこは、源氏本家の敷地内にある、小さな道場のような建物だった。

 頼優に促されてついてきた要は、夜の道場に連れてこられた意味が分からないようで、少々足取りが重い。

蜻蛉は、休暇中の連絡義務違反の罰則とは、減給とか仕事を増やされるとか、そういう事だと思っていた。否、そういう事だろうと言ったのは要だ。協力者の要。要は頼優の終身奴隷なので、とにかく遜って平伏せよ、連絡義務違反の罰は自ら求めよ、媚びて油断させよ。要は蜻蛉に、要として振る舞うために、そういう極意を授けた。もちろん、全部出鱈目だ。出来るだけ要らしくない行動を取らせ、頼優に気付いてもらわねば。要は今自分に出来る最大限の事をしなければと、これでも奮闘している。

 だが、意識はどんどんと暗くて深い場所に沈み込んでいる気がする。体の所有権は最初から蜻蛉が持っていて、要は追いやられているのだが、傍観して思考する余裕は、だんだんとなくなってきた。

先ほども、頼優に会った時、何とか主張できぬものかと思ったが、手も足も出なかった。必死に抗う無意味さを知り、無力を痛感したら、なんだか疲れてしまったのか、眠くなった。眠く、と言うか薄くなった。意識や存在みたいな、アイデンティティのようなものが、希薄になる感覚がした。

要は強制的なその感覚に抗う術もないまま、どんどんと薄まっていくに任せた。

 もう、何も見えないし、聞こえない。


 ◆


 「鎌倉様?」

こんなところに連れてきてどうしようというのか。まさか体罰でもする気か?要の見た目をした蜻蛉が、訝し気に頼優を呼んだ。

 頼優は道場の上座に立つと、蜻蛉を中央に立たせた。

 「ようこそ。蜻蛉。」

 そう言った瞬間、道場に恐ろしく強固な結界が張られた。それを感じた蜻蛉が、驚いて周囲を見回した。

道場内は、壁に沿って黒服や武士たちがずらっと並んで、蜻蛉を取り囲んでいる。

 「万事休す、でございますね。」

 言った声は在仁だ。蜻蛉が声の方を見ると、在仁はゆっくりと歩いて、頼優の隣に立った。

在仁の隣には茉莉、そして北辰隊とのばらが守るように並び、鶚と黒服、紫紺小隊が蜻蛉の後ろに立っていた。完全包囲の中にあると分かった時、要の顔をした蜻蛉が言った。

 「紫微星(しびせい)…また、貴様か…。」

 その言葉で、全員がコイツは蜻蛉なのだと確信した。

 「ええ、また俺でございます。要様は俺の友なのでございますよ。ご存じありませんでしたか?」

 「とも?…はぁ、人は群れる生き物だからな。」

どうでも良さそうに言った蜻蛉は、窮しているはずなのに、まだ抵抗策があるかのような態度だ。

 「友ならば、さぞ大切なのだろうな。この体が!」

言いながら蜻蛉は、自らの首に手をかけた。両手で自分の首を絞める姿はおかしい。まさか自分の首を絞めて死ねる者などおるまい。だが、もし憑依している蜻蛉が肉体の苦痛を感じないならば、それは可能なのか?完全包囲の中とは言え、蜻蛉は要という人質を取っているという事になるのだ。

 だが、そんな要の体は後ろからあっさりと拘束されてしまった。

 「!」

黒服に両腕を背でまとめられた体勢では身動きが取れない。もがく蜻蛉に、頼優が一歩前に出て言った。

 「要は武士じゃない。捕えるのは容易い。」

無駄な抵抗。そう示す頼優の無表情の中の怒りを、蜻蛉は感じる取る事が出来るのだろうか。在仁は頼優について、一歩前に出た。

 「は…。こんな方法で、勝ったつもりとは。実に愚かな事だ。既にこの肉体は私が制しているのだ。虎太郎を取り戻すつもりだろうが、遅かったな。」

 そう言った時、頼優の表情が少し歪んだ。その感情を、蜻蛉は見逃さなかった。

 「愚かな人間よ。呪いを受け入れた肉体は腐敗するしかないのだ。こんな策で解決できるなど、愚かなり。まこと、無知で愚かなり。」

挑発するように言う蜻蛉に、頼優がまた一歩近付こうとした。それ以上は近付いては危険。在仁は頼優の腕を掴んだ。そして言った。

 「こちら、浄化結界なのでございますよ。もし既に遅くとも、このまま要様の中に蜻蛉を留めおく由ではございません。即刻出て行ってくださいませ。」

言った瞬間、在仁が結界内を浄化した。元より浄化札も清浄機も用意しているが、在仁自身の放つそれは比較にならない。まるで要を利用された怒りを込めたような、強い清めの気に、皆は蜻蛉など欠片も残らず消えるだろうと思った。

