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441 変遷の事

 十二月が折り返す。年末に向けて加速度的に体感時間が流れていく。在仁(ありひと)は年の瀬というものが毎年忙しないのは、どうしてだろうかと思う。あれこれとやり残しを探している内に、ばたばたと年を越していくのは不可避だろう。

 それでも礼だけは欠く事は出来ない。

 本日の在仁は平家へ年末のご挨拶へ。

 惟継(これつぐ)の案内で通された大きく上等な和室では、宗季(むねすえ)が難しい顔で待っていた。在仁は宗季の神経質そうな顔をデフォと思っているが、実の所、宗季のこの表情の原因は在仁への苦手意識である。惟継は宗季のこの顔を見ると笑いそうになるので、堪えるのが大変だ。

 「本年もたいへんお世話になりました。」

 在仁の丁寧な挨拶に、宗季は端的に返した。

 「こちらこそ。たいへんお世話になりました。」

定型の挨拶を終えると、宗季がお茶を用意させた。

 テーブルには、在仁、茉莉(まつり)北辰(ほくしん)隊武士、惟継、のばら。

宗季は黒服ののばらを見て言った。

 「司法局から派遣されたのは女性でしたか。」

 その言葉に、のばらの眉がぴくっとした。在仁はちょっと身構えた。惟継がのばらの性別に言及したら、かみつくような態度をしたので、のばらは女性と言われるのを良く思わないのではないか。地雷か?在仁の不安をよそに、宗季は指先で眼鏡位置を整えた。

 「日下(くさか)が配したのですから、能力は間違いないでしょう。ただ、紫微星(しびせい)様の元には有能な女性が集まるように出来ているのでしょうか。そうした女性は探してもなかなか見つからないので、羨ましい事です。」

あれ。何か方向性が違うな。在仁が首を傾げると、茉莉が訊いた。

 「有能な女性が欲しいんですか?」

 「そうですね。女性と男性とでは脳が違いますから。必要な場はいくらでもありますよ。ただ、多くの女性が古い型に嵌っているので、見つかりません。」

 「そんなの型に嵌ったフリをしているだけですよ。女は賢いので。」

得意げに笑った茉莉は美しいが、茉莉にそんな器用さがあるとは知らなかった。在仁が「へぇ。」と言ったら、腕をつねられた。暴力は反対である。イタタ、と身を捩ったら、視界にのばらの微笑みが映った。怒ってなくてよかった。

そのほっとした在仁の表情を、惟継が見逃していなかった。

 「先日アレから在仁殿を守ったのは、白鳥(しらとり)殿だった。実に有能だ。」

アレとは元・長宗我部(ちょうそかべ)(まさる)の事である。在仁が勝と衝突しそうになったところを、のばらが撃退してくれたのは、思い出してみると格好良かった。武闘派女子に囲まれて、虚弱男子は実に安心だ。在仁の視線がのばらへの称賛になったところへ、宗季が言った。

 「アレが迷惑をかけたようで、申し訳ありません。」

アレは現在、平家四神(しじん)大隊所属。平家主力部隊員が粗相をして申し訳ない、というのは平家当主として当然の言葉。だが、在仁はそれを筋違いのような気がした。

 「いいえ。とんでもございません。元はと申しますれば、俺が平家に押し付けましたようなものでございます。」

 「まさか。そんな間接的な荒業で謝られるのは間違いです。そうおっしゃるならば、四国の復興遅延を放置していた我ら平家が原因でしょう。それを含めましても、紫微星様には頭が上がりません。」

勝が茉莉に情夫を差し出した事に激怒した、という理由で、四国の復興全権を平家へ献上させたのは在仁だ。その中で勝が廃嫡となって追放された。だから全部在仁の所為、と言おうとしたのは無理筋だった。根本的に全部、平家傘下の出来事だ。結局宗季が謝るのが筋。在仁は宗季を守ろうと思ったが、方法は無さそうなので諦めて尋ねた。

