447 不在の事
要がいなくなったと報告を受けた時、鶚は九州にいた。
連日の多忙の中、時間を繰り合わせては櫓家の調査を続けていたのだ。その調査はイマイチ行き詰っていて、そういう時の原点回帰とばかりに、例の開かずの蔵へ向かっていたのだ。
「まさか、開かずの蔵が開くとはな。」
驚きを隠せずに漏らした鶚は、蔵の扉を開いて、中を見た。
中身は見事に空っぽ。すっからかんだ。そして床には晦冥教のマークがあった。「蔵のお宝は頂いた、フハハ」と言う意味で書き残されたのではない。古びたそれは、おそらく最初からあったと察する。つまり、蔵は最初から晦冥教のものだった。
「ここは端から、晦冥教の資金蔵だったという事か。」
蔵の所有者は櫓亮厳。亮厳は翡翠眼を所持していたとされる。それがただの美術品か蜻蛉か、それにより櫓家の悲劇は色を変えると思っていたが、まさか蔵が開く事で判明するとは。こうなれば間違いなく、亮厳の翡翠眼は蜻蛉だったのだろう。
鶚はこれまでの考えの答え合わせをするように思考を巡らせながら、蔵の扉をそっと閉じ元に戻した。
後ろには浩然が周囲を警戒しつつ待っていた。
在仁の意見で、要の誘拐も蔵の略奪も、何もかもまだ気付いていない事にすべきとされた。晦冥教側はこちらが気付いていないと油断すれば、急いで要を殺す必要が無いはず。要の無事のために、事件として大きく捜索する事はすべきではないと。だから蔵はこのまま放置だ。要が不在である事も、頼優が騒ぎ立てねば、そう大きくなる事は無いはず。しばらくは。そう、精々が時間稼ぎだ。どちらにせよ、急がねば、要の生存率は下がる。
今回は晦冥教案件と言えど、蜻蛉を討つよりも、要を無事に救出する事を最優先に動くべき。在仁はそう明言している。元より犠牲者を許す紫微星様ではない。
司法局は既に密かに動き出しているけれど、元より晦冥教案件捜査の真っ最中であり、翡翠眼捜索が続けられている中の事件だった。要を探そうにも、手がかりすらないのが現状だ。この蔵を調べれば何か分かるかも知れないが、鑑識作業は目立つ。蔵は開いていない事にしておかねば。
蔵から離れ道路に出ると、鶚は浩然に訊いた。
「昨日から今日にかけて、ここに来た者がいるか調べられるか?」
頼優が最後に要に会ったのは昨日の夜であるから、夜間に攫われた事になる。浩然が蔵を確認に来たのは朝の九時半頃であるから、それまでに蔵を開き、中身を運び出したと言う事だ。その間に、ここに出入りした者が分かれば単純だが。ダメ元で問うと、浩然が言った。
「監視カメラ映像がある。」
「ほう?」
あるのか…という驚きに、浩然は周囲を見回した。立ち並ぶ古き武家屋敷は空き家だ。蔵はその外れにあり、その先は建物の無い道路。
「この蔵の周りの屋敷は重要文化財として保存している。空き巣などの損壊被害を警戒して、監視カメラがある。」
空き家となった古い武家屋敷は、在仁の写真集撮影で使われたロケ地。結城家管理の重要文化財であるから、管理人もいるし監視カメラもある。浩然の説明に、鶚は目を光らせた。
「なるほど。見られるか?」
「もちろん。こちらへ。」
言って歩き出したのは、重要文化財の向こうの、人家の方だ。
そこで浩然は端と気付いて振り返ると、鶚はトレードマークの黒服。浩然はそれを見て、着ていたベージュのロングコートを脱いで差し出した。
「なに?」
「目立つ。」
「…ああ。急いでいたから。」
そりゃそうだろう。浩然は何も言わずに歩き出し、鶚はコートを着て黒服を隠した。蔵の前を黒服がうろうろしていたらおかしい。当の鶚がヘマをしてどうする。内心で自嘲した鶚は、浩然が着ていた温かいコートに、何となく居心地の悪さと良さの両方を感じた。
浩然は鶚を先導して歩きつつ言った。
「このまま蔵が開いた事は秘するが、一応蔵の周囲に密かな監視を置くつもりだ。」
「蔵の中身は空だ。犯人が戻る事はあるまいが、万一誰かが好奇心で蔵を開こうとすれば大騒ぎになる。誰も近付けないのが良かろう。」