 だが、蜻蛉は笑いを漏らした。

 「く…っく。無知とは滑稽だな。虎太郎は呪いの耐性があるのだ。この体の中にいる限り、浄化など効かぬ。」

 「やはり…。」

鶚が零した呟きに、皆が不安を抱いた。対呪いとなると、浄化が頼みの綱だ。それが効かないとなると、対抗手段は少々考え所。そのために青藍をはじめ司法局の陰陽師を動員してはいるものの、要から蜻蛉を追い出すのは簡単ではないらしい。しかも要の無事を保障するとなると、更に心許ない。

 「もし私を消す事が出来たとして、虎太郎を取り戻せるなどと言う考えもまた浅はかなり。既に虎太郎は消えたも同じだ。記憶や人格を無くした肉体のみを取り戻したとて、それが何だというのだろうな。」

 「もう?もう要はいないのか?」

 声を荒げた頼優は、愕然とした。

拘束された蜻蛉の後ろに立っている鶚が、眉を寄せて言った。

 「櫓亮厳(りょうげん)を器としていた期間は三十年にも及ぶ。その間、翡翠眼(ひすいがん)と亮厳を行き来していたはずだろう。こんな短期間に肉体の意識がなくなるはずが…。」

 「よく知っているじゃないか。それを知っているならば分かるだろう。私が翡翠眼で休んでいる間、亮厳が勝手な事をしなかったのは、もう亮厳が消滅していたからだと。私の依り代となった地点で、肉体に不要な人格は消えるだけだ。」

 「そんな…。」

ショックを隠し切れない頼優に、蜻蛉はニヤッとした。

 「虎太郎…いや、要は随分と協力的だった。私が要として潜り込むための知識を、十分に教えてくれた。源氏に復讐して欲しいと望みを託して消えていったのだ。従順で御し易い、実に都合のいい器だ。」

 それを聞いた時、頼優は気付いた。今ここに蜻蛉を誘き出す事に成功したのは、要がそう誘導したからなのだ。要は、必死に戦っていたのだ。

 そうと知れば、ここで足を止めてはならない。とは思うも、浄化が効かないという不測の事態に作戦が止まってしまった。

 「お前たちにとってこの器は傷つける事の出来ないものだろう。この器に守られている私に、何が出来るのだろうな。」

 浄化が効かず、かといって要を殺す事などできない。皆の困惑の中、在仁が安全ラインを越えて蜻蛉に近付いた。

 「へぇ、もしや、お忘れではございませんか?俺は、共感体質なのでございますよ。」

 「…は?」

 在仁は目を見開いて、蜻蛉をじっと見つめた。

 明らかに在仁が共感しようとしている

 「ちょっと!」

慌てた茉莉が在仁の体に抱き着いて引っ張り戻そうとしたが、在仁は既に要の顔を両手で包んで、まるで口付けしそうな程に顔を近付けていた。目と目の距離が焦点が合わぬ程に近くなり、在仁が要の目の中に吸い込まれるように意識を集中させていた。

それを見た青藍が叫んだ。

 「止めろ!すぐにやめさせろ!呪いを引き受ける気だ!蜻蛉を、在仁の中に取り込むつもりだ!呪匣(のろいばこ)になってしまう!」

 聞いた全員が在仁を止めようとしたが、在仁が叫んだ。

 「これしか、要様をお助けする方法がございません!邪魔立てなされば、容赦致しません!」

すべての制止を振り切った在仁の譲らない決意が吠えた。それを聞いて、全員が怯んだ。

 「茉莉、そのまま掴んでて。」

 体には茉莉が抱き着いたままだ。在仁はその感覚を頼りに、自我を守らねばならない。茉莉が在仁の覚悟に寄り添うように、抱きしめる腕に力を込めた。

 そうして在仁はすべての反対を押し切って、勝手に要に共感していった。


 ◆


 「やめろ!!!」

 叫んだのは、蜻蛉だった。

 蜻蛉が恐れているものは三つある。繚乱、清め人、そして共感体質者だ。前二つは言わずと知れた浄化の力があるため、弱き呪いである蜻蛉の天敵。そして共感体質者は、相手の負を勝手に肩代わりしてしまう特殊能力がある。その力を使って、陰陽師たちは呪いの集結たる呪匣を生み出そうとしていた。つまり共感体質者であれば、対象の体内にある呪いを肩代わりする力があるという事だ。蜻蛉はその力を恐れているのだ。もし共感体質者に取り込まれたら、逃げ場はないと。

