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435 仲直の事

 「で、何でウチに来た?」

 南木(なぎ)は思いっきり面倒くさそうに言った。

 目の前にいるのは、項垂れる蘇芳(すおう)在仁(ありひと)。二人ともが、同じ理由で妻に浮気を責められたと言う。

 「家を出て来たところで、行き場が無いんだ。」

 「同じく。」

十二月の寒空の下、家出したとて、蘇芳は職場以外は南木の所しか行き場がないと言う。南木は厳密にはそんな事あるまいと思うものの、まぁ良いかと理解。だが、在仁はおかしいだろ。この博愛の聖人は日本中どこにでも頼る先がある。何でここに来たんだ。

 「蘇芳クンはいいけど、葛葉(くずのは)クン、ふざけてんの?」

 「ふざけておりません。どうして俺にだけ冷たいのでございますか?」

泣きそうな在仁を連れて来たのは(すばる)だ。色恋を知らぬ昴は、蘇芳が一緒なのを確認して帰った。ちなみに鵜流(うりゅう)は工房に籠っているらしい。

 「だって葛葉クンを保護してくれる人なんか、いくらでもいるでしょうよ。」

 「この状況でございますよ?茉莉は怒り心頭で話を聞いてくれません。お兄様は元より茉莉の味方でございますから、藤原本家に居場所などございませんよ。お父さんとお母さんの元には真珠(しんじゅ)がおりますし、真珠に情けなき姿を見せられません。わざわざ他家に身を寄せるのは、恥を晒す行為でございます。蘇芳様もこの通りでございますし。結果、行く宛てはそう無いのでございますよ。」

 「まぁ、良いけどね。ボクに迷惑かけないでくれるなら、泊めてあげるよ。ただ、どっちの奥サンも本気じゃないと思うから、早く帰って謝る事を推奨するよ。」

南木と鵜流の家は広いので、いきなり男が二人転がり込んで来ても問題はない。だが、夫婦喧嘩の避難場所というのは些か問題だ。南木まで巻き込まれたくはないものだ。

 「と言ってもな、取り付く島が無いんだ。むこうには絶対的な浮気の証拠があるからな。」

 「事実無根でございますよ!」

 蘇芳と在仁が否定しながら見せたのは、とあるSNSの投稿だ。カフェで蘇芳と在仁が密着して座っている写真付き。「何かめっちゃ愛してるって言ってる人いるなって思って見たら、紫微星様と蘇芳様だったんだけど。できてんの?」と文章が添えられている。

 「うわ、真っ黒じゃん。二人ともできてんの?」

 「誤解だ!」

二人が全否定をして、事情を説明した。

最近蘇芳に二番目以降の妻を娶るようにと縁談が増え、エリカはご機嫌斜め。それを何とかせんと、「愛してる」の練習をしていたと言う、馬鹿々々しい話だ。ついでに、座ったソファがどうやらカップル用だったと言う不運。

 「マジで馬鹿らしい話過ぎて、笑いどころも見つかんないわ。こんなところでイチャイチャしてないで、土下座でも何でもして謝りなって。ボクまでネタにされて巻き込まれるの、絶対に嫌だからね。紅葉(もみじ)に誤解されたら祟るよ。いくら多様性の時代だからと言って、あっさり性別を超えて来るんじゃないよ。葛葉クン。」