要が誘拐された事も、蔵が開かれた事も、中身を奪われた事も、何もかも気付いていない事にするため放置する方針とは言え、本当に捨て置く訳にはいくまい。浩然の意見に鶚が同意したのは、兄弟らしい連携。
そして辿り着いた、武家屋敷が立ち並ぶ先にある建物は管理小屋だと言う。浩然が入ると、警備員が驚いた顔をして出迎えた。そして監視カメラ映像を見せろと要求されるままに、昨夜の映像を再生した。そして一旦警備員を追い出してから、二人で映像を見た。
「監視カメラは文化財建物用だからな。あの蔵の前は映っていない。ただ、通った車は映っているはずだ。あの蔵の大きさからして、中身は相当な量だったはず。大型のトラックでも映っていれば、ドンピシャだが。」
言いながら早送りする浩然が手を止めた。一時停止された映像には、大きなトラック。
鶚はトラックのナンバーを確認してから言った。
「呪術工房に出入りしていた車と同じ車だ。追跡しているが、未だに見つかっていない。」
「つまり、晦冥教のトラック?」
浩然が映像をコピーしていると、鶚が猛禽の如く鋭い目をした。
「ぬけぬけと…。」
捜査の最中に行われた大胆不敵な犯行であるから、司法局形無しだ。悔しいに決まっている鶚は、静かに燃える波形をした。
「だが、これでこの件は、現在進行形の晦冥教案件となった訳だ。ならば強制捜査権を行使できるな。」
昨日までは櫓家については晦冥教案件である確証のないものだった。鶚の嗅覚だけが頼りの調査に過ぎなかった。だが、これで晦冥教案件確定だ。これまで司法局の権力を使って切り込めなった事が出来る。
それは、虎太郎の乳母から聴取出来ると言う事だ。
浩然も、あの乳母の口を割らせたいとは思うも、鶚の剣呑な雰囲気に少々警戒を抱いた。
「おい。手荒い事は無しだぞ。」
「何を言っている?司法局は心ある機関だ。」
どうだか。そんな人を殺しそうな目をして。
浩然は鶚の中にある刃に、少々恐ろしいものを感じたのだった。
◆
「…けほ。」
あれから在仁は、頼優に促されるままに、源氏本家へ向かった。
紫微星様の来訪は予定通りであるから、事件の所為で帰るのはドタキャンだ。使用人たちにはお茶など接待を申し付けてあるろうし、急なキャンセルは不自然だ。
頼優はあたかも予定通りであるかのように、使用人たちにお茶を出すように命じて、あらかじめ温めておいた和室へ案内した。
「遅うございましたね。何かございましたか?」
紫微星様の到着時間が予定より遅かったので、頼優が自ら迎えに行ったのは、使用人たちも分かっていた。その上で使用人が頼優に問うたのは、もし紫微星様の体調が悪いならば特別対応が必要だと思ったため。それを察した頼優はいつもと変わらぬ明るさで言った。
「要に休暇をやったのを忘れていてな。紫微星様に要を迎えにやると言ってしまった。私のうっかりで紫微星様を待たせてしまったのだ。まこと申し訳ない事をした。」
「まぁ。ここの所、鎌倉様はお忙しいので、お疲れなのでございましょう。」
気遣った使用人はあっさりと納得して、お茶の用意をし始めた。どうやら頼優がボケただけと思ったようだ。在仁からすれば、頼優はそんなポカをする人ではないのに。
「けほ。」
乾いた咳をすると、茉莉が背を撫でた。
「ずっと外にいたから冷えたね。大丈夫?」
「うん。ありがと。」
確かに外にいたが、冷えた原因は外気ではなく精神的なものであるように思われた。
こうしている今、要は無事なのか。そう思うと、気が気ではない。在仁はしっかりせねばと気を引き締めた。
使用人たちがお茶を運んで来ると、頼優は全員を下がらせた。これでようやく話せる。
「頼優様。急な事でございましたので、詳細の説明を省いておりました。改めまして、櫓家についてお話させてください。」
「是非とも、お願いします。」
