46 怨念の事
兼実は直嗣と実親に平景清をけしかけると、自身は地へ下りた。
高所から見下ろしていた標的の元へ。
「平重盛。」
兼実は自らの服を脱ぎ棄て鬼本来の姿へと変化した。鬼の特徴たる角の二本は鋭利に重盛を狙っているようだ。人間のような見た目だったそれは仮初の姿であり、鬼としての彼は重盛とほぼ同じ程の背丈をした濃紺の肌を持つ姿だった。硬化した鎧のような肌、白黒反転した眼球には命を狩る事を愉悦とするような光、その両手には刃のような爪。排出される空気が視認出来る程の濃い瘴気。
兼実は正にロックオンしたとばかりに重盛に一直線に向かって来た。
「重盛!」
隣にいたはずの義平は別の鬼の急襲から祥子を守るために走って行ったため、重盛とは距離が離れていた。
「俺の事はええ!集中しいや!」
重盛は軽い足音で兼実の突進を避けながら義平に言葉を投げた。義平は返事もなく視界から消えた。おそらく戦闘が始まったのだろう。
「余所見しとるやなんて失礼やない?」
笑う兼実の口から覗く牙が肉を切り裂きたいと吠えている気がした。
「そら悪かったわ。」
重盛が兼実を見ながらも、周囲に気を配った。共にこの場所へきた兵は最も大きな部隊だ。瘴気にあてられて次々と倒れ、鬼の急襲で死んでいく。
「うおぉぉお!」
兼実の真横から刀を振りまわして来る兵がいた。
「この瘴気の中でまだ動ける奴がおるなんて驚きや。お?アンタ、『夜』と契約しとるんやね。それで瘴気に多少耐性があるんかな。せやけど、それは逆効果やで?」
兼実の言葉と同時に兵は動きを止め倒れた。
「何や?」
重盛が目を見張ると、兼実が答えた。
「いかに『夜』かて瘴気が濃すぎるんや。鬼でもなければ耐えられへんて。契約しとる『夜』が吸いすぎた瘴気が、契約を逆流して術者を殺したんや。」
気が付くと倒れた兵は砂状になっていた。
「瘴気で死んだ人間は死体も残れへん。」
兼実がわざとらしく恐怖をあおるもの言いをしたが、重盛は無言で見ていた。
「何や?」
兼実は重盛の静かな視線を訝しがりながらも、攻撃を開始した。
二度目の人生に生まれ落ちた時、孤独に泣いた。
二度と生きる事のなかった平重盛という男の人生が、このように寂しく再開されるとは思いもよらなかった。
愛する家族も、栄華を極めた一門も、まるで初めから無かったかのように無くなっていた。そこにあったのは地龍としての術者の家である平家だった。そこにはかつての明るさは無かった。寂しくて、悔しくて、焦燥感にただ泣き続けた。周りはよく泣く元気な子供だと言ったが、俺はこんなのは悪夢だとしか思えなかった。前世の記憶を有したまま転生するだなんて。
自らの生を受け入れるのには少し時間を要した。しかし時間は無常にも過ぎ去る。無為にそれを眺めているだけの人生ではならないと立ち上がった。周りはようやく立ったと成長を喜んだが、俺はすでに多くを背負って立つ重みに押しつぶされそうだった。平家の長となるはずの身で何一つとして成していないのだから。
血筋も確かながら、前世の記憶を有していた所為か、術力は増しているように思われた。増しているというよりは使い方を知っているという事かも知れない。前の人生よりも視野が広がり、多くを視認出来るような感覚がした。実際、俺は魂を見る事に秀でていた。これは一度目にはなかった力だった。その目を持って、多くの知音を探し出した。けれど誰も俺を分かる者は無かった。当然だ、前世の記憶を持って生まれるなどという稀有な存在がそうそういるはずがない。それでも、一門の生まれ変わりを探す事はやめられなかった。例え別人だとしても魂を同じくしている者には幸せになってもらいたい。そんな想いで、探しだしては見守り、時に影からそっと手を貸すというような事を続けていた。
