47 仇敵の事
渾身の力を込めた矢が硬い肌に弾かれ折れて地面に落ちた。鬼はその矢を踏みつけるとわざとらしく執拗に踏みにじった。
「親さん、ご覧の通り、僕の矢は全くききません。」
直嗣が丁寧に報告すると、実親は腕を組んで唸った。
「霊弓が相手にならんって言うから一応やってみたけど、本物の矢も駄目か。」
鬼化した平景清から二人までの距離はまだそれなりにある。それも向こうが迫ってくれば一跳びの距離でしかないが。遠距離攻撃の実験を何の余興と捉えているのか景清はまだ襲ってくる気配がない。余裕なのだろう。
「直ちゃん、親ちゃん。いつの間にか二人、仲良くなったんだ?うける。あんなことがあって仲良くなるとか、本当、ありえなくね?弁天に謝った方がよくね?」
景清の口から紡がれる「弁天」の名には二人とも怒りを覚えた。
「落ち付け、あれは挑発だ。」
「分かってます。」
実親と直嗣はお互いに冷静さを失わぬよう努めた。あの挑発に乗って、悲劇は起こったのだから。
「な〜んだ。怒らないのか。つまんねぇの。」
景清の残念そうなもの言いまでもが二人の癇に障ったが、深く息を吐いて我慢した。二人の手には血に汚れた手形があった。
先程、奥州の部隊を探しているという通りすがりの幸衡から渡された手形だった。地下迷宮のかなり奥まで行って戻ってきたようだった。道中鬼を倒して手に入れた本物の手形だと言う。効果は手にしてみてはっきりと分かる。瘴気がただの排気ガスのように見えた。この瘴気の影響を受けないだけでもかなり有利だと思った。…のはあまりにも楽天的すぎた。瘴気はこの鬼たちにとってエネルギー源ともなりうるものだ。そんなものの中で戦うのは不利。影響を受けないくらいで調子にのっていた自分に反省しつつも、隣で仇敵を見据える直嗣の横顔を見て気合いを入れ直した。
「親さん、何か手はありますか?」
直嗣の問い。実親は頷く。
「両方効かないんだったら、両方合わせてみろ。向こうがああして実験に付き合ってくれてる内にあらゆる手を試すんだ。」
実親は景清の余裕顔に一発かましてやれと直嗣の背を叩いた。
「うれしいな〜、俺。直ちゃんと親ちゃんが会いに来てくれて。また一緒に殺し合いが出来て。こんな大混乱の戦の中で、こうして対峙できるなんて、本当に最高の巡り合わせだよね?さ〜、早く殺し合おうよ。俺はこのために転生し続けているんだからさ〜。」
景清は転生組の中でも最も凶暴な人格だ。転生する事の意味を戦を続けるためだと平然と言い放ち、戦がなければ自ら起こす危険人物。
「こんな大それた戦は俺史上でも初めてだ!最高に心踊る…。」
嬉しそうに狂った主張を続ける景清の頬を鋭い矢が掠めた。今度は硬化した肌を切り裂き、血がにじんでいた。
「…へ〜。鬼を切り裂く矢か。そんな生意気なもの持ってたんだ。」
景清の目の色が変った。
「親さん、成功です。でも…来ます!」
「見りゃわかるって、とにかく逃げろ!」
猛スピードで直嗣と実親を殺しに飛びかかってくる景清から、二人は全力で逃げた。二手に分かれ、吹きぬけの大広間のような構造の二階部分を飛び移りながら逃げた。
景清は直嗣を追った。直嗣は軽い身のこなしで飛び移りながら逃げ、同じく逃げていたはずの実親はいつのまにかその景清の背後に近付いていた。
直嗣が少しスピードを緩め、景清の魔の手がその隙を逃さないとばかりに直嗣に集中した隙に、実親の刀が景清の背を深く刺した。
突然の痛みに景清は叫びながら落ちていき、直嗣と実親は再び合流して身を隠した。
「親さん凄いです。」
「お前の矢と同じ、刀と霊弓の合わせ技だよ。これなら鬼も斬れそうだ。だが油断するなよ。まだ来るぞ。」
実親の言う通り、しばらくすると地面から瘴気の靄の中を突き抜けるミサイルのように景清が跳躍して来た。
そして今度は実親を狙って襲いかかってくる。その姿を直嗣が弓で狙った。
だが上手くいかず、直嗣の放った矢は景清に掴まれた。掴んだ手を切り裂いた矢に苛立ったのか、力ずくでへし折り投げ捨てると景清は顔をゆがませた。