 「けほ…四国の復興は如何でございましょうか?」

 「ええ、これまでが嘘のようにスムーズに進んでおります。この調子であれば、予定より早く終わる事ができるかと。」

 「それはようございました。四国は四国御家門様のものでございますれば、故郷の運営をお返しするまでが、復興でございましょう。」

 「その後の事がどう運ぶかも頭の痛い所ですが、精々紫微星様の御手を煩わせる事の無いように努めます。」

四国は元々、覇権を争う小競り合いを続けていた。復興が終わったら、ファイト再開だろう。それを想像すると辟易とする宗季だが、それが原因で在仁に迷惑をかける事だけは出来ない。もう平家の問題を世話して貰うのはアウトだ。地龍様の減点が入っては、家格順に影響が出る。統治家門に統治力が無いと判断される訳にはいかないのだ。

 宗季の難しい顔に、惟継が問うた。

 「して、アレはどうした?」

 「(ぼう)に入れてある。」

房とは、懲罰房とかそういう?在仁は牢屋のような場所を想像して背筋がぞっとした。やり過ぎでは?

けれど、皆はそんな罰を全く無意味と思ったのか、懐疑的に言った。

 「ちょっと閉じ込めたくらいで反省なんかしないわよ。」

 「あの手のタイプは反省という機能を搭載していない。」

 「返って暴れるんじゃないですか。」

勝が簡単に変わるはずが無い。それは誰もが分かっている事だ。在仁は苦笑すると、冗談めかして言った。

 「いっそ六波羅探題(ろくはらたんだい)にでも売ってしまえばようございましたね。」

六波羅探題は地龍イチの厳しい部隊。木曽のお猿さんも六波羅探題送りにしたので、ついでに長宗我部の若様も送ってしまえば良かった。そうしたら少しは痛い思いをして大人しくなるかも。そんな強引で出鱈目な想像をした在仁を、宗季が物凄く嫌そうな顔をして見ていた。

 「申し訳ございません。」

六波羅探題は源氏の部隊なので、平家に言うのは角が立つジョークだったか。在仁の謝罪に、宗季は首を振った。

 「出来るだけ厳しくするように命じましょう。」

六波羅探題送り相当の厳しさがどのようなものか知らないが、そうと言われたらやるっきゃない。折檻してしごいて、虐めて罵倒して、叩きのめしてやれば良いんでしょ。眼鏡の奥の目が恐い。在仁は自分の所為で勝の待遇がとんでもない事になりそうで、慌てて言った。

 「いえいえ、冗談でございますから。それに、勝様があのような御方でございますのは御育ちによるもの。根本的なものでございますから、どれ程の力技を使われましても、そう簡単に変わる事はございませんでしょう。」

力で屈服させるのは一番単純だが、易くは無い。勝のために、それをするための人員を割くのも馬鹿らしい。武士たちだって暇ではないのだ。本来なら勝など捨て置けば良い。そう思うと面倒くさい。惟継は、小癪だなと思った。

 「あれをのさばらせて育てた長宗我部が悪いのだ。」

全部それだ。木曽のお猿さんもそれ。どこの馬鹿もだいだいがそれだ。だが、育ちに原因があるのは更生が難しく、一番厄介でもある。

 「勝様はもう成人なさっておられます。まだお若いとは言え、今更になって生き方を変えられる事は大変でございます。それは自己否定でございますから。これまで培ってこられた価値観を全て否定し壊し、そして新たな価値観を学ばねばなりません。とても苦しく、困難な事でございますよ。」

勝の価値観はまるで賊だ。男は強いのが偉く、女を多くかこってこそ箔がある。家門を率いる資質は強さであって、頭脳ではない。強ければ全てを手にする。そんな価値観を全部壊して、新しい価値観を持つなんてのは、正直生まれ変わる事であるから、無理とも思える。

 惟継は完全に勝を落伍者とばかりに吐き捨てた。

 「戦時中ならば、都合よく暴れる事が出来、ついでに存在理由も証明出来た。だが、終戦後はあれではいかんだろう。家門を率いる者は、時勢を読み柔軟に変化し時代の流れに乗って行かねば。」

一般武士ならば、主の采配に従って生きていれば良かろうが、家門当主たるものそうはいかない。家門を存続させ、そして繁栄させねばならないのだ。勝にはそういう力が無い。

 「とは言え、そこまでは強くないっすよ。」

つい口を挟んだ(すばる)に、皆が「まぁな。」と濁した。そうなのだ。勝はそこそこ強いが、それまで。本当に強い者たちのカテゴリーでは、大した事の無い実力だ。

これで最強に匹敵する程に強ければ、勝の傲慢な価値観も貫き通せたかも知れない。平宗一郎(そういちろう)がそうであるように、強く立場と人望があれば、多少人間性に問題があっても、社会的な地位は確保できる。だが、勝は残念ながらそうでは無かった。世の成功者たちが努力をして身を立てているのに対して、社会性の欠如した傲慢な勝が、そんな必死に努力するとも思われない。