 「俺でございますか?」

 「本当に在仁の所為だ。俺と南木がソファでくっついていても、誰も興味も持たないぞ。」

 「何故でございますかぁ!」

何故か二人に原因にされて在仁は憤慨。だが在仁が怒っても恐くないのだ。二人とも好き放題に言う。

 「無駄に色気があるんだから質が悪い。道端で襲われても知らないよ。」

 「治安が悪すぎるではございませんか!」

 「老若男女問わずハニトラしかけるのはやめろ。」

 「人聞きが悪過ぎます!」

ぎゃんぎゃん言い合っていると、馬鹿々々しくて現実を忘れるが、今抱えている問題は決して目を逸らして良いものではないのだ。


 ◆


 「なぁ、マジでキレてんのか?」

どうでも良さそうに茉莉を見る晋衡(くにひら)は、携帯端末で件のSNS投稿を見た。実にくだらない投稿だが、拡散率は高い。くだらないから楽しいのだろう。

 「キレてるし。在仁が浮気したんだよ!」

 「してないだろ。分かり切ってる事で怒って、何か楽しいのか?夫婦喧嘩ごっこか?」

夜も更けていく中、在仁が帰宅しないので晋衡が見かねて茉莉の自宅を訪ねて来たのだ。そしたら、当然のように智衡(ともひら)もいた。

 「だがお父さん、浮気のボーダーラインは人それぞれだ。もし在仁に他意が無くとも、このシチュエーションを茉莉が浮気だと言うならば、それは浮気なのだ。」

 「おい。何故そっちの全面擁護?」

事を収束させるべきなのに、何故茉莉を支援するのか。智衡を責めたい晋衡だが、智衡は迷いがない。

 「俺にとってジャスミンより大切なものはない!」

 「良いお兄ちゃん風に言うな。良いお兄ちゃんはここで仲直りを取り持て。」

どうしようもない息子だ。晋衡が智衡を邪魔だなと思いつつ言った。

 「こんなのいつもの事だろ。在仁はそこら中でぶっ倒れて、誰かに運んで貰うんだから。」

 「それとこれとは違うでしょ。しかも相手は蘇芳だし。あの二人、前々から仲良すぎると思ってたのよ。もし在仁が浮気するなら、蘇芳か頼優(よりまさ)様だって。」

 「目星つけてんじゃないよ。」

二人とも男だし。もう腐女子の楽しい妄想でしょそれ。旦那で何て妄想してんの。晋衡は茉莉の思考を疑い始めた。

 「で、どうしたいんだ、茉莉は。」

晋衡はくだらない事に関わって馬鹿らしいと思うものの、捨て置く訳にもいかず、苛立った。

 「まさか、離婚するとか言わないだろ。」

 「する訳ないでしょ!在仁は私のなんだから!」

 「じゃあどうして追い出したんだよ!」

 「これに乗じて監禁しようと思ったのに、勝手に出て行っちゃったんだもん!」

 「恐い企みだな、おい!」

何か本音が出たな。

茉莉は浮気の嫌疑を突き付けて、在仁を監禁しようとしていたと?それが目的だったと言うのだろうか。

 「何で出てったんだよ。怒ってんのか?」

 「泣きながら走ってった。三下の退場姿みたいだった。」

 「やめろ。」

事実無根の浮気を突き付けられて泣きながら出て行ったなんて可哀想だ。それを三下の退場姿とは、酷すぎる。「おぼえてろ!」とでも言ったのか?晋衡は在仁の哀れな姿を想像しながら、茉莉を咎めた。

 「いつまでも怒ってないで、追いかけて連れ戻せ。どこにいるか知ってるんだろ?」

 「知ってるけどぉ。在仁が浮気したんだから、在仁が謝るべきじゃない?」

茉莉は携帯端末を眺めながら言った。GPS把握済み。ついでに探知機能付きのピアスがある。

 「馬鹿。泣いて謝る所が見たいだけだろ。」

 「ばれたか。」

手に負えないドS性癖は隠しておけ。晋衡は智衡と茉莉のSっ気を咎めたいが、そもそもが自分の遺伝子だなとも思う訳で。

 「あんまり虐めると、嫌われるぞ。」

 もう知らない。お父さんは匙を投げた。

 「え!?やだ。」

 茉莉は嫌われると言われて慌てて立った。在仁を迎えにいかねば。

 

 ◆


 とりあえず飲め、と出されたアルコール飲料を、蘇芳はザルのように、在仁は舐める程度嗜んだ。

南木は趣味のバーを開店して二人をもてなしながら、聞き上手のバーテンぶった。

 「で、エリカちゃんはどうして蘇芳クンに怒ってるの?まさか本当に葛葉クンと浮気してるなんて、思ってないでしょ?」

蘇芳の妾縁談に対する怒りは置いておいて、蘇芳と在仁の浮気なんて実に馬鹿らしい話を真に受けるエリカではあるまい。

 「ああ。エリカは今、橘藤家の大きなプロジェクトを任されてる。それが紫微星様の写真集だ。昨日の九州撮影で全ての撮影を終えて、これからいよいよ発売に向けていく大事な時期だ。エリカは一生懸命に宣伝戦略を立てている最中だった。そこに、在仁のスキャンダルはご法度だと。しかも相手は俺とか、話題性考えろと。」