 在仁はそんな蜻蛉の考えを見透かしたように、心の求めるままに、要の負を肩代わりしようとした。

 要の体の中には、蜻蛉と要がいる。蜻蛉は既に要は消えてしまったというが、果たしてどうだろうか。在仁は自然と要の存在を探してしまう。

 そんな在仁を飲み込んでいく感情の濁流は、一体誰のものなのだろうか。


 誰かの目線で、梟に似た姿を見上げていた。

―――現世(うつしよ)は良い。幽世(かくりよ)はもういっぱいだ。もうすぐ限界を迎える。限界を超えたら、王が生まれるだろう。王は幽世を飲み込んで、新たな幽世を創造するだろう。そうしたら私はもう不要だ。所詮私は幽世を治める力の無い、無力な神だ。

 「不要となった神様は何処へ行かれるのでしょう。」

―――不要の神に行き場などない。消滅するのだ。

 「消滅。では消滅しないためには、どうすれば良いのですか。」

―――私は幽世を治める神だ。神の消滅を防ぐ為に何かするのは、道理が通らぬ。資格なき神は消えるが道理。

 「いいえ。幽世を守るために行動する事は、幽世の統治者として道理です。」

―――なるほど。だが出来る事などない。あそこでは常に生まれ来るものを制御できないのだ。ただ溢れているだけだ。

 「ならば、入りきらない分を外に出しましょう。それで幽世が守られるならば。」

―――無理だ。龍の木がある限り、幽世と現世は均衡を保っている。渡戸(わたりど)は狭く、現世に渡れるものは僅かだ。

 「渡戸を広げる事は出来ませんか。」

―――龍の木を斬れば、呪穴(かしりあな)を妨げるものは何もなくなる。さすれば、呪いの王は現世に渡り、幽世は守られるだろう。

 「龍の木を。」

―――だがもし本当に龍の木が失われた現世に呪いの王が渡ったならば、現世は呪いにより終焉を迎えるだろう。

 「現世など、どうなっても構いません。むしろ、呪いによる終焉を以て、現世を幽世にする事が出来れば、神様はこの世の全ての神となられます。」

―――馬鹿な事を。それこそ道理ではない。侵略など、すべきではない。

梟の目は、遠くを見ていた。それをただ見上げる視点を、在仁はとても小さなものと感じた。

 流れていく膨大な時間を遡っているのか、それとも進んでいるのか、全く分からない中で、在仁の視界をかすめていくのは、呪いによる死ばかり。そこにある数えきれない死が、在仁自身の心に痛みを与える。その多くの死を見ている者からは、何の感情も伝わらない。共感すべき心を感じない。蜻蛉は呪いだから?だが、これまで蜻蛉と会話してみても、感情はあると感じる。呪いの王たる野分(のわき)ですら、感情があるのだから。

真っ黒で重くて苦しいばかりの何かをかき分けて、在仁は藻掻くように要を探した。際限のない死が充満した最低な場所で、窒息しそうな苦しさに耐えながら、在仁は必死になって進んだ。

足はどんどん重くなり、視界は真っ暗で一寸先も見えず、ここは何処で、自分は誰なのか、何もかもを見失いそうになった。それでも進むのは、もはや本能のようなものだ。

 その時、声がした気がした。

―――糸遊(かげろう)

 その呼び声を求めるように、小さく弱く儚いものが言った。

 「私が必ず、呪いによる世の終焉を叶えましょう。さすれば、この世は一つになる。幽世の神が治める、たった一つの世になるのです。」

散りゆく梟の体が、闇の中に落ちて消えるのは、在仁にはとてつもなく恐ろしくて悲しいものに見えた。

差し出した手は誰の手か。在仁は無意識に梟を追って、闇深い底へ落ちて行った。

 墜落している感覚もないまま、底を見ると、何かが光っている。

 そこにある光は、翡翠色をしていた。


 ◆


 共感した在仁が黙ってから、蘇芳はすぐに結界内の浄化を指示した。

茉莉は過剰に清められていく結界の中で、蜻蛉が消えてしまえば良いのにと思った。

 「茉莉様、紫微星様のお顔が…。」

要と見つめ合う姿勢のままの在仁の隣で、事を見守っている頼優は落ち着かない様子だ。茉莉も不安を抱えたまま在仁にしがみついている状態なので、人の事は言えない。後ろで警戒している北辰隊も、持ち場を離れずに緊張したままの者たちも、皆が息を殺して在仁を見ていた。