あの宗一郎ですら、変わろうと努力している。成功にも、変わる事にも努力が必須だ。それを厭う者は、何もかもが詰んでいる。

 「では絶望的だな。」

 だったらもう勝は更生出来ない。残念でしたー。終了してしまった宗季の思考に、在仁はやんわりと否定をした。

 「いいえ。思いますれば、勝様は今まで、なかなか思う通りに参りませんでした。想う女性には相手にされず、その後のご縁談も逃げられました。御家臣様方からの御信頼を得られず、戦時中も軍議にすら招集されませんでした。長宗我部家本家直系御嫡男の御立場だけが、勝様をお守りになるものの、どなた様の御忠心を得る事適わず、歯がゆい思いをなさった事でございましょう。そうした人生の中で、勝様もきっと、原因がご自身にございますものと、どこかで思っておられるはずでございます。それをお認めになられ、変えていく事が出来ますか否か、それは勝様次第でございます。」

 宗季が在仁の清き心に触れて、バツの悪そうな顔をした。宗季は在仁と話していると、自分が悪人に思えて居心地が悪いのだ。

 「ずっと目を逸らしているのではないか?その方が楽だ。」

誰もが正しく生きられる訳ではない。在仁の綺麗事を否定しようとすると、在仁は清廉に微笑んだ。

 「さようでございましょうか?現状は勝様に厳しゅうございます。これからも自尊心を守り、間違いから目を逸らし続ける事は、たいへんな忍耐が必要でございます。楽をお選びになられるのでございますれば、お早く根負けなさるが賢明でございましょう。」

性善説を説くような在仁の言葉に、宗季は肩を竦めた。

 「武士は潔いものでございますよ。」

そう言った時、在仁の仲間たちの背筋が伸びたように見えた。在仁の信頼する姿たらんと皆が思っているとすれば、在仁の信頼が武士たちを正しく導く。宗季はこれぞ紫微星か、と改めて納得した。

 「さようですね。」

この光を見失った者は、時代に振り落とされる。宗季は在仁を直視して、無理矢理笑ったのだった。


 ◆


 宗季への挨拶を終えた在仁は、皆で廊下に出た。

惟継の案内で転移扉に向かう。道すがらは既に仲間内だけのラフな集団となる。

そこに、のばらが言った。

 「先程の紫微星様の御意見、とても得心が行きました。」

 「へ?」

先程は勝の話題以外にも、司法局の家門内立ち入り調査などの話題もあった。クリスマスや年末年始の予定を尋ねれば、司法局対応による家門内調整などに追われてスルーしそうだと言っていた。

在仁はのばらが指した話題がどれか分からなくて、きょとんとした。そこに、茉莉が言った。

 「四国の馬鹿様の事じゃないの?」

 「しこくのばかさま…。」

なにその呼び方。うける。在仁が茉莉を見ると、のばらが嬉しそうにした。

 「そうです。あの馬鹿者の事はどうでも良いのですが、人が更生するためには、全ての価値観を壊して生まれ変わる必要があると言う事です。私、前はやんちゃだったので、物凄く理解出来ました。」

 「ああ、日下様にカツアゲして捕まったんでしたっけ?」

茉莉がさらっと言うと、在仁はじめ他のメンバーが、触れて良い話なのか?と疑問の目。のばらはどこに地雷があるか分からないのが少々恐い。勝に対する荒々しい姿は結構衝撃的だった。ちょいと取扱い危険物的な要素を含むのばらに、在仁がそっと警戒を滲ませると、のばらは屈託なく笑った。

