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443 門前払の事

 今年最後の歌会は、古き雅の趣漂う御屋敷で行われた。

 「『泡沫(うたかた)』の編集作業は問題なく進んでいる。今年も恙なく発行し送る事が出来そうだ。」

さらっと言った惟継(これつぐ)の後ろで、受付をしている正意(まさおき)が酷いくまをつくった顔で睨んでいた。在仁(ありひと)はいい加減、『泡沫』の編集発行発送作業を正意がほぼ一人で担っていると察しているので、感謝と労いを込めた礼をとった。惟継に使われる身というのは大変そうだ。

 「それはようございました。『泡沫』は俺の楽しみでございますので。」

和歌愛好集団であるこの黄昏(たそがれ)会は、最低でも月に一回の歌会を開いている。歌会で公表された歌の中から、その年の秀歌を厳選し掲載した『泡沫』は受注販売だ。これまでは黄昏会員や関係する和歌好きが買うマイナーなものだったが、紫微星(しびせい)様が愛読すると知られてから、外部からの注文が増えた。刊行冊数は年々増していると言う。

 「在仁殿のお陰で、『泡沫』の売上も増えている。宣伝効果の神だな。」

満足そうな惟継の案内で、在仁は上座に座った。何だか主上にでもなったような席であるから、歌を捧げられる気分だ。惟継に誘って貰っている身であるから、この席は嫌だとは言えない。澄ました顔で座って見たが落ち着くはずが無い。

 「どれだけ売り上げが延びましても、黄昏会員は増やさないのでございますね。」

だが歌会メンバーたちは違和感を覚えないのか、在仁を敬うような品の良い微笑みで礼を取った。なんでやねん、と言うような在仁であったならば、端からこの上流階級の社交場である歌会には呼ばれまい。

 「黄昏会はまことの和歌好きのための集い。閉じた趣味人の楽園に、無粋な者を入れる事はせぬ。」

 惟継は黄昏会会長であり、黄昏会に関するすべての権利を持つ。かつては闇の社交場だった怪しい集団として暗躍していたらしい黄昏会は、今ではすっかり本物の和歌愛好集団。政治的な思惑はあれど、会員は骨の髄まで和歌を愛する本物だ。紫微星様目当てのミーハーや、情報収集目当てのスパイなどは、お呼びではない。ここには惟継の眼鏡に適う本物だけが出入りを許されているのだ。

いくら『泡沫』の売上が延びようと、会員は増えない。狭き門である黄昏会は、憧れの上流階級の遊び場だ。

 「とは言え、協力者には礼を払わねばな。」

 「うん?」

 惟継の言葉の意味が分からず、在仁は周囲を見回した。

 今日の在仁の護衛には北辰(ほくしん)隊武士勢。出入り口の外と中に二人ずつ。在仁のすぐ近くには稔元(としもと)佐長(すけなが)白蓮(びゃくれん)。そして同行者としてのばらも会話が聞こえる程、近くにいた。

そして会場にはいつもの黄昏会員たち。すっかりおなじみの景色の中に、すっと違う空気を纏った人がやってきた。

 「在仁殿。本日この会場の提供は、久遠寺(くおんじ)家だ。礼として、本日の歌会には、久遠寺家息女・百合絵(ゆりえ)様と、その婚約者・宗雅(むねまさ)を招いた。」

 紹介の声と同時にやってきたのは、宗雅と百合絵だ。品の良い和装を着こなした高貴な二人が並ぶと、まるでお内裏様とお雛様のようなお似合いの姿だ。

 「こんにちは。宗雅様、百合絵様。期せずして御目通り叶いまして嬉しく存じます。本日はどうぞ、よろしくお願い申し上げます。」

相思相愛の婚約者である二人に、在仁は微笑みを以て礼をとった。

 「こんにちは。本日は叔父上の招待により参じました。和歌には造詣があまりありませんので、本日は楽しみにして参りました。」

宗雅の丁寧な礼には、貴族っぽさがあって、歌会が良く似合った。そして傍らに背筋を伸ばして立っているのは、完璧令嬢こと百合絵様。今日も不動の完璧さを誇る美しい花だ。

 「こんにちは、紫微星様。こちらの建物は私の祖父の持ち物でございまして。そのご縁にてお招き頂きました。本来は入る事の出来ません黄昏会の歌会に参加できます事、まことに楽しみにして参りました。どうぞ、よろしくお願いいたします。」