 「なにそれ?マネ?」

茉莉に反して、エリカが怒っている理由が真面目過ぎる。

紫微星様のスキャンダルはご法度ですって?まぁ普段からそんなん厳禁だけれども、確かに写真集の売上に全力投球しているエリカにとって、紫微星様のクリーンなイメージは大切なんだろう。商魂たくましいマネージャーみたいなエリカに南木は苦笑した。

 「なぁんだ。それこそ誤解なんだから問題ないでしょ。それで、どうして家出して来たの?」

 「あ…愛してる、の練習までしたんだぞ、俺は。折角、エリカのために…。」

 「ああ、拗ねたのか。可愛い奴だね、蘇芳クンは。」

 折角エリカのために「愛してる」の練習をして息勇んでいたのに、エリカはそんな気分ではなかった模様。まぁそういう事もあるよね。南木は慰めようと、更にアルコールを追加投入。

 そこへ、一杯目を舐めた程度の在仁が赤い顔をして蘇芳を睨んだ。

 「だいたい!蘇芳様が悪いのでございます!」

 「うわ、何だいきなり。」

 「蘇芳様が格好良いのが、いけないのでございます!」

立ち上がって蘇芳の肩を掴んだ在仁を、南木は「うわ、酔っ払いか?」とびっくりした。あの量のアルコールで酔える人間がいる地点で驚愕だ。

 「蘇芳様が、御強くて、お優しくて、筋肉ムキムキで、素敵すぎるから!だから世の女性は蘇芳様を放っておけないのでございます!こんな素敵な旦那様でございましたら、例えエリカ様への一途な思いに御疑いがございませんでも、不安にならずにおれましょうか!蘇芳様が、こんなにも、格好良いから…羨ましい!」

言いながら蘇芳の顔を両手で包んだ在仁は、その瞳を覗き込むように顔を近付けた。

 「おい、よせ。」

 「蘇芳様。理知的な瞳に、明るい笑顔、静と動を兼ね備えた魅力。部隊に身を置かれながら、飾らぬ清潔感。たゆまぬ努力の結実でございます肉体。何て魅力的なので、ございましょう。」