本来この話は、要と一緒にするはずだった。要の出自かも知れない櫓虎太郎について、櫓家の悲劇と言われる話をさせて貰うつもりだった。そして、伝説の開かずの蔵を、要に開いて貰おうと思っていた。
鶚は櫓家を晦冥教案件ではないかと目星をつけていたものの、本当に亮厳が翡翠眼を所持していたという証拠も無かった。櫓家にまつわる噂は山ほどあって、翡翠眼については所詮その中の一つに過ぎなかったのだ。もしその翡翠眼が蜻蛉だったとしても、今更三十余年前の所在地が判明する事にそう意味も無く、焦って取り組むべきものとも思われなかった。重要なのは今、蜻蛉がどこにいるかだから。
在仁は、要の都合と気持ちを優先して、時間をかけても良いと思っていたのだ。
けれど、急転直下。櫓家事件は再び動き出し、現在進行形の晦冥教案件となってしまった。
在仁は、頼優に櫓家の悲劇のすべてを話した。そして、鶚と浩然の調査内容を話した。
「では、要は櫓家の相続争いの所為で追放されたというのですか?」
すべてを聞いた頼優は、櫓家の血で血を洗う相続争いに、流石に引いた顔をした。
「お噂では、そのように語られております。なれど、真偽は不明でございますよ。何せ櫓亮厳が親族の手から守るために建てたという開かずの蔵は、最初から晦冥教の資金蔵だったのでございますから、亮厳が所持していた翡翠眼は蜻蛉だったのでございましょう。こうなりますれば、いろいろな事の意味が全く違ってまいりましょう。」
闇色の瞳が真実を睨みつけているように見えた。
一般的に櫓家の悲劇と言われている物語は、亮厳の後継者・藤十郎の突然死から始まる。末子だった藤十郎の死により、後継者選定が混乱した。家は直系の男子が継ぐのが常識であるから、藤十郎の次の後継者となるべきは、藤十郎の嫡男。だが、藤十郎の子に男子が無かった。だから親族が自分にもチャンスがあるのではと目の色を変えた。当時の亮厳の財産は、結城家を凌ぐと言われていた為、親族は金目当てに後継者争いを激化させた。だがこの時、亮厳は藤十郎の死を、金目当ての親族による殺人だと疑った。それで大きな蔵を建てて、亮厳にしか開く事の出来ない特殊な鍵で、全ての財を封じ込めてしまった。
と、言われているが、亮厳が蔵を建てて守ったのは晦冥教の活動資金だった。元より櫓家の財は、亮厳のものでは無く、晦冥教のものだったのだ。それを守ろうと蔵を建てた。
亮厳は偏屈な性格で人を寄せつけないと言うが、こうして見れば晦冥教のためにすべての財を差し出すのだから、敬虔な信者だ。蜻蛉の言いなり、と言う感じもする。
視点が変われば、登場人物の性格までまるごと変わって見えるのだから、噂など不確かなものだ。
「櫓亮厳は間違いなく蜻蛉の手駒でございます。なれど、櫓家ごとではございません。もし櫓家がまるごと晦冥教徒であれば、凄惨な争いは起こらず、櫓家が滅びる事はございませんでしたでしょう。亮厳は蜻蛉に命じられ、莫大な財を築き上げ、晦冥教の活動を支えていたのでございましょう。蜻蛉が橡佳代を良いように使っていたように…いいえ、もしか致しますと、蜻蛉にとって亮厳はもっと都合の良い存在だったのやも知れません。」
鶚の想像では、蜻蛉が櫓家を根城にしたのは、亮厳が櫓家当主となった六十余年前であるから、約三十年間も櫓家を主要拠点として留まっていた事になる。これは慎重で警戒心のある蜻蛉にしては相当に長い時間だ。それ即ち、余程都合の良い居場所だったと言う事だ。亮厳は蜻蛉にとって、扱いやすい手駒だったのだろう。
「ご存知の通り、蜻蛉は拠点にてただ大人しく休んでいる訳ではございません。長老会でも、石川家でも、橡家、山梔子家でも、それぞれの拠点にて呪術を扱い、呪いの流布のために動いておりました。ですから、櫓家でも当然、何らかの悪しき呪いを扱っておられたと思うものでございます。」
「ただ活動資金を稼ぐだけでは無いと?」
橡家や山梔子家で呪術工房を持っていたように、過去の拠点でも大人しくなどしていなかった。だったら櫓家では何をしていたのか?