「二対一で勝てるって?生意気な考え方するようになったじゃねぇの?」
「親さん、怒ってます。」
「びびんなよ。こっちだって怒り心頭だっての。」
実親が刀を構えて見せると、景清は不気味に笑った。
「あ〜、楽しい。これだから戦はやめられねぇよな。恨み、憎しみ、怨念が連鎖して終わりが無ぇ。この怨嗟の渦で踊り続けようぜ!最高の宴だぜ!」
高笑いをする景清に、実親は自ら斬りかかりに行く。
「残念だが、ここは檀の浦じゃない。お前の拘る戦場じゃないんだよ!」
実親の切っ先が景清に届くより早く、景清が刀を素手で掴み振り回して放り投げると、実親もその勢いで飛ばされた。その力を利用して壁に足を着くと再び景清に向かって行った。
「俺は檀の浦になんか拘ってねぇよ!」
「いいや、拘ってるね!あの負けに拘るから戦を続けたいんだろ!」
実親の言葉に腹を立てた景清は突撃して来る実親を手で振り払った。まるで虫でもはらうかのような所作で振り払われた実親は、再び体勢を切り替え壁に足を着いき、それと同時に叫んだ。
「発火!」
声と同時に景清の、実親を振り払った手から炎が上がった。
「なっ!」
その炎の熱さに慌てたのか景清が暴れ出した。そこを逃さず直嗣の矢が襲う。
複数放った矢は全て景清の背に深く突き刺さり、さらに景清を苦しめた。
「猿蟹合戦戦法!」
直嗣が得意気に言うと、隣に戻ってきた実親が呆れた。
「人数足りないけどな。」
「二人で十分ですよ。」
「調子に乗るなっての。」
直嗣は言いながら胸の十字架を握っていた。本当は恐いのだろう、実親はその姿を見て見ぬふりをして景清を見た。
景清は手の消火に成功したらしかったが、炎はただの炎ではない。鬼の芯まで焼き尽くす炎だ。右手はほぼ炭と化していた。
「こんな奇天烈な戦い方をする奴が、俺は大嫌いでね。」
景清は手の届かない背中の矢は放置して、二人を睨んだ。
「思い出すぜ。あのチビの事をよぉ。檀の浦に浮かぶ船の上を猿みてぇにぴょんぴょんと跳び移って刀を振りまわす、目障りでいけすかねぇあの源義経って野郎をよぉ!」
景清は周囲に漂う瘴気を肺いっぱいに吸い込むと、勢いをつけて二人目掛けて飛び込んできた。
二人はその勢いには反応出来ず、予定外の接近戦となってしまった。
景清の剛腕は反射で抑えられるものではない。術を帯びた刃を作るために必要な冷静さを今は持てそうにない。直嗣は死に物狂いの体術でかろうじて避けるが、景清の左手は直嗣の頭をへし折ろうと迫る。避けると、代わりに掴まれた肉壁が弾けるように破壊され、捕まればひとたまりもないことを証明した。実親は何とか応戦しようと斬りかかるが、巨体の動きに弾かれてまともな攻撃にならない。そして遂に景清の剛腕が直嗣の足を掴んだ。骨の粉砕するような嫌な音と感触がして叫びを上げた。その隙を狙われぬように飛びだした実親の脇腹を、鋭利な爪が斬り裂いた。実親は痛みと同時に全ての思考が飛びそうになるのを堪えて叫んだ。
「発火!」
炎は景清の背に刺さった矢から生じて、再び景清が悶絶しながら暴れ出した。その間に実親は直嗣の腕を引っ張って距離を稼ぎ、隠れた。
「すみません。親さん。」
「いい。それより状況は不利だ。こっちは一撃でこのざまだからな。」
実親は斬られた脇腹を手持ちの布できつく縛ってから、直嗣の足を見た。走れそうにない。直嗣も自身で足を縛り最低限の応急手当をした。
最悪このまま逃げて地上へ転移すれば生き伸びる可能性も上がったが、直嗣がこの状態では厳しい。せめて医療系の術者がいれば応急処置くらい出来たが、今は無いものを悔いても仕方がない。
「矢はあと何本ある?炎は有効だが、奴の肉体に触れて術を仕掛ける必要がある。接近戦は不利だ。直は遠距離からの援護に専念しろ。俺は矢を集めてくる。」
「矢はあと四本あります。それで結界を作ります。景清を閉じ込めれば勝機はあります。」