揺らがぬ不動の微笑みをキープした百合絵は、何となく嬉しそうだ。宗雅と一緒に歌会参加というイベントが楽しいのだろうか。在仁の中ではすっかり相思相愛のラブラブ婚約者であるから、二人を見ていると微笑ましい。

 惟継はそんな事は全く知る由も無く、ただ普通に用意したビップ席を促した。

 何故か主賓席の在仁、主催として惟継、ビップゲストの宗雅と百合絵、という謎の並びは何だか近寄りがたい。

 「本日は、『泡沫』に掲載する秀歌を選ぶ会だ。今年読まれた多くの秀歌の中で、最も優れたものを投票で決めていく。普段の歌会よりもイベントらしいものであるから、気軽に楽しめよう。」

 「いつもの形式も古き雅を堪能出来て楽しゅうございますけれど、こちらの方が数多くの歌がございますから、お得でございますね。」

宗雅と百合絵に向かって柔らかく話しかけると、二人は頷いていた。

少し空気が温まったように感じたのか、会員たちが挨拶にやってきて、二人はそつなく受け答えていた。

 それを眺めながら在仁は不思議に思った。

 「宗雅様は普段はああいったお顔をなさるのでございますね。」

こそっと言うと、惟継が薄く笑った。今日の宗雅はニコリともしない鉄面皮だ。生来の高貴な雰囲気も相まってちょいと孤高感。在仁と話す時は、もっとフランクだし表情も豊かなので、別人だ。だがそれは当然。在仁と宗雅は個人的な友で、こうした公の場で宗雅がそんな顔をするはずが無かった。

 「隙を見せてはならぬと宗季(むねすえ)から教わったのだろう。俺のように、もう少し愛想があっても良いと思うがな。」

 「惟継様に愛想がございましたか?」

 「あるろう。ほら。」

多くの社交場を持つ惟継だが、愛想があるとは思わなかった。ほら、と言って見せて来る不敵な笑みは、なんだか取って食われそうであるから油断出来ない。

 「愛想と申しますのは、こういうものでございますよ。ほら。」

にっこり。在仁がお手本を見せようと微笑むと、惟継は一瞬びっくりしてから破顔した。

 「あはは、よせよせ。それでは愛想のレベルを超える。惚れられても知らんぞ。」

楽しそうに笑う惟継が、在仁の頬をひと撫で。在仁はくすぐったくて肩を竦めた。親愛を表すスキンシップに照れる在仁は、こういう時、惟継の気持ちを量りかねる。惟継はかつて、在仁を養子に迎えたいと言っていた。あれが本心ならば、我が子のように思ってくれていると言う事だろうか。素直にそう思うと、嬉しいけれど、やはり恥ずかしい。

 在仁と惟継がイチャイチャしていると、いつの間にか宗雅と百合絵が見ていた。

 「すみません。御見苦しいものを。」

 おじさん同士がイチャイチャしてるのなんか不愉快だよね。人目を忍んでやる事だ。や、人目を忍んだから怪し過ぎる。在仁の気まずい謝罪に、百合絵が微笑んだ。

 「いいえ。勉強になりますわ。」

 「なんの?!」

 「ああ、勉強になった。」

 「だから、なんの?!」

完璧×完璧の婚約者が何かを共有して学んでいるのが恐い。この二人、最初からずっと完璧さを崩さないので、睦まじさが感じられないのだが、どういうカップルなのだろうか。

 「けほ、けほ…。」

 何だかやっぱり怖いな。在仁の疑いをよそに、歌会の開始時刻となったのだった。


 ◆


 歌会後には、恒例の食事会が設けられた。

ここが久遠寺家の屋敷であるとなると、食事を振舞うのも久遠寺家という訳で。在仁がその事に気付いた時、本日宗雅と百合絵が招待されたのは、ひとつのお披露目だったのだろうかと思った。宗雅と百合絵は正式な婚約が成立したとはいえ、まだ公式の場に二人で出てはいない。おそらく平家内の新年祝賀会などが初のお披露目にあたるのだろう。