 「そうなんです。日下部長との出会いが、それまでの私の全てをぶっ壊しました。そして私は生まれ変わったのです。」

まぁ、元ヤンからの司法局員だからね。生まれ変わったのでしょうよ。

全員がさもありなん、と思っていると、茉莉も屈託なく笑った。

 「分かります!私も、在仁に出会って生まれ変わったので!」

キラキラした目をさせた乙女が何故か良き理解者を得たような態度で見つめ合うのを、在仁はちょっと不思議に思った。

 「俺は生まれ変わったけど、茉莉は生まれ変わってないでしょ。」

 「そんな事ないよ。在仁と出会ってなかったら、こんなに真面目に生きてないもん。」

腕に絡みついて甘える茉莉を、在仁は可愛くなってしまう。だが胸の内では、茉莉はいい子だからきっと俺と出会わなくても真面目に生きてただろうな、と思った。

いちゃいちゃする夫婦を見ながら、(あずま)も自分の過去を思い出した。元ヤンが更生するのがなかなか大変なのはよく分かる。けれど、東を更生させたのも夜鷹(よだか)との出会いであり、不可避の強制力だった。出会ってしまったが最後、変わらざるを得ないのだ。

 「ま、そういう運命が巡るなら、あの馬鹿様も変わるかもね。」

 東は独り言ちた。人を変えるのは人だ。

 何となく沈黙が落ちたのは、東の声が聴こえていたからだろう。数メートルそのまま黙って廊下を行くと、後ろから声をかけられた。

 「紫微星様。」

 ふり返ると、そこにいたのは宗雅(むねまさ)だった。

 「宗雅様。」


 ◆


 在仁が宗雅との再会に嬉しそうにすると、宗雅は微妙な微笑みで近付いてきた。在仁を探して追ってきたように見えるので、何か用事だろうか。在仁はふと、宗雅に前回会った時の事を思い出した。それは婚約者・百合絵(ゆりえ)とどうやって仲良くなるか、と言う可愛らしい恋愛相談だった。宗雅から敢えて声をかけられるのだから、その事だろうか、と思った在仁は仲間たちにジェスチャー。ちょっと話すから先に行っていて、と。

仲間たちは在仁の護衛であるから、在仁から離れる事は無い。だが、宗雅とこしょこしょ話したいようなので、少し距離を取った。

 在仁はそれを見てから、宗雅に向き直った。

 「どうなさいましたか?」

問われた宗雅は、別段隠し立てするつもりが無いのか、そう小さな声でもなく言った。

 「紫微星様の助言を参考に、私なりに努力しているつもりだが、今一つ手応えが無い。」

その言葉は、百合絵と仲良くなるために努力しているが、進展が無いと聞こえた。在仁は首を傾げた。それはおかしい。だって昨日、毛利家へ行った時、寿々(すず)は宗雅と百合絵は相思相愛で仲良くやっていると言う感じの事を言っていなかったか?在仁はどこかに齟齬があろうかと思い尋ねた。

 「手応えでございますか?なれど、宗雅様と百合絵様は相思相愛ではございませんか。何か問題がございますか?」

想い合う二人の政略結婚は既に恋愛結婚じゃないか。何の問題があろうか。在仁の問いに、宗雅がきょとんとした。

 「相思相愛?何を申しておる?」

 「え?百合絵様は宗雅様に一目惚れなさっておられると伺いました。宗雅様も百合絵様を想うておられるのでございますから、両想いではございませんか。」

寿々は百合絵の友だちであるから、嘘や噂ではあるまい。宗雅の気持ちも前回聞いたのだ。二人が両想いなのは確定事項だろう。在仁の意見に、宗雅は首を左右に傾げてしまった。

 「ひとめぼれ…?冗談だろう?百合絵と初めて会ったのは子どもの頃だ。」

 「それは長い恋でございますね。百合絵様は一途なのでございますね。素敵な事。」

へぇ、そんなに長い間宗雅を好きだったのか。さぞ君崇(きみたか)の婚約者候補の身は辛かっただろうな。在仁が改めてこれは良縁だと思った。

微笑む在仁の落ち着きに、宗雅はとっても大事な事を確認した。

 「つまり、百合絵は私の事が好きなのか?」

 「ええ、そのように伺いました。百合絵様は大変嬉しそうでございましたし、最近はそこかしこでご婚約をご報告なさっておられるとか。浮かれておられるのでございましょう。お可愛らしい事でございます。」

寿々がそう言っていた。在仁が寿々という情報源を信頼して言うと、宗雅は念押し。

 「まことか?」

 「ええ。ようございましたね。」

念押しする顔が、何だか明るい。嬉しそうな宗雅に、在仁は笑った。可愛いー。最近本当に可愛げが無くなったと思っていたが、ちゃんと可愛い宗雅が残っていてくれて良かった。これならば十分に推せる。