思えば、転生者の存在や転生インターバルのサイクル的なものが地龍内で公に理解され始め、転生組というカテゴライズやビップ待遇などが出来たのは、三周目〜五周目の事だった。その頃には俺は終りのない平家の当主という役職に就き、京都という政治の舞台で心を隠して腹芸をする事に疑問を感じなくなっていたと思う。長老会と繋がりを持つ一門として平家の地位を上げ、地龍本家と繋がる源氏と肩を並べ睨みをきかせる。後ろだての大きさと武力の強さで再び地龍のトップを争うまでに成長したが、そこには傲慢な家族や、調子にのる親戚や、更なる夢を膨らませる父親はいない。どれだけ栄華を取り戻そうと、かつての一門は帰らないのだ。そんな虚しさを覚え始めた。
京都の貴族連中と対等に渡り合うために、武士でありながら貴族のように振るまい、温厚で人畜無害な人柄を演じながら政治に口を出し、食えない昼行燈と揶揄されながらも、平家当主として有らねばならない自分に疑問を覚え始めたのは丁度戦国時代中期頃だったと思う。あの頃は鎌倉〜室町時代で築き上げた地龍組織の機能と体制というものが世の乱れと共に乱れ、また揺らぎの発生が平安時代程に悪化していた。討伐の必要があるにも関わらず、『昼』の政治体制のガタつきの影響で地龍の体制は傾き討伐も満足に行えなかった。鍛練に明け暮れて育った武士たちが、戦に喜び勇み『昼』ばかりに目をむけている所為もあったように思う。俺は雅貴の願いを思い出した。『昼』と地龍の体制を棲み分け、『昼』の政治に影響されず『昼』『夜』のバランスを守る戦いを続けなければならないと。『昼』の名声や地位に心奪われず、地龍は地龍として然るべき働きをしなければならないのだと。ようやくその願いを理解し実行しなければならないと感じたのだ。
江戸時代に入った頃には現在の体制の基盤は完成していた。地龍は地龍という裏の日本で法治国家を持ち、『昼』『夜』を守る。とは言え『昼』の政治には大いに影響力を持っていた。天下泰平とは言え揺らぎは止まない。何度繰り返してもままならない当主という役割に対する自身の働きに憤りはあり、世の中の憂いを消し去れない人間の業にも嫌気がさした。それでも人を信じる事や愛する事はやめられなかった。
そして一門の魂を探す事もまた、どうしても止められない事のひとつだった。
重盛は息を吐いた。
「どうしても見つかれへん魂があってん。それがお前や、平宗盛。」
重盛が今、正面を見据えた。
そこにいる鬼の姿をした魂は、確かにかつて愛した弟・宗盛のものだった。
「は?」
「鬼を養殖するて聞いた時、未練を残した霊魂を拾うて邪心や負の元となるものを与え増幅させていく作業なんやろと思た。せやけど最高傑作の最強の鬼言うんは一体どうやって作るんやて思たんや。いかに悪霊を元手に邪悪なもん寄せ集めたかて他とどう違うんや?」
「そら俺が特別やからに決まっとるやないか!」
誇らしげに叫ぶ兼実に相対して重盛の表情は浮かない。
「せや。お前は特別やった。元手が違ててん。ただの悪霊と違う。術者の悪霊、それも一等強い平家直系の血脈や。そら強いに決まっとるがな。なぁ、宗盛。」
「やめろ!俺は九条兼実や。それが広元様の下さった名や!」
宗盛。
重盛にそう呼ばれると兼実の芯が震える感覚がした。
不快だ。
「今は、そうなんやろな。すっかり記憶もなくして、何で悪霊化したんかも忘れて、鬼になって現世に留まっても遺恨も晴らせへん本末転倒な存在や。」
「やめろ言うとるやろ!」
「やめる訳がないやろ。宗盛、ずっとお前を探しとったんや。今ここで知らん顔して戦う訳あれへんやろ。俺は、お前に、普通に生まれ変わって幸せになって欲しかってん。お前だった人生を積んた魂に、あるべき流れに乗って欲しかってん。ほんでいつか出会うた時には、また兄弟になりたいて思うてん。」
重盛の言葉に、兼実の肩が震えた。
「何言うとんねん。」
兼実の頭に禍々しく生えていた角が、みるみるうちに巨大化して行き、まるで悪魔のように渦を巻いていった。