だが、二人の婚約に対して多少の反発があると言う話も耳にした。そうしたものの対処は既に済んでいるのだろうが、今後は二人の婚約関係をより広く周知して確固たるものとする必要があろう。

そう思ったから、惟継は歌会を利用したのではなかろうか。黄昏会員たちはインフルエンサーであるから、二人のゲストの事をあれこれと広めるだろう。在仁もしょっちゅう情報戦略に利用させて貰っているので、歌会発信の情報拡散力の凄さは知っている。今日の歌会で宗雅と百合絵が招待されたと言う事は、すぐに広まる。そして二人が婚約関係である事も。

ただ、それをする為には、理由も無く会員外の者をゲストに呼ぶ不自然を何とかしないといけない。だから今日の会場は久遠寺家から借りたのだろう。そして、その戦略の礼として、豪華な食事会を用意せよ、としたのか?

 在仁がそう思ったのは、目の前の膳がご馳走過ぎるからだ。

 「好きだっただろう。ウナギ。」

惟継のドヤ顔に、在仁は戸惑いを滲ませた。

 「ええ…。どなた様もお好きでございましょう?ウナギは。」

と言うものの、特上のうな重とすっぽん鍋の取り合わせはどうだろう。まぁ、他の物も色々と並んでいるが、二つのインパクトがえげつない。今日これから何かあるのか?それとも、黄昏会員のおじさんたちは精力不振に悩んでいるのか?

訝し気な在仁に、惟継はさらっと言った。

 「この所、調子が悪そうだ。力を付けねばな。」

 「ああ、俺の御心配を?痛み入ります。」

 確かに。先日、宗一郎(そういちろう)の術力圧にやられてから、ちょっと不調続きだ。大した事は無いのでだましだましやっているが、寒さが日に日に厳しくなる季節であるから仕方ない。そんな在仁を案じてこのメニューとは。見れば何かの肝とか、何かの卵とか、怪しげな珍味が並んでいる。ゲテっぽくて気味が悪くもあるが、在仁のために用意されたとあっては食べない訳には行くまい。白蓮も不思議そうに臭いを嗅いでいた。

 「随分と珍しい料理を用意したのだな。」

 「ええ。紫微星様の御体によさそうなものを探して参りましたわ。」

宗雅と百合絵が話すのを聞きながら、在仁は会話の感じが硬いような気がした。折角のお披露目であるから、もっとハッピーな感じとか、仲良さそうな感じを演出しても良かったのに。在仁と茉莉(まつり)のバカップルぶりまでとはいかずとも、政略婚の結びつきが強き事を示すために、ある程度相性の良さそうな姿を見せる必要はあろう。だが、鉄面皮と仮面笑顔の完璧カップルは、何だか偽装恋人みたいでもあった。在仁は二人の硬さはまだ不慣れ故だろうと思いつつ、食事に箸をつけた。

 食事会の話題は、いつも最初は本日の歌会についてだ。皆があれこれと歌について意見を交わして楽しそうにする。それがひとしきり終わると、段々と最近の話題に移っていくのだ。

本日の歌会は『泡沫』掲載に直結する重要なものであったので、皆が真剣に思う事を述べていて、それはまるで和歌研究家みたいだった。在仁は勉強熱心な会員たちの考え方を聞いて、とても関心を寄せた。結局、黄昏会員になろうと思ったら、この会話に平気で付いていけるようでなくてはならない。なかなか高いハードルである。

さしもの宗雅と百合絵も、この会話には全く歯が立たず、大人しく聞くに徹していた。確かに素人は置いてけぼりだ。この場にいる異分子である北辰隊武士とのばらも同じであるが、特に今回初参加ののばらは、白熱する和歌好きの会話に目を白黒させていた。趣味人がコアな話に熱を入れると、素人は面倒くさくなってしまいがち。のばらが和歌に苦手意識を持たないと良いけれど。