 「ああ。良かった。」

破顔した宗雅の素直な言葉に、在仁は嬉しい気持ちになった。

 在仁はそこで、宗雅に黙るようにジェスチャーをしてから、廊下の後ろの方をそっと指さした。宗雅が何だろうとチラっと除くと、廊下の角に誰かがいる。在仁が口パクで「百合絵様」と言うと、宗雅が驚いた顔をした。実は、在仁は気配でさっきから百合絵が覗き見ているのに気付いていたのだ。そして在仁は宗雅の背を押して、百合絵の方へ。

 宗雅に手を振って、「頑張って」と口パク。宗雅は会釈をしてから、そちらへ向かった。

 在仁はそれだけで踵を返し、仲間たちと合流して歩き出した。興味はあるが、無粋だ。

 「見届けないの?」

茉莉が問うと、在仁は首を振った。

 「大丈夫。」

 あの二人は両想いだから、大丈夫なのだ。ああ、好きな人と一緒になれる事は、奇跡のようだ。きっと繚乱であっても、この奇跡は起こせまい。在仁は世にこのような奇跡が溢れたら、どんなに素敵だろうと思った。愛溢れる世界は、さぞ美しかろう。

けれど、のばらを見ていると、恋をする者もまた美しい。懸命に生きる力が漲っていて、輝いている。汚れなく人を愛する心があれば、そこに光は灯ろう。星影たちが恋をすれば、きっと世はまた一段と美しい。

 在仁は想像しながら茉莉と手を繋いで、転移扉に向かったのだった。


 ◆


 十二月の風が吹き抜けて、(みさご)は盛大なくしゃみをした。

 「風邪か?」

訝し気に問うたのは、実兄・浩然(こうぜん)だ。

 「いや。いつもの事だ。」

鶚はどうでも良さそうに言った。そう、いつもの事だ。どうせのばらが噂でもしているのだ。心当たりのある鶚は、さらっと流して目の前の蔵を見上げた。

 九州にある伝説の開かずの蔵、(やぐら)家の蔵はまるで象でも飼うような大きさだ。なるほど、この中に結城(ゆうき)家を凌ぐ財が収まっている訳だ。曰くと伝説に人々の好奇心が乗っかって、既に真偽不確かな話が飛び交って久しい。

 だがその中に、櫓家当主・亮厳(りょうげん)翡翠眼(ひすいがん)を所持していたと言うものがあるとか。鶚はその真偽を確かめる為に、わざわざやってきたのだ。

蔵には土埃が溜まっている。もう随分と誰も触れていない。伝説の開かずの蔵と呼ばれるまでには、幾人もが開こうと試みたのだろうが、今では誰も試しもしない。開かずの蔵は、開かないから夢があると言い訳をして諦めたのだろう。

 「まさか、このような噂話でお前が釣れるとなは。」

浩然が冗談めかして言うと、鶚は鋭い目を向けた。

 「紫微星様ももう三十年余り昔の事として価値は無いと考えているようだった。確かに亮厳が所有していた翡翠眼が蜻蛉(かげろう)であったかは確かめようも無いが、そうとして仮定し、変遷を整理する価値はあると考えた。蜻蛉の過去の動向を追う事で、行動や思考の傾向が見えるやも知れん。」

鶚はそうやって鴎音(おういん)を追っていた。それが鶚のやり方だ。だが、それは飽くまで人間相手の捜査方法だろう。浩然は鶚の正気を疑った。

 「相手は呪いだぞ?」

 「だが自我がある。思考、思想、感情、すべて人と同じだ。ならば通常の捜査が通用するはずだ。」

そう言われて見ればそうなのだろうか。ならば心あるものは全て同じ捜査で紐解けると?浩然は鶚のある意味平等過ぎる思考に、感心した。男女どころか、人も呪いも同じとは御見それする。