「俺の気も知らないで、良い兄貴ぶりやがって。兄貴さえ居なければ、俺はこんな惨めな人生を送る事も無かった。兄貴さえ居なければ、俺は親父に望まれて次期当主になれた。堂々と平家を率いて戦い、天皇を守って平家の栄華の上に立つことが出来た。兄貴さえ居なければ、兄貴さえ…。」
悪しき呪文のように紡がれる呪詛は怨念となって角の成長を加速させていた。周囲の瘴気を吸収して肌を更に硬化させ人の輪郭を模した化け物へと変貌していった。
「宗盛…。」
「呼ぶな!お前が居なければよかったんだよ!」
兼実、否宗盛が叫ぶと禍々しい瘴気が気砲のように重盛へ向かっていき、重盛はまともに吸い込んでしまった。体内に巡る毒の不快感が重盛の顔をゆがませた。
「ほうか。お前を悪霊にしたんは、俺か。」
重盛が呟いた。
「お前は父上が好きやったもんな。俺はと言えば保守的で、父上のやる事をいつも止めてばかり。あれもダメ、これもダメ、非常識、摂関家にどう思われるか、法皇様のご機嫌を損ねたら…。礼義、伝統、規則、つまらん男やったな。」
重盛は自分をどこまでもつまらない小さい男だと思う。自分という枠を超えられない。父清盛はいつだって自分・平家・日本どんな枠にもおさまらない破天荒な夢を見ていた。もっと楽しい事、もっと大きい事、くだらない戦やつまらない意見には目もくれず外を見ていた。交易をして国を富ませる。今ならば当たり前のビジネス。けれどあの頃は誰も想像もしない大きな夢だった。その夢にとって重盛は足枷でしかなかったのかも知れない。
「また良い子ちゃんぶりやがって!お前のそういうところが嫌いなんだよ!」
宗盛は叫びながら鋼のような爪を振り上げて来た。
「何でや?俺が血筋で行けばお前に劣るからか?」
重盛は嫡男ながら血筋にすれば弟宗盛に劣る。本来ならば廃嫡とし宗盛が後継ぎとなっても不思議はない。
「それも違う!確かに俺は血筋の上では嫡男だった!けどそれを指摘する者はなかった!それだけお前が平家当主に相応しいからだ!その資質、その性格、すべてを周囲が認めていた!」
重盛は文武に秀で気真面目で誠実故に人望も厚かった。父清盛には無い魅力があった。
「実際父上もお前の言う事には耳を傾けた!」
カリスマ性の高かった清盛の思想を万民が理解出来た訳ではない。ただ清盛は凄いと認識し、清盛に付いて行こうと決めていただけだ。宗盛もその一人だった。栄華を極めた平家は日本で最も優れた一門であり何をしても許されると思っていた。そんな清盛の思想の暴走を、重盛は知識と道徳で説き伏せた。傍若無人な振る舞いを冷静に止める者は一門の中には無く、外には止められる者がなかった。重盛は唯一の歯止めだった。だからこそ多くの信頼があった。
「だがあっさり死んだ!」
宗盛の兇暴な爪を重盛はすれすれでかわす。けれど鬼の速度は人の限界を超えている。髪を掠め、頬を掠め、肉を断ち、潜血が散る。深い憎しみが重盛を襲う。
「お前が死んで、俺がどうなったか想像できるか?周囲はお前の死を悼み悔み、勝手に俺に失望する!源氏が出兵し、戦に負け出し、父上が死に、俺がどうなったか想像できるか?皆、お前が生きていればこうはならなかったと嘆いた!俺が、ここにいるのにだ!源氏に追い詰められ、檀の浦で母は安徳帝と海へ落ち、一門は悉く死に、俺は捕虜となり、どれだけ惨めだったと思う?周囲には最後までお前の存在を請う声があった。」
重盛は平家の宝刀小烏丸を抜いたが、宗盛へ向ける事は出来なかった。宗盛の怨念の刃は重盛を切り裂くが、重盛は殆ど抵抗する事が出来なかった。
「宗盛、俺が最期に言うた事、覚えとるか?」
宗盛は一瞬動きを止めた。
「平家を頼むて、言うたやろ?」
重盛は優しく語りかけるように言った。
宗盛は再び爪を振り上げた。
「うるせぇ!お前がいたから俺はずっと惨めだった!お前があんなところで死ぬから平家は滅んだ!お前があんなところで死ぬから、父上があんなところで死ぬから!俺達はずっと、父上と兄上がいればずっと、平家は安泰だって思っていたのに!何故、何故死んだ!」
宗盛の目から黒い涙がこぼれるのが見えた。