 「稔元様は、如何思われますか?」

 在仁は試しに後ろに座っている稔元に水を向けて見た。すると、稔元はにっこり微笑んだ。

 「紫微星様が参加するようになってから、歌の傾向が変わりましたよ。世の中の在り方や、人の心の美しい部分に希望を託すような、そうした澄んだ歌が生まれるようになりましたね。けれど、紫微星様は元は私のファンですから。もっと色のある歌を好まれるのではありませんか?それでいけば、本日の三番目の歌。あれは言葉の裏に、妙な色気が漂っていました。深読みすると別の意味にも思えて来る味わいがあり、なかなか楽しみ甲斐を感じましたね。」

 「おや。まことでございますか?俺はそこまで気が付きませんでした。是非とも稔元様のお考えをお聞かせください。」

やばい、ちょっと話しかけたら稔元節が炸裂してしまった。この人は元・歌会界の光る君。べつに黄昏会を除名された訳でもなく、いつも在仁の護衛として参加しているが、在仁なしでも参加権のある和歌狂いなのだ。独自の視点で切り込む稔元に、在仁は興味津々で、いつの間にか会員たちも稔元に注目。そこから更に話がヒートアップして、いつになく盛り上がってしまったのだった。


 ◆


 「けほ…。」

ちょっと盛り上がり過ぎた。在仁は興奮を抑えるようにお茶を飲んだ。

稔元の和歌好きは健在であったと分かり、会員たちも安堵して見えた。ただ、和歌好き以外の者たちの目が死んでいる。すまぬ、ここは歌会終わりの食事会。感想会兼勉強会みたいなものなのだ。

 だが、ひとしきり盛り上がって満足した会員たちは、そろそろ別の話を始めた。

 「そう言えば、惟継様は新しい商売を始められるとか。」

 「ああ、私も聞きました。何でも美容関係だと。」

 「宇治山(うじやま)家公認の美容薬を販売する予定だとか。」

一気に話が変わり、惟継に向けられたのは、みよの薬について。惟継はそれを待っていたかのように笑った。多分、自分で噂を流して、話を向けられるように仕組んでいたのだ。ここで話せば、口止めしない限りはすぐに広まる。それを狙っているのだから、宣伝戦略だ。

 「ああ。宇治山(こう)殿が有能な助手を雇ってな。その者の技術により、術力火傷痕を治す薬が開発されているのだ。現在は美容詐欺に遭い、術力火傷を負った者を対象に治験を行っている。順調にいけば来年度には、発売出来るつもりだ。」

 「さようでしたか。それは良い事ですね。美容と一言に言っても、術力火傷痕は男性に多い。酷いものは生活に支障を持つでしょうから、治るならば有難いでしょう。」

 「その所為で縁談に支障の出る者もありましょう。きっと需要があるでしょうね。」

 「司法局は美容施術を悉く詐欺と断じています。美容分野は独占市場ですから、一人勝ちですな。」

尊敬するような言葉には、羨望が込められている。だが、惟継は薬の発売のために、相当な初期投資をしている。三月までに司法局に名乗り出た美容詐欺被害者は、無償で治療を受けられるのだ。その治療費を、治験のための費用として惟継が全部持っている。こういう大胆な事は、そうそう真似出来るものではあるまい。惟継は大きく賭けて大きく儲けるタイプなのだろうか。在仁は金儲けのノウハウなど皆無なので、大きな金を動かす者たちの頭の中がさっぱり分からない。紫微星様はスーパーの特売に胸躍る庶民派なのだ。