「最も不穏なのは、櫓亮厳の子息たちの不審死でございます。末の藤十郎が後継者となるまでに、兄たちは悉く死した。そして最後には藤十郎も死に、虎太郎様が後継者となられた。この不審死に、蜻蛉の悪しき企みが潜んでいると、そう思います。」
静かな部屋に、在仁の推論だけがただ並べられていく。
仲間たちは、在仁がいつの間にこんな事を考えていたのだろうかと思い、少々驚いた。
「虎太郎様は、藤十郎の乳母の戸籍に入れられ、存在を秘されておりました。それは、その不審死と関係があるのではございませんでしょうか。日下様と浩然様は、この事実を、藤十郎が虎太郎様を守るためになさったのではと、推察しておられました。確かに、俺もそのように思われます。なれど、この事を解き明かす事は難しいと存じます。」
「当たり前だよ。もう三十年も前の事だし。それより、そんな事どうでも良く無い?要様を助ける事と、三十年前の事は別でしょ?」
在仁の背に手を添えたまま、茉莉は眉間に皺を寄せた。在仁に対する否定的な感情は、無理をさせたくないだけだ。頭脳労働は茉莉の領分ではないので、端から放棄している。言えるのは単純な事だけ。けれど、それが結構大事だったりするのは、どこの世でもお約束と言うやつである。
頼優に経緯を説明する事は必須だが、そのまま三十年前について考察する意味が無い。頼優も茉莉の意見に賛同して頷いた。
「そう、ですね。今は何としても要の居場所を探し出す事を…。」
「いいえ。」
出来る事を明確にしようとした頼優に、在仁ははっきりと否を口にした。
「要様の居場所を探す事は、司法局にお任せ致しましょう。現在の晦冥教案件の指揮権は司法局でございます。司法局の指揮下にてあるべき勤めを果たすしか、俺たちが出来ます事はございません。」
「それは…そうですが。」
単なる要誘拐事件であればわき目も振らずに捜索したが、これは晦冥教案件。司法局の指示無く勝手な捜査をすれば、ルール違反で減点される。このド年末にやらかしたら、家格評価を盛大に落とし、通知表は惨憺たる事になる。
頼優は清和源氏当主としての責任を思い出し、悔しそうに呻いた。
そこに、在仁が提案した。
「ですから、俺たちは司法局とは別角度から攻めましょう。」
「別角度?とは?」
「櫓家の悲劇を解き明かすのでございます。そこに一体何がございましたか、それを知る事で、見えて来るものが、必ずございます。そして、そこに活路がございますはず。」
誘拐事件の一般捜査はプロである司法局に勝るものはなかろう。頼優がジタバタした所で邪魔になるだけとも思われた。だったら、在仁が言うように、今できる他のルートを模索すべき。櫓家の悲劇の真相を知る事に、絶対に意味があるのだと確信する在仁に、頼優は託したくなった。在仁が指し示す道こそ、紫微星の導きだ。
「分かりました。けれど、櫓家の調査は行き詰っているのでは?」
鶚と浩然の櫓家調査は捗捗しない。調べようにも方法が無いのだ。頼優は在仁の考えを探るように問うと、在仁が言った。
「いいえ。御一人だけ。虎太郎様の乳母の女性がおられます。俺はその御方がご存知の事を、お聞かせ頂きたく存じます。」
「え?でもその人、門前払いで話す気ないんじゃなかった?」
鶚の報告ではそういう事だったはず。茉莉が首を傾げると、在仁が強い目をして否定した。
「いいえ。櫓虎太郎様の御命の危機でございますから、必ずやお話下さいますものと。」