至近距離でうっとりと蘇芳を見つめる酔っぱらった在仁に、蘇芳は困ってしまった。

 「南木、どうにかしてくれ。」

 「いやいや、無理でしょ。つか何この酔い方。おかし過ぎでしょ?褒め上戸とか世の中にある?」

面白がって笑う南木は、二人を見ながら酒を呷りやがった。完全に酒の肴だ。

 「蘇芳様…。」

 「やめろ!」

在仁のやらしい両手を掴んで、蘇芳は何とか止めた。このままではマジで浮気を疑われる。蘇芳は謎の貞操の危機を感じて、在仁を捕えると、小脇に抱えた。

 「こいつは危険物だ。飼い主に返そう。」

 「飼い主!ぎゃははは。」

南木は面白がって使い物にならない。蘇芳は仕方なく、在仁を茉莉に返そうと思って南木家を出た。


 ◆


 茉莉が在仁を迎えに行こうと、藤原本家を出ようとすると、丁度エリカがやってきた。

 「茉莉。」

 「エリカ、どした?」

こんな夜更けにやって来るとは。茉莉が問うと、エリカは申し訳なさそうに言った。

 「蘇芳さん、どこにいるか知らない?」

 「え?蘇芳?知らない。(かさね)じゃないの?友達いないし行く場所なんか無いでしょ。」

勝手に友達がいない事にされた蘇芳だが、実際に行く場所は限られている訳で。エリカは否定せずに言った。

 「職場にはいなかったの。」

別に深刻な様子ではない。蘇芳は大人の男で、最強の武士だ。何かあったとか、そういう心配はないだろう。

 「あー、分かった。エリカも蘇芳と在仁の浮気の事、怒ったんだ?」

 「え、あ。茉莉も?そうなの。折角撮影も終わって写真集発売の目途が立ち始める時に、葛葉さんにあらぬスキャンダルが出るのは困るもの。」

 「そっちかよ。」

ずっこけそうになった茉莉に、エリカは訝し気にした。

 「まさか茉莉、本気にしてないでしょうね?やめてよ、ウチの夫で変な妄想するの。」

 「へいへい。だって、あんなの浮気現場じゃん。これを弱みにして好き放題しようと思ったのになぁ。」

 「可哀想、葛葉さん。」

茉莉の企みが恐ろし過ぎる。エリカが引いたが、茉莉は気にしない。

 「在仁ったら、浮気だって責めたら、泣きながら飛び出したっきり帰って来ないの。だから迎えに行く所。もしかしたら蘇芳もいるかもよ。一緒に行く?」

 「本当、可哀想。」

泣かしてんのかよ。エリカは心から在仁が不憫になったが、今は蘇芳だ。とりあえず茉莉に同行する事にした。


 ◆


 酒を飲んでしまったので、蘇芳は藤原本家まで徒歩で向かう事にした。走れば早いが、酔っ払いを背負っているので、ゆっくりと歩いた。おんぶしているのは成人男性のはずだが、とても軽い。たしかに綿毛だ。蘇芳は在仁の薄い体を背に感じながら歩いた。