「いや…結界の耐久に対して景清の力は強すぎる。こちらの消耗損になる危険性が高い。それよりさっきの作戦…なんだっけ?」
「…猿蟹合戦?」
「そう、それで行こう。」
実親が青い顔で笑った。
鬼の体が真っ二つに切り裂かれ倒れると、その後ろから春家が現れた。
義平は驚きと共に少しの安堵、そして疑問が沸き上がった。
「春、お前何でここにいる?」
「迷った!」
春家には単独で最奥を目指すように指示を出してあった。今この場所にいるはずのない人物だ。
「馬鹿野郎!地図渡したろ!なくしたのか?これ持って行け!」
「いやいや、面目ない。」
義平が自分の懐から地図を出し春家に押し付けると、春家は緊張感の無い顔で笑った。
「でも隊長も地図ないと困らない?」
「困らねぇよ。」
義平の顔には、もう地図は必要ないと書いてあった。春家はポケットから大量の木札を出した。
「これ、鬼達から強奪した手形。今更遅いかも知れないけど一応。」
「すげぇな。お前一人でこんなに鬼倒したのかよ。」
春家の一騎当千ぶりに感心を通り越して呆れた様子の義平は手形を二枚受取り嘆息した。
「ま、確かに今更遅いけど。貰っとくわ。とにかくお前は先へ行け。」
「あいよ。」
義平の言葉に大人しく従う春家だが、義平の顔色に何も思わない訳ではない。瘴気が全身に回っている。もう長くはないように見えた。そこへ同じような顔色の祥子がやってきた。
「殿、まだ生きてる?…って春?何でこんな所にいるのよ?迷ったの?地図なくしたの?」
「あ〜、大丈夫。今もらったから、隊長から。」
義平とまったく同じリアクションをする祥子に笑いつつ、春家は思った。これが最期なのかも知れないと。
「結構楽しかったよな。」
貴也がいて、皆がいて、それがちょっとした奇跡に思えるくらいに楽しかった。
「隊長と祥子が何て言っても、俺は二人の幼馴染だし、友達だし、仲間だから。」
春家は、転生組の垣根などはなく対等な関係があったと思った。
「当たり前だろ。春、お前は大雑把なのが長所なんだから余計なこと考えないで良いんだよ。」
「そうよ。春のくせに感傷に浸ってやられたら弁天に怒られるわよ。ここまで来て手抜くんじゃないわよ。」
義平と祥子に見送られて、春家はその場を後にした。ただ後にするだけでは天才の名折れなので大きな声を張り上げた。
「鬼どもー!ここに地龍きっての天才、北条春家様がいるぜー!俺の首が欲しければ、こぞって来やがれ!端から返り討ちにしてやらぁ!」
春家の主張に誘われたのかは不明だが、去る春家の後を鬼達が追いかけて行った。これで多少敵の戦力を削ぐ事が出来ただろうか、どうか出来ていてくれと祈りながら、春家は魔窟の奥へと向かった。
残された義平と祥子は春家の気持ちを受け止め気持ちを奮い立たせた。
源義平はかつてこの場所で死んだ事があった。その時も、今と同じように高濃度の瘴気に飲まれ中毒死だった。体内を巡る瘴気の毒が死に至るまで苦しみを与える様を、はっきりと思い出すと身震いがした。現状生き残っているものはごく僅かだろうと分かってはいた。それでも、その死が無駄ではないのだと言い聴かせた。最後に勝てば、無駄にはならないのだと。
「昔より濃いな。」
義平が呟くと、祥子は髪を払いながら訊いた。
「こんな高濃度の瘴気、どうやって製造しているのかしら。」
「そりゃあ、約千年かけてじっくりと?」
「醸造するみたいに言わないで。」
「上手い。」
「上手くないわよ。」
真面目に言っているのにちゃかされて少し不機嫌な祥子に、義平は言った。
「真面目な話、向こうはずっと長老会やら夜好会やらを操ってた訳だろ?それにあの平景清もいる。戦を起こして戦場から瘴気を集めて、争いを起こして瘴気を集めて、そうやって育ててきたんだろ。実際、昔から戦場から地龍の武士の遺体は帰って来ない事が多かった。」
「そんなの…鎌倉時代から今に至るまで国内の戦がいつくあったと思ってんのよ。とんでもない量の瘴気じゃない。」