 「そうそう。もしかして、鎌倉様の側近秘書の術力火傷を治した奇跡の薬って言うのは、それなのではありませんか?」

 「ああ!最近噂の?」

 「私は見た事がありませんが、元々は凄く酷い火傷痕で、顔形なんかまったく判別がつかなかったらしい。」

 「へぇ。それがすっかり良くなったと?」 

 「そうなんですよ。それがまた随分と器量が良かったもので。容姿を疎んじていた令嬢たちが、手のひら返して言い寄っているとか。」

 「そりゃあまたゲンキンだ。だが、見た目は大事ですからね。」

 「ですなぁ。鎌倉様の側近秘書となれば、上玉だ。」

 「清和源氏の血筋なのでしょう?問題が顔だけならば、縁談が山のように舞い込むでしょうな。」

 「いや。どうやら先代の鎌倉様が拾った戦災孤児だったらしく、鎌倉様の側近秘書という立場以外に身の証は無いとか。」

 「ほう。それは難儀な。ならばこれを機に良い後ろ盾家門を選ばれるがようございますな。」

皆が高速で話すのは、(かなめ)の事だろう。

在仁はこんな場所で盛り上がる程に話題となっていると知り、少々驚きだ。源氏界隈ならばまだしも、ここは京都だぞ。それだけに、術力火傷痕を治す薬は大きな話題性があるのだろう。

 「惟継様、どうせならばその者に広告塔になって貰えばどうですか?取材を受け、良き婚姻をされた成功例までを語らせますれば、薬の効果が単なる火傷痕を消すだけに留まらず、人生を明るくするという印象を持たれましょう。」

 「それは良い。ただでさえ関心を集めていますから、きっと注目必至ですよ。」

 「治験段階で使用しているのだから、モニターを依頼する仲なのでしょう?」

ああだこうだと販売戦略について夢膨らむ会員たちに、惟継は余裕顔で笑った。

 「それは良い事だな。鎌倉様にも多少の恩を売れようからな、依頼してみるか。」

 頼優(よりまさ)は要の火傷痕が消えた事を大喜びしているので、薬の支援をしている惟継に、多少なりに恩を感じている事だろう。要の顔出し広告を依頼すれば、嫌とは言えないのではないだろうか。在仁は何だか上手くやってんなーと他人事のように思った。

 にやっと勝ち組の顔をした惟継に、百合絵がそっと問うた。

 「惟継様、そのお薬はどの程度のお値段で手に入りましょうか?販売方法は通常のお店で?」

これまで、薬について話題はあったが、ここまで具体的な問いをしたのは百合絵が初めてだ。在仁も驚いたが、宗雅がもっと驚いた顔で百合絵を見ていた。

 「そうだな。量産の目途はまだ立たぬ故、具体的な事は決めておらぬ。だが、原材料は希少で、他に生産する事は不可能なのだ。そう安く売る事は出来ない。それに、類似品や粗悪品などの詐欺対策も必須だ。あまり簡単に手に入るようでは、商品価値を下げ、また詐欺の的になりかねぬ。俺の希望としては、医療機関で取り扱わせて、処方箋による購入をと思っている。」

薬の主原料である毒空木は、紅の庭にしかない。紅が許可せねば量産は出来まい。つまり大量に製造してどこでも買えるような物には出来ない。

 「幸い、紅殿の弟、宇治山(そう)殿が薬の認可を取ってくれている。あれは副作用の無いものだが、きちんとした医療術者に処方されるという安心感には代えがたい。安全で信頼できる方法を模索し、販売するつもりだ。」

金儲け最優先だったら、とにかく量産してとにかく売れと言うだろう。だが、惟継は多少時間と手間をかけても、安全と信頼を最優先でと示した。それは独占市場が成せる落ち着きと余裕に思われた。

 「それはようございました。女性にとってあざは大きな問題でございますもの。どなた様とて、お金をお支払いする以上は、絶対の保証が欲しいものでございますわ。どうか、御誠実な御取り扱いを頂きたく存じます。」

百合絵の女性代表のような言葉に、在仁は感銘を受けた。

お金持ちのお嬢さまが、金額や支払いに目を向け、それ相当の効果を要求するのは、意外だった。思ったより地に足のついた価値観を見せた百合絵に、宗雅も深く頷いた。

 「確かにその通りだ。もしそのあざを詐欺で負ったとなれば、被害者は薬に懐疑を持っているだろう。一度傷付いた者を、更に傷つける事があってはならぬ。」

被害者に寄り添う宗雅の優しい発言に、今度は百合絵が目を見開いた。在仁はその大きな瞳を、不意にしっかりと見てしまった。油断した在仁は、百合絵の中に溢れる強烈な感情の放出を感じた。その感情の全てが宗雅へ一直線だ。何とも驚くべき熱愛であるから、在仁はびっくりした。