明らかに蘇芳の方が飲酒量が多いはずなのに、何故舐めた程度の在仁がここまで酩酊するのか。あれは毒だったんじゃないか、なんてな。

 「蘇芳様のご縁談は、俺と言う妾が存在すると周知する事で、なくなるやも知れませんね。」 

 「何言ってんだ。」

 「いっそ、その方が丸く収まるやも知れません。」

 「おーい。」

 「蘇芳様を俺のものでございますと、俺が公言致しますれば、誰も手出しは出来ません。」

 「それは在仁が色々失ってないか?」

 「蘇芳様の為でございますれば、多少の身は切りましょう。」

 「そも、全然丸く収まってない上、意味不明な状況になってんだけど?だったら普通にお館様を頼るわ。」

酔っている者の意見など、戯言に過ぎない。蘇芳は在仁のとんちんかんな意見に、耳を貸す気は無い。

 「俺も蘇芳様の為に何かしとうございます。」

 「酔っ払いの手を借りるまでもないぞ。」

聞いてんのか?蘇芳の言葉を無視した在仁が言った。

 「折角練習致しました蘇芳様の愛してる、は無駄になってしまったのでございますか?」

 「たぶんなー。」

 「それでは、愛してる、がお可哀想でございますよ。蘇芳様の、愛してる、はエリカ様だけのものでございます。きちんと、ご本人様にお伝えせねばなりません。」

 「分かったって。」

 「言葉にせねば伝わらぬ思いがございます。なれど、言葉に出来ぬ思いもございます。そして、言葉にしたとて伝えられぬ思いも、ございます。」

蘇芳にぎゅうっと抱き着いた在仁が、夜空を見上げたのが分かった。蘇芳は在仁の言葉の意味を探すように、星座を探した。

 「お星さまになってしまわれた方々には、もう、言葉は届きません。」

 「そうだろうか。俺には、聞いているように、見えるが。」

 「さようでございましょうか。」

蘇芳を抱きしめていた細い腕を解いて、在仁が空に手を伸ばした。

 「空と同じように、地上にも多くの星影がございます。世は常に光輝いてございます。蘇芳様はその中でも一等星でございますよ。」

 「在仁には負ける。」

 「北極星より明るい星は沢山ございます。」

 「明るく輝くだけが価値じゃないだろ。」

 「…まさしく、その通りかと存じます。蘇芳様はやはり素晴らしい御方でございますね。」

いちいち感動したように言う在仁に、蘇芳は酔っている所為かなと思った。

十二月の夜風がひんやりとして、蘇芳は在仁を案じた。

 「おい、寒く無いか?風邪ひくなよ。」

 「ええ。お優しい蘇芳様。」

嬉しそうに抱きしめられて、蘇芳は何だかドキドキした。何か、不穏だぞと。

 そこへ、前方からやってきたのは、茉莉の車だった。


 ◆


 在仁を背負った蘇芳を見付けた茉莉は、すぐに車を停めて下りて来た。助手席からエリカが出て来たので、蘇芳がビビった。

 「在仁!」

大きな声で呼ばれると、在仁は蘇芳にしがみついた。

 「おい、在仁。迎えだぞ。帰れ。」

 「嫌でございます。」

 「は?」

蘇芳に抱き着いたまま離さないとばかりに力を込めた在仁に、茉莉が近付いた。

 「在仁、帰るよ。」

 「やだ!俺は蘇芳様といる!」

なんだなんだ、子どものダダか?皆がびっくりして在仁を見ると、在仁は蘇芳の肩に顔を埋めて言った。

 「俺は蘇芳様の妾になる。」

 「はぁ?何言ってんの?」

 「だって、俺は浮気したんでしょ。俺は浮気なんかしてない。でも信じて貰えないなら、本当に蘇芳様の妾になる。」

 「何だ、その超理論。でたらめだぞ。」

蘇芳は呆れてしまったが、下ろそうにも在仁が子泣き爺になっていて剥がれない。

 「ちょっと!蘇芳!どういう事?」

 「知らないって。在仁が急に言い出したんだ。」

 「茉莉が俺を浮気者にしたんだよ!」

子どもの様に言い放った在仁に、茉莉は唖然とした。

 「もしかして、酒飲ませた?」

 「…ちょっとだけ。」

 「だぁ!絶対ダメだって!在仁に酒は!」

酔っ払いと決めつけた茉莉が、在仁の腕を掴んだ。無理矢理剥がそうと言うのだ。だが在仁は蘇芳の肩から少し顔を上げて茉莉を睨んだ。

 「俺は、浮気者なんでしょ。」

 「…ちょ、マジ、もしかして、怒ってんの?」

 「俺が浮気してるって言ったのは茉莉だよ。だから浮気する事にした。」

 「…悪かったって。本気で疑ったんじゃないのよ。ちょっとありもしない弱みを作って握ろうと思っただけで。」

 「おい。」

思わずツッコんだのは蘇芳だ。

 蘇芳の背にしがみついた在仁と、それを剥がそうとする茉莉が、蘇芳を挟んで見つめ合うのは、蘇芳にしたらたいへん居心地の悪い状況である。

在仁の闇色の瞳が、茉莉をじっと見つめていた。その視線に、茉莉が負けた。

 「ごめん。ごめんね、在仁。意地悪して、ごめん。だから、蘇芳と浮気しないで。」

 茉莉が謝っただと?蘇芳は驚愕した。茉莉が謝るところを、過去何回見ただろうか。数えようと思ったが、思い出せなかった。この傍若無人なプリンセスは人に謝るなんて事を知っていたのか?蘇芳は慄いた。

 「…俺は関係無いぞ。」

一応蘇芳は無関係だと言っておかねば。茉莉の後ろに立っているエリカの目が恐い。

 「在仁、もう蘇芳と浮気したなんて言わないから、許して。」

 「絶対に?」

念押しする在仁に、茉莉は何度も頷いた。

それで漸く在仁の腕の力が緩んだ。これで下ろせる、そう思った時、まさか在仁は最初から茉莉に謝らせるつもりで家出して来たのでは?と思った。だったら恐いんですけどー。

 「絶対。お詫びに何でもするから。ね。」

 「分かった、許してあげる。忘れないでね。」

交渉が成立した時、蘇芳の肩に在仁の吐息がかかった。笑ったのか?蘇芳は在仁の策だったのではという考えが強くなって、恐くなった。となると、そもそも酔っぱらってなどいないのでは、と。蘇芳は自分も策に巻き込まれているのかと思いつつ、在仁が茉莉を手のひらの上で転がしている事実を知った。