在仁は一人で随分先まで見越して話しているように見えた。思い出して見れば、要がいなくなったと言い出した瞬間に、在仁が唐突に別次元へ思考を走らせてしまった。いつものエスパー状態だが、このゾーンに入ると在仁は止まらない。
もう在仁の扱いを熟知している北辰隊は、ここで止める事は時間の無駄と判断した。そして東が言った。
「分かったわ。九州へ行くって事ね。でも今日は駄目よ。」
「なれど、事態は一刻を争います。」
今すぐに。在仁が食い下がるも、東は頑として譲らず言った。
「駄目。今日中に調整して、明日向かうわ。綿毛ちゃん、貴方今自分がどんな顔色をしてるか分かってる?こんな状態で行ったって、体が持たないわよ。今日は休んで頂戴。」
東が両手で在仁の両頬を包むと、在仁は温度差で自分がどれだけ冷えているが感じた。
「…けほ。わ、分かりました。では、明日の朝、伺いますようにご調整をお願い致します。」
東の両手を剥がしながら、在仁が折れた。
それを聞いていた頼優が、話が終わる前に急いで口を挟んだ。
「お待ちください。それ、私も同行させてください。」
「え?」
びっくりした在仁が目を見開いて、口を開けたまま固まったので、代わりに茉莉が言った。
「頼優様はただでさえお忙しいんじゃありませんか?要様が誘拐された事を隠すためにも、普段通りにした方が良いんじゃありませんか?」
ただでさえ年末は繁忙期なのに、司法局の晦冥教案件捜査の所為でどの家門も忙しい。筆頭三家門である源氏の当主である頼優が、この時期に余計な事をしている余裕があるとは思えない。クリスマスも無いと聞くのに、九州まで聴取の立ち合いなど、出来るはずが無い。
茉莉の否定的な言葉に、頼優が全力で首を振って食らいついた。
「確かに忙しいですが、今日中に何とか段取りをつけて予定を空けます。要の不在についても怪しまれないように偽装し、時間稼ぎの調整も済ませます。ですからどうか、私も同行させて下さい。」
必死に懇願する頼優に、皆が戸惑った。立場的にも状況的にも、頼優を連れて行くのは良く無いのでは。
だが、在仁は頼優の心に寄り添うように言った。
「分かりました。では本日中に全てを済ませてください。それが出来ましたら、ご一緒にいらして下さい。」
「ありがとうございます。必ず。」
絶対を約束するような態度をされると、今日中の調整が無理難題な気もするが、頼優が嘘を吐くはずが無い。在仁が何も言わずに頷くと、東が肩を竦めた。
「しゃーない。明日の予定は後で連絡入れます。良いですか?絶対に目立たない格好で来てくださいよ。お忍びで!」
要を心から案じる気持ちで、頼優に勝る者はあるまい。それは東だって分かるのだから、断る事は出来ない。在仁が決めた事であるから、従うのが仕事だ。総合的に頼優の同行は許容するしかあるまい。
「よし。じゃあ決まり。帰るわよ。」
そうと決まれば動き出さねば。今日中にすべて整えるには時間が必要だ。東は早速動き出そうと号令をかけた。
「私はのばらちゃんと日下殿に連絡を入れるわ。稔、惟継殿に事情を説明して明日の段取りを。佐は胡桃ちゃんに連絡入れておいて。紅葉、急ぎで煤竹先生の手配して頂戴。夜鷹は銀に連絡を。昴、綿毛ちゃんを運んで。」
「え、あの…。」
戸惑う在仁を無視して、てきぱきと指示をしながら歩き出す東を見て、頼優は自分もすべき事をせねばと思った。
「じゃ、頼優様。また明日。」