重盛はその刃の如き爪を甘んじて受けながら瞑目した。
「宗盛、堪忍な。全部お前に押し付けて死んでもうて、ほんま堪忍な。」
実際平家は清盛により身分を上げてから一門も続々と官位を得て、武家ではなく貴族化していた。栄華に溺れ研鑽を忘れ精進を止めた彼等は武士として弱体化していた。そこへ目を血走らせた叩き上げの武士たちの急襲。武力同士で正面衝突すれば勝ち目はなかった。必要だったのは政治的な戦略だった。しかしその頃には既に平家に頭脳はなかった。
責められるは必然。自分自身どれだけ責めたか知れない。重盛は宗盛を鬼に変える程の無念を自身が作っていたのならば、自身が斬られる事ですべてを終わらせようかと思った。
その時だ。
「そーゆーのはっ、逆怨みって言うんだよ!うらぁっ!」
重盛の後方から跳躍し目の前に躍り出た光胤が、宗盛の手首を斬り落とした。宗盛は呻きながら後退りした。
「な…なんだ貴様。」
「何だとは随分じゃねぇか兼実様よぉ。俺様は一角だよ、まぁ本当は平重盛様が隠密平光胤ってもんだけどなぁ!」
「一角…?だと?どういう事だ?」
光胤の姿は人間のそれだ。歳の割に若い顔立ちに、小さい体、不遜な物言い。あの禍々しい暴食の鬼とは似ても似つかない。
「光胤、無事やったんか?」
重盛が驚きの中に喜びを安堵を混ぜて言うと、光胤は肩をすくめた。
「いや、実際のところかなりヤバかったです。心配かけてすみません。ここは俺様にまかせて下さい。」
宗盛に向き直る光胤の肩を、そっと叩いて重盛は言った。
「いや、光胤は恭くんを手伝ったり。ここはええ。」
「え?だって、主…。」
「これは俺の問題や。人に任せたらあかん。」
重盛が小烏丸を構えると、宗盛が顔を歪めた。
「やっとやる気になったのかよ?兄上。」
「一瞬、宗盛が望むなら殺されたる方がええて思たけどな。そら無責任やな。死ぬんは、無責任やわ。」
あの時途中で死んだ事が、平家にとってどれだけの影響だったかは分からない。いてもどうにもならなかったかも知れない。けれど、それでも生きて一緒に戦うべきだった。生きて一緒に、最期まで一緒にいるべきだった。だから今度こそ、ちゃんと戦わなくてはならない。気が付いた時は二周目の人生で、一周目の事は清算をするべき事も何も残っておらず、ずっと胸に澱のように溜まっていた。ただ愛した人達と同じ魂を見つけて見守る事しか出来なかった。
「ほんま、自分が嫌になるわ。宗盛、お前はどっか遠く、それこそ父上が好きだった海の外にでも転生して幸せに暮らしとるんやなんて呑気な事考えて…。まさかあれからずっとこんな形で生きとったとはな。俺が真剣にお前の事を探しとったら、こんな事にはなれへんかったかも知れへん。ほんま、阿保や。兄失格やんな。」
重盛の悔恨はいつも自身に向いている。宗盛はそれがまた憎かった。
「何で、いつもそうなんだよ。もっと責めればいいだろ!世の中が悪いとか、時代が合わないとか、誰かが足を引っ張ったとか、父上が勝手だから、とか。もっと責めろよ!」
宗盛の叫びは、光胤にも分かる気がした。重盛という男はどこかで高潔すぎる。付け入る隙のない所があって、誰も踏み込めない聖域のような心の中に一体何が内包されているのか想像もつかない。それでも光胤にとっては唯一無二の存在だ。恩人で唯一将と認めた男。何となく察するものはあるのだ。
「主、刺し違えるって言うんじゃないでしょうね?そんならいくら主の命令でも俺様加勢しますよ。」
「安心し。そないな物騒な事考えてへん。けどな、この瘴気や。勝っても生きて戻る事は出来へんやろ。」
気が付くと、辺りは自身の周りより先を見通せぬ程に靄がかかっていた。濃い瘴気に飲まれていた。光胤は鬼の身であるため影響をうけなかったが、この空間において地龍から出兵した者はもう殆ど残っていない。残って戦っているのは転生組くらいのものだ。それも祥子の術と自身の防御結界による苦し紛れの綱渡りだ。もしここで現状を打破できたとしても、五体満足で帰ることは不可能だろう。一度穢れた身を清める事は時間がかかる。戻れたとして、これだけ長時間侵された体を清めるのは現世では足りぬろう。