 「けほ…。」

 これは…在仁が想像するよりもずっと、百合絵は宗雅を好きなのかもしれない。ちょっと愛の重さに引いた在仁は、共感しそうになったのを誤魔化すように俯いた。

 やばい。知れば知るほど面白カップルかも知れない。妄想捗る気配を感じた在仁は、この事は胸の内に仕舞っておこうと決めたのだった。


 ◆


 ピンポーンと鳴った玄関のインターホンは、何だか痺れるような不気味な音が混じっていた。古くて不調と分かる音の余韻を聞いていると、玄関扉の向こう側に気配が。

 「どなたですか。」

迷惑そうな女の声は、ボリュームが小さいが、確かに来客を拒んでいる。

それをありありと感じながら、(みさご)は言った。

 「日下(くさか)と申します。」

 「…日下…。」

ここは九州だ。九州で「日下」と言う名前はタブー。かつて日下家は汚職で廃されたからだ。その名を堂々と名乗る鶚に、声は戸惑いを滲ませた。

 「何か用ですか?」

 「貴女が(やぐら)虎太郎(こたろう)殿の戸籍上の母親だったと聞きました。お話を伺えませんか?」

 そう、この扉の向こうの女性は、櫓藤十郎(とうじゅうろう)の使用人で、虎太郎を戸籍にいれていた者。先日浩然(こうぜん)が先に訪ね、その件を問うた所、女性は扉越しに、虎太郎は藤十郎と正妻の子であり、自らの戸籍に入れていたのは頼まれたからと答えたと言う。だがそれだけで、何も話す気は無かったと。

 当時の櫓家に関する事を知っていそうな人物はこの女性のみであるから、鶚はやはり直接話したいと思い、やってきたのだ。自分ならば聞き出せるなどと自惚れていはいない。ただ、女性がどういう者なのか感じたかっただけだ。

扉越しに女性の反応を伺っていると、女性は小さく言った。

 「櫓家の財産目当てですか?」

 「え?ああ…確かに日下家は櫓家の遠縁です。ですがもう廃されて久しい。相続する筋合いなどありませんよ。」

日下家は櫓家の遠―い親戚だが、いくら何でも相続権など巡って来ない。どのみち日下家はもう無いのだ。鶚はいつまでも日下姓を名乗っているが、戸籍上は司法局局長・富樫(とがし)(さかえ)の養子であるから、富樫鶚と名乗るが正式名となる。だからもう縁故は無い。浩然も結城(ゆうき)家に引き取られ、結城浩然と名乗っているのだ。

 「では何故…。蔵を開くためですか?」

 「いいえ。当時、櫓家に何があったのか知りたいのです。教えて下さいませんか?」

扉越しでは鶚の黒服の効果は無い。ただ誠意を以て言う鶚に、女性は答えなかった。

 「虎太郎を戸籍に入れたのは、藤十郎殿に頼まれたからと聞きました。虎太郎は藤十郎殿と正妻の子だったと。では貴女は何者ですか。貴方は、藤十郎殿の愛人では無かったのですか?」

少し侮辱っぽい側面を撫でる鶚に、女性は嫌々に言った。

 「私は、虎太郎様の乳母でした。虎太郎様をお育てしたのは私です。」

 「…乳母、そうでしたか。」

藤十郎が雇っていた使用人の女は、虎太郎の乳母だったのか。鶚が反芻した時、女性が扉を叩いた。

 「もう、来ないで下さい。既に私は櫓家とは関係ありません。何も、話したくないんです。」

 そう言ったっきり、女性は扉から離れて行ってしまった。

確かに浩然の言う通りの門前払いだ。だが、一回の訪問につき、一個の新情報は得られている。取り付く島が無いと言う程ではないのか。

鶚は時計を見て、踵を返した。また訪ねる価値はありそうだ。

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