「それを寄せ集めれば、自分で勝手に半永久的に増幅し続けるってのは、言いすぎか?」
「…いいえ。その通りね。人の感情は無尽蔵に闇を生産し続ける事が出来るわ。ましてや無念の上に死んだ霊魂は特にね。」
千年分の日本中の闇を集めたなどと想像してみて途方に暮れた。
「で、どうする?これで先行部隊にとって敵の足止めになったなら成功?」
義平が問うと、祥子は不敵に笑った。
「じゃあこれで大人しく後は死ぬだけねって言ったら死ねるの?」
「…なんか企んでる顔してるけど、何?」
「どうせ死ぬなら最期にやってみたい事あるのよね。あの瘴気を祓うのよ。」
「…え?」
祥子の突拍子もない発言は死に際の妄言かも知れないのでもう一度訊いた。
「何よ、ここの毒ガスみたいな空気の所為で鬼が調子こいてんでしょうが。くやしいから祓ってやろうって言ってるのよ。」
「そりゃあ、そんな事出来るならそれに越したことはないけど…。出来るのかよ?」
「結局は瘴気って人の負の感情を元手に精製されるパターンが主でしょう?なら、反対の感情をぶつければいいのよ。」
「…はい?何かただの感情論じゃね?」
「そうよ。だから最期じゃなきゃ出来ないのよ。ポジティブな感情から生まれるもので、ネガティブな感情から生まれるものを倒すの。単純でしょう?」
言ったと同時に祥子の背後から鬼が現れ、義平は愛刀髭切りで両断した。祥子はびっくりして一瞬固まったが、義平がにっと笑った。
「単純明快、おめでとう。よし、やるか。最後くらい派手にきめてやりてぇしな。」
「そうこなくっちゃ!」
戦場で生き生きと笑う祥子の頼もしさに、義平は苦笑いするしかなかった。
瘴気の濃いゾーンを駆けながら、千之助が声をかけた。
「仁美様、大丈夫ですか?もう少し頑張って走って下さい。」
仁美は人生でこんなに走った事はなかった。あがる息のせいで返事もおぼつかない。仁美を気遣いながら走る千之助の背をただ追いかけるだけだ。
「鬼たちは本部隊と当たっているのでしょうか。我々の道にはいないようで助かります。俺は処理班で戦闘能力はありませんから。危険が迫ったらとにかく逃げる事です。いいですか?」
周囲の様子にも気を配りながら仁美を見ると、かつてのふくよかでおっとりした柔らかい印象とは別人のように痩せて疲れた姿があった。一刻も早く休ませたいという気持ちが高まった。
その時、仁美の後方からなにかが迫ってくるのを感じた。
「仁美様、何か来ます。」
千之助が仁美の腕を掴んで走るスピードを上げた。仁美の腕は本来の柔らかさではなく細く弱く、頼りなさを感じた。
「畠山仁美…見つけたよ。」
背後に迫る邪悪な気配から仁美を守ろうと間に入った千之助が、何をされたのか吹っ飛び、肉壁に背を打ちつけ悶絶した。
起った事が理解できぬ仁美がただ驚きと恐怖とで迫ってきたものを見ると、そこにいたのはカグヤだった。しかし体や首が妙に間延びして不思議なバランスに変化していた。
「カ…グヤ…さん?」
仁美が訊くと、やはりおかしなバランスで膨らんだ頭部の中心でカグヤの表情がにたっと笑った。
「みつけたよ、泥棒猫。」
仁美は覆いかぶされるような体勢のカグヤを見上げた。
「あの鍵はね、アンタに死んでもらうために渡したのさ。逃がすためじゃない。言ったよね?私、矢集のためにアンタは死ぬべきだって。まさか、まだ分からないのかい?アンタの存在が、矢集にとって悪しきものにしかならないんだって事が。疫病神でしかないんだって事が。」
呪の言葉を浴びせながら顔を近づけて来るカグヤに、仁美は目と耳を覆って隠れたい衝動にかられた。けれど、もう逃げ場はない。
「私が死ねば、晋さんは傷付きます。ですから、死ねません。」
仁美の言葉に、カグヤの顔が歪んだ。すると益々体が間延びして行った。すでに通常の価値観のバランスを越えていた。胴が異常に長い状態だ。