 「そ、そうか。」

実弟ながら何を考えているやら。浩然は端から異人種と思っているので、適当に相槌を打った。だが鶚はそんな浩然を意に介さずに言った。

 「囀漠寺(てんばくじ)の手記によれば、かつて蜻蛉は京都は長老会の倉庫に潜んでいた。もし仮に、櫓亮厳が所持していた翡翠眼が蜻蛉ならば、亮厳が当主になった約六十年前には、蜻蛉は九州にいた事になる。野分(のわき)が長老会に庇護されるようになったのが、丁度その頃だ。野分と蜻蛉はニアミスしていた事になる。そして三十年程前、櫓家が滅んだ。その後、京都から紫微星様の故郷へ運ばれているため、一度京都に移動したのだろう。そして福島を出たのが十九年程前。鷹司(たかつかさ)(まゆみ)殿が兵庫の蘿蔔(すずしろ)家を探っていて翡翠眼を持つ男に出会ったのが、おそらく十七年前だろう。そして香川の(つるばみ)家で佳代(かよ)が翡翠眼を見付けたのが、十三年ほど前。その後は、密売組織や、難民を集めた晦冥(かいめい)教拠点の祭壇、呪術画の事件など、あらゆる場所で目撃されている。」

櫓家を含めると、ざっとこんな変遷で移動している事になる。鶚が語る年表に、浩然は「ふうん」と頷いてから言った。

 「なるほど。身軽に動けるものの、長期間潜伏する拠点を持っている訳だ。」

翡翠眼は各地で目撃されているので、実の所は相当に身軽に動けると想像される。ただ蜻蛉は弱き呪いであるから、そう長時間活動出来るとも思えず、また大きく力を使う事も出来まい。そのため、英気を養い眠るための安全な拠点が要る。それを複数用意した上で、あちこちと神出鬼没に動き回っていると言う訳だ。やはり警戒心の塊だ。

 「ああ。それも複数な。おそらく今回も、複数持つ拠点のどこかに潜んでいるのだろう。」

山梔子(くちなし)家の事件以降、蜻蛉は姿を見せない。救済院に絡む呪術工房案件でも、関係者は誰も翡翠眼を目にした事が無かった。山梔子家で在仁とやりあって、相当に削られて弱っているはずであるから、どこかに潜み眠っているはずだ。その拠点があるはず。

鶚は、蜻蛉がどういった場所を拠点に選ぶのか、その傾向を知れば近付けるのではと考えているのだ。

 そのために、浩然に連絡を取った。 

 「櫓家について、調べてくれたか?」

鶚が問うと、浩然は頷いた。

 「私も実際に調べた事が無かった故知らなかったが、櫓家の悲劇はこれまで知っていた話とは随分と違うようだ。」

 「得てしてそう言うものだ。」

人の噂など所詮はそんなもの。鶚の肯定に、浩然は納得してから言った。

 「櫓家の悲劇は、後継者・藤十郎(とうじゅうろう)の死を発端としていると言われているが、実際に調べてみると、それ以前から血縁の不審死が立て続いている。特に亮厳の子は、男子が悉く死んでいて、残ったのは末の藤十郎のみだ。」

 「ほう。死因は分かるか?」

 「いや。そこまでは。関係者がいないからな、公的書類で分からない事は憶測に留まる。」

櫓家は皆が死んでしまったとされる。三十年前の事を知る者などいないのだろう。残念そうにする鶚に、浩然は付け足して言った。

 「だが分かった事もある。藤十郎の死後に突然登場する謎の男子・虎太郎(こたろう)。虎太郎は亮厳にそっくりで、亮厳の子として後継者に任命された。だが虎太郎の、戸籍を追跡した結果、これは藤十郎が雇っていた使用人の子だった。」

 「ほう。つまり藤十郎の愛人の子である可能性が高いと?」

 「書類情報だけで単純に想像すれば、おそらくそういう事だろうな。藤十郎が死に、その子息を亮厳が引き取って後継者に据えた、とすれば順当な跡継ぎだ。正妻の子ではないが、藤十郎だって繰り上がり当選した妾腹だからな。気にしないだろう。」

 「まぁ、そうか。」

 側室妾愛人、そういうのは今も多いが、昔はもっと多かった。亮厳にはさぞ多くの女がいたのだろう。だから相続争いが起きたとも言えるか。

 考え込むように腕を組んだ鶚が、蔵をじっと見上げてから、浩然に言った。

 「兄さん、悪いがもう少し調べてくれるか?」

 兄さん、そう呼ばれたのは久しぶりで、浩然はドキッとした。

 「ああ。もちろんだ。」

冷たい風に吹かれて転がる落ち葉が、蔵の無機質な壁に阻まれた。吹き溜まりに蓄積した落ち葉のように、時に埋没した真実が朽ち果ててしまったのだろうか。浩然は、鶚はそれをすくいあげようとしているのを感じたのだった。

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