 「大丈夫。在仁は全部総取りする清め人だもの。蜻蛉なんかに、負けないわ。」

茉莉の気丈に、在仁の装備ポーチから野分が同意した。

 「その通りだ。真砂(まさご)に無く在仁にあるものは、共感体質。共感体質であり清め人である在仁は、本来呪匣になどなるはずが無い。共感し呪いを肩代わりし、それを清める事が出来るはずだ。要から蜻蛉を引きずり出し、清めれば良いのだ。」

それで全部解決とばかりに言う野分に、後ろから青藍が言った。

 「だが、要殿の無事は保証がない。」

 「呪い耐性というものが肉体のみに作用するとは限るまい。要の精神にも作用していれば、まだ取返しはつく!」

 呪いに励まされる矛盾には、青藍のみならず皆が奇妙な感覚を覚えた。だがもう野分はすっかり仲間なのだ。信頼できる仲間。

 その時、在仁が苦痛を漏らした。

 「けほ…けほ。」

茉莉は抱きしめた薄い体を撫でた。すると、今度は要の体が震え出した。

 「要!」

頼優は要に触れようとしたが、後ろから(あずま)が止めた。まだ終わっていない。耐える頼優は、拳を握って手をおろした。

 在仁が共感し始めてから、たいして時間は経過していない。ほんの数分の事だが、嫌に長く感じる。

 「在仁の体、どんどん冷えてる。急いで。」

抱きしめる茉莉は不安そうに、在仁を急かした。


 ◆


 在仁は翡翠色の光に導かれて、闇の中を泳いでいた。

 その先に、誰かいる。

 「要様!」

この体は要のものだから、誰かいるなら要しかおるまい。在仁が大きな声で呼ぶも、聞こえていないのか反応が無い。在仁は近付いて行くと、その人が随分と小さいと気付いた。子どもだ。

 「もしかして、虎太郎様?」

そう呼ぶと、振り返った顔は、あまりにあどけない美少年だ。

 「誰?」

 「貴方様の友でございます。お迎えに上がりました。帰りましょう。」

 「帰る?皆いないのに。どこへ帰る?」

皆いない、そう言われた在仁は柔らかく微笑んで屈むと、そっと要の手を取った。

 「皆おります。お帰りをお待ちになっております。要様。」 

 「かなめ?」

 「ええ、要様。早く帰らねば、頼優様が御可哀想でございますよ。さぁ、帰りましょう。」

そう言うと、握っていた手が大きくなった。

目の前には大人の姿の、在仁がよく知る要が立っていた。 

 「帰りたいです。」

 そう言った瞬間、真っ暗だった景色が、色鮮やかになった。その風景の中には、沢山の頼優が笑いかけている。どの頼優も愛情に溢れているのは、頼優の心ではなく、見ている要の心だ。やはり要は頼優の事が大好きなのだ。頼優一色の要の心に、他の何かが入る余地がない。在仁はたいへん素敵だと思った。

 「ええ、帰りましょう!」

 振り返れば、翡翠色の光が帰り道を教えるように佇んでいた。

 在仁は要の手を引くと、その光に向かって歩き出した。

 真っ暗だった景色は、どんどん要の温かな心の色に変わっていく。黒はどんどん小さくなって、逃げていくようだ。

 「要様、俺は蜻蛉を退治せねばなりませんので、ここで別れましょう。要様には頼優様が待っておられますから、大丈夫でございましょう?」

 「紫微星様…しかし。」

 要の不安な指先を離すと、在仁は翡翠色の光に向かって言った。

 「貴方様は如何なさいますか?」

 手を伸ばした在仁に、光が導かれるように寄ってきた。そして在仁の指先と光が触れ合った。


 ◆


 「けほ、けほ…。」

在仁が要から手を離して、苦しそうに咳いた。

 「在仁!」

茉莉が呼ぶと、在仁は茉莉に体を預けて視線を要に向けた。

 「要様は…?」

問うと、皆の視線が要に向いた。すると、震える要が大きく呻いてから、えづいた。

 「うえ…。」

うめき声と一緒に、要の口から、ぬるっとした物が零れ落ちた。

 ぽと…ころころ、と転がったのは、翡翠眼だった。

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