「な〜に〜、それ?まさか、矢集のために生きるって言うんじゃないよね?外の世界の酸いも甘いもな〜んにも知らない御譲様のお綺麗な愛ってやつじゃないよね?そんなんで傷付いた彼を救えるなんて思ってないよね?勘違いも甚だしいよね?冗談にしても笑えないよね?目障りだから死んでよ。」
カグヤの魔女のような手が仁美の首を掴もうと迫ると、どうにか守らねばと千之助が間に入った。しかし再び払われ近付く事もままならなかった。
「仁美様!逃げて下さい!」
逃げろと言われても、今ここでカグヤに背を向けた瞬間に殺されるとしか思えなかった。
「お…思っております。」
「あん?」
「引きこもりの私が、単純な愛情で、晋さんを助けられると、思っております。」
仁美はなけなしの勇気で限界のギリギリの啖呵をきって足を震わせた。
「何、今の。私に言ってんの?」
カグヤが冷酷な目で仁美を見た。
「肉塊は喋んなよ。」
声に怒気が含まれていた。それだけで死にそうな気がした。それでも何とか意識を保った。
「喋ります。私は、晋さんが大好きなんです!」
もう頭で考えるより先に言葉が口をついて出ていた。頭の中は恐怖によってまともに機能していない。そんないかれた回路を通すより先に口から出してしまった方が効率が良いのだ。仁美は緊張しすぎて目が回った。
「はぁ?聴いてねぇし。うざい。まじで、早く死ね!死ねよ!このクソ女!愛だの恋だの、そんなものは全部全部何もかも一片も残らず消えて塵になれよ、クソが!」
カグヤの言葉は全て仁美を通して別のものに向かって見えた。
「どうして、そんなに憎むんですの?」
仁美が問うと、カグヤはゴミを見るような目で仁美を捕え、その首を掴み絞めあげて行った。仁美は徐々に苦しくなりながらも、無抵抗のままカグヤを見ていた。
「どうして?嫌いだからだよ。愛を信じる女も、女を裏切る男も、大嫌い。この世に愛なんてありはしない。そんな幻の夢を見る奴は皆ただの愚か者だ。愚かな者は世界を汚すだけ。広元様のおつくりになる新しい世の中に、最も必要のない人間だ。」
「…愛されなかったから?」
仁美の問いが、カグヤの中の何かに触れた。
「あ?」
「御自身が愛されなかったために、そのようにおっしゃるのでしょう?」
「何言ってんの。死ねよ。」
「死にません。」
「うるせぇ、死ね。」
「…にません。」
「死ね。」
「…せん。」
「死ね。」
「…ん。」
「死ね。」
少しずつ首を絞められ、もう少しで脛骨が折れるのではないかと思った時だった。カグヤは頭の中で声を聞いた。
「貴方は愛されたかった。そうでしょう?」
カグヤは目の前の仁美を見た。仁美はただ首を絞められてもがき苦しんでいるだけだ。
「人を羨んでいるだけ。そうでしょう?」
周囲を見渡したが、仁美を離せと訴えてくる千之助以外に人も鬼もいない。
「求めた愛情を得られなかった霊魂の集まり、それが貴方?」
頭の中の声は、どこか肯定的で不快感がなかった。
「愛し合う者を殺しても、愛を否定する事にはならない。ただ引き裂いただけで、消えたりはしない。」
カグヤはゆっくりと手を緩め、仁美を離した。すると、声は目の前からした。
「他人の中で生まれた感情を、外的物理交渉で破壊する事は出来ない。そうでしょう?」
「アンタ…。」
「今まで、他人の愛情を殺す事で目の前から見えなくして、それで満足しましたか?逆に殺す事で永久保存してしまった事に憤りを覚えたのではありませんか?」
仁美の目はどこまでも心理を見通す説得力があった。
「こんな形で否定をしても、不快を極めるだけだと知っていながらも、やめる事が出来なかったのでしょう。」
何かに言わされているかのようにも取れる仁美の饒舌に、カグヤだけでなく千之助も驚いていた。
「お教えいたしますわ、カグヤさん。愛を否定したいのでしたら、御自身が誰かを愛すればよろしいのでございます。」
「は?何言ってんの?」
「そうすれば、愛などこの世にはないと知る事ができましょう。」
仁美は戸惑うカグヤの手にそっと自身の手を重ねた。