 だがこれで解決だ。蘇芳は在仁を下ろして茉莉に返そうと思った。

 ところが、在仁は蘇芳を離さずに言った。

 「まだ、でございます。」

 「は?」

 「蘇芳様の件が終わっておりません。それが終わるまで、俺は下りません。」

背中に張り付いた妖怪紫微星様が、何か言っておる。蘇芳がおろおろすると、在仁はエリカを見た。

 「蘇芳様、練習の成果を、今ここでお見せ下さい。」

 「え、は?」

 「エリカ様。俺は蘇芳様の練習台だったのでございます。今からその成果をご覧に入れますので、どうぞ、こちらへ。」

在仁が蘇芳の正面にエリカを招き、エリカは何だか意味が分からないままで、そこに立った。

 「どういう事なの?蘇芳さん。」

 「いや、その…。」

口ごもる蘇芳は、エリカの何となく咎めているっぽい口調に一歩引こうとした。だが、在仁がそうはさせない。ぎゅうっと蘇芳の体を抱きしめてそれを阻む。

 「蘇芳様。武士に二言はございません。まさか、徹頭徹尾武士であられる蘇芳様が、土壇場で逃げ腰になられるなど、有り得ませんよね。」

在仁の煽りで、蘇芳は迷いを無理矢理に振り切った。

 「分かった。」

在仁と蘇芳のやり取りの意味を解さない茉莉とエリカは、二人で視線を交わして疑問を共有してから、改めて蘇芳を見た。

 ここは深夜の道路。民家も無く、街灯は少し遠い。寒い空気が、月と星を冴え冴えと見せていた。

 「エリカ。ここの所、俺に対する縁談が多くなり、エリカに不快な思いをさせている事、申し訳なく思う。出来れば、それらの縁談を根絶出来れば良いのだろうが、なかなか難しいのが現実だ。もちろん努力は、するつもりだ。だからこれからもエリカには苦労をかける事になる。それでも、俺には、エリカだけだ。妾とか、愛人とか、どんな卑怯な方法で迫られても、受け入れる事は出来ない。それを、信じて、欲しくて…。」

 蘇芳の緊張した声が夜道に響いた。

 エリカは真面目な蘇芳を見上げた。

 「エリカ、その…あ、あい…愛してる。」

 「え、は?」

 「だから、あいしてる!」

大きな声で叫んだら、エリカが間抜けな顔をしていた。蘇芳はそれを見て、間違えたのかと思って真っ赤になった。

 「在仁、折角練習したのに、エリカの反応が無いぞ!」

 「そんな事はございません。ね、エリカ様。」

 エリカの視界には、真っ赤な蘇芳と、その背に乗っている在仁。変な姿で、愛してる、だなんて。ヘンテコ過ぎる。

 「なぁに、そんな事の練習をなさっていたの?馬鹿々々しい。私、蘇芳さんの愛を疑った事などないわ。」

 「え?そうなのか?良かった…。」

気が抜けた蘇芳がほっとした顔になった。エリカはその顔にむっとして言った。

 「でも、たまには聞きたいわね、それ。もちろん、練習は無しで。」

 「えっ!」

 「そうね、週に一回くらいは。」

 「そ、それは身が持たない。半年…いや、一か月に一回では駄目か?」

 「だぁめ。週に一回言ってくれなきゃ、蘇芳さんが葛葉さんと浮気したって言いふらしてやるわ。」

 「何でそうなるんだ…。」

意味不明な事を言いながら踵を返したエリカに、蘇芳が泣きそうな声を出した。

 在仁はやっと蘇芳の背から下りて、そっとエリカを追うように蘇芳の背を押した。そして茉莉の元へ。

 「帰ろ。」

 「うん。」

 そして二組の夫婦はそれぞれの帰路へ。

 茉莉は車に乗り込みながら、在仁に訊いた。

 「お詫び、何して欲しい?」

 「そうだな、じゃあデートしてもらおうかな。」

にっこり微笑む在仁に、茉莉は笑顔を返した。

 「そんなのご褒美じゃん。」

 茉莉の満面の笑顔がこの世で最も美しい。在仁は眩しそうに目を細めたのだった。

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