去る軍団の最後尾で、茉莉が小さく会釈をした。頼優はその挨拶に、深く礼を返したのだった。
◆
在仁たちが去ると、頼優はすぐに行動を開始した。
最優先は仕事の調整だ。多忙は事実であるから、この時期に休日の取得は困難。もし要がいれば何とか繰り合わせる事も出来たが、その要が誘拐されたのだ。頼優はこの事実を、万葉と側近たちにだけ話して緘口令を敷いた。事実を共有するほんの僅かな仲間たちの力を借りて、何とか要の不在を不自然にならぬように工作する事にした。
要を攫った者は晦冥教徒だ。源氏の内情や、まして要の業務スケジュールなど知るはずも無いだろう。頼優は一旦、今日のところは要に休暇を与えた事にした。だがこの時期に要を休ませるのは不自然だ。そこに、明日の九州同行が生きる。頼優とニコイチでお馴染みの要なので、頼優が休日を取得して出かけたならば、どうせ一緒なんだろうと考えずと分かる。これで明日は要の自然な不在が稼げる。その後は、それに絡んで体調不良とか、お見合いとか、適当な言い訳を挟んでおけば、誰も興味も不信感も抱かぬままに二・三日は持つだろう。ただ、それ以降はちょっと怪しくなってくる。
やはり繁忙期なので、要がいないと仕事が滞る。おそらく要の存在のありがたみとか、必要さとかを痛感させる事は出来るだろうが、そうなると不在に不満を抱かれてしまう。勘繰られてはあっという間に不在が広まって、変な噂が立ちかねない。
だから何とか時間を稼げる僅かな間に、要を奪還するしかない。
猛スピードで仕事を片付けながら、頼優は書類をクリアファイルに入れてテーブルの端に積んだ。
それを見た時、昨日の夜を思い出した。要と最後に交わした会話を。
昨日は仕事が立て込んで、何とか区切りが付いたのは夜十時頃だった。いつ終わるとも知れない出口の無い状況であるから、徹夜とか午前様は勘弁願いたい。途中で過労で倒れるなんてのは、最も悪い。頼優は書類を片付けて、皆を帰した。
「要。悪いが、帰り道に寄って、この書類だけ回してくれ。」
「分かりました。」
「多分向こうもまだ誰かしら残って仕事してるだろ。皆忙しくて気が立っているからな。八つ当たりで絡まれる前に、書類だけ置いて、とっとと逃げろよ。」
「そんなに心配しなくても大丈夫ですよ。何年やってると思っているんですか?対処法は身についています。」
いつだってどこにだって要を良く思わない者はいるものだ。だが頼優のお気に入りであるから、嫌味を言うのが関の山。要は強気な笑みだった。頼優はその笑みを見て、余計なお世話だったと思った。
「そうだな。あ、あと、明日は朝九時に転移扉まで紫微星様を迎えに行ってくれ。忘れるなよ。」
「忘れませんよ。何回言うんですか。」
「大事な事だからな。念押しだ。そうそう、明日は出勤しないで直接迎えに行って良い。それなら多少寝坊出来るだろ。少しは休め。」
「寝坊なんてしませんよ。主に朝の挨拶を欠いては一日が始まりません。ちゃんといつも通りに出勤してから、迎えに参ります。」
「律儀って言うか、真面目って言うか、石頭だな。要は。私の厚意を受け取る器は無いのか?」
「ありませんね。主が心配で休まりませんので。」
ふふっと笑った要の意地悪な顔に、頼優は肩を竦めた。
「では、おやすみなさい。」
そう言って書類を持って去ったのが、最後に見た姿だった。
頼優は、あれを最期にさせる訳にはいかないと思った。
「要…。」
一体今、どうしているのだろうか。