「感情も記号も定義も、全て人のつけた一つの可能性に過ぎませんわ。貴方が愛を否定するその感情こそが、愛だとも言えるのでございます。他人を殺したい程憎むこともまた愛で、傷付けないよう慈しむ事と大差のない事かも知れません。つまり愛はどこにでもあり、どこにもない。そういうものなのでございます。」
「なんだいそれ?なぞなぞかい?」
「自分にしか分からないもの、という事ですわ。自分があると思えばあり、無いと思えばない。誰の目にも見えず誰の手にも触れられないのですから。私が晋さんを大好きだと言う気持ちは、他の誰のものでもない、私の気持ちですわ。晋さんにだって見る事のできないものです。ただ私がそう申し上げるからそうだと知る、それだけなのです。そんな曖昧なものを否定してまわる事は全くの無意味ですわ。本当に否定したいのでしたら、ご自分の中に愛を見出し、それを否定すれば良いのです。」
「馬鹿馬鹿しい。私は誰も愛したりはしない!」
「いいえ。あると思えばあるのです。」
「ないったら!」
「あります。」
「ない!」
「では、やってみましょう。」
仁美の声と同時に、カグヤの目の前は様子を変えた。温かい光の中で、カグヤは小さな小さな新しい命となって母の腕に抱かれている。柔らかい感触、体温、心音、声、すべてがカグヤを大切に扱っている。優しい歌で体をゆったりとゆらし、まどろみの中で澱の無い澄んだ幸福感が生まれる。
「さ、否定してください。その気持ちは嘘だと。」
はっと気がつくと目の前は再びの魔窟で、仁美がまっすぐにカグヤを見ていた。
「私に幻を見せたのか?」
「いいえ。私は貴方の深層心理の中にある記憶を呼び起こしただけですわ。まったくのフィクションをお見せするには色々と手順が足りませんので。」
霊師としての仁美を甘く見ていた。地龍史上ただ一人、完成された霊師である仁美という術者を。
「これが、私の中にあったもの?」
「正確には、貴方を作るために集められた霊の中のひとつの記憶ですわ。残念ながらカグヤさん、貴方の主人格たる方の記憶を探し出す時間はありませんでした。しかしながら、貴方の中の多くの霊がこの記憶と同じような記憶を御持ちでしたわ。」
カグヤは信じられないと言わんばかりに唇を震わせていた。間延びした体が少しずつ縮み、硬化した肌が少しずつ剥がれていた。
「愛を信じる女、女を裏切る男、そう先程おっしゃいましたけれど、男女に限らず人の関係というものはあるのではないでしょうか?そしてその全てに愛の記号を与えても良いのではないかと私は思うのです。そうすれば、循環する多くに幸せを見つける事が出来るように思えるからです。」
「やめろ。」
「カグヤさん、貴方は愛情深い人。だからこそ鬼となったのですわ。」
「やめろ。」
「貴方は愛を否定したいのではなく、愛を否定されたのです。」
「やめて。」
「大丈夫、貴方の愛情は誰にも否定する事は出来ません。今も確かにそこにあります。」
「や…。」
カグヤの目から涙がこぼれ、その瞬間に剥がれ落ちた肌から瘴気の靄が霧散し消えた。体内から燃え上がるように瘴気の靄が噴き出し、空気中に溶けて消えていき、最期には何も残らなかった。
「死んだのですか?」
千之助が唖然として仁美に問うと、仁美は首を振った。
「どうでしょうか。元々亡くなっておられたので、次の輪廻に向かわれたのではないでしょうか?」
仁美は絞められた首を撫でた。遺体も残らず消えてしまったカグヤは、確かにここにいたのだと指先で確かめた。
「凄いですね。戦わず、鬼を倒すなどと。おみそれしました。」
千之助が驚きと感動を口にしながら先を促すと、仁美は黙ってそれに従った。
そして後にした魔窟の奥を振り返り、ひとりごちた。
「人の心を鬼にかえてしまうものとは、何なのでしょうか。晋さん、どうかご無事で。」
魔窟の奥から風鳴りがして、獣が吠えたように聴こえた。
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