「主…。俺様が遅れたから…。」
「阿保。自意識過剰も大概にせぇよ。光胤一人おった所で何ともなれへん。それより、お前は生きて帰るんやで。俺は宗季と約束してもうたよってな。」
「何をです?」
「宗季は平家次期当主の座を受け入れる代わりに、光胤の所有権もよこせ言うてな。まさか死体で渡す訳にもいかへん。約束やさかい、ちゃんと守ってや。」
「ちょ…何勝手に俺様の身受け話になってんすか?酷いですよ。」
「宗季はいつも言うとった。光胤に危ない仕事して欲しないて。きっとこれが最後や。宗季はお前を自由にするつもりや。」
重盛が優しく微笑んだ。光胤は込み上げる感情が涙になって零れるのを自覚した。
「最後やさかい、気張りや。」
「…おす!気張ります!俺様、主の命令に逆らった事ないですからね。安心して信じて下さい。」
「平光胤、最期の命令や。生きて帰り。」
転生システムの破壊でも、鬼の討伐でもない。ただ、生きて帰るように、と。
「御意。」
光胤は恭しく傅くと、顔を上げ強い眼差しで重盛の姿を目に焼き付けてから風の如き早さで去って行った。
瘴気の靄の中から掻き分けるように姿を現した宗盛は、重盛を恨めしそうに見ていた。
「兄上、何で兄上はいつも人から好かれるんだろうな。」
なにをとっても兄重盛に勝る事などなかった。人望の無さ、頭脳の足りなさ、武術の稚拙さ、それを自覚しながらも自分なりにやってきた。けれど周囲の評価はいつも厳しい。
「兄上と比べられてきた俺の気持ちが、兄上に分かる訳がない。」
宗盛は先ほど光胤に斬り落とされた方と逆の手を使い、爪で重盛を襲おうとした。重盛はすれすれで避けた。
「せやかて宗盛も、俺の気持ちが分かるか?」
「何?」
「つまらない既存の固定観念に縛られて父上を理解でけへん気持ち。正しいと思う事を貫いて、果ては疎まれ煩わしいと思われた気持ち。期待、されとっただけの働きも出来ず死んだ気持ち。愛する者から嫌われる気持ち。」
重盛は苦笑した。
「宗盛の墓な、花切らした事ないねんで。せやけどこんなとこにおったんやったら意味無かったな。死んでまで、憎み続ける程俺の事が嫌いやったんやな。」
重盛言葉を聞きながらも宗盛の刃は襲い来た。重盛がようやく向けた小烏丸が、宗盛の爪を斬り落とした。嘘のような切れ味。
「阿保やな、宗盛。」
小烏丸の切れ味に驚いた宗盛は警戒して距離を取る。辛うじて靄に飲まれない距離で重盛の次の動きに警戒する。
「そんな感情はとっとと捨てて、次の人生へ行ったら良かったんや。」
重盛は構えた。それは普通の正眼のように見えた。
「俗塵に拘泥しよってからにこない愚かな事になるんや。」
重盛の言い様はまるで憐憫のようで、?(よう)然として見えた。
宗盛はその正眼を見て自らが太刀を持たぬ事に初めて気が付いた。
武士の魂。心。いつ失ったのだろうか?
「余殃は俺が引受けたる、余慶はお前にくれたる。折角生まれ変わったんなら、俺は今度こそ皆が幸せになる手伝いをしたかってんで。けど、これは無いわ。無い。」
重盛は微動だにしていない。けれど宗盛には徐々に近づいてくるように感じられた。反射で探す腰には刀はない。右手は斬り落とされ、左手は爪がない。鬼の腕力でいくらでも人間などくびり殺す事が出来るが、何故か足が動かない。
「宗盛、何で鬼になんてなってしもたんや。いかな濁世かて、八逆に触れるような事はしたらあかん。地獄の道では皆に会われへんねんで。」
宗盛は小烏丸の鋭利な光が目に飛び込んで来て、遠い記憶が甦った。
源頼朝を前にただただ平伏し命乞いするしかなかった自分。何もしないと約束し、自身に二心ないと訴え、一門を生かしてくれなければ呪うと呪詛を吐き、それでも死んでいったあの惨めな終末の記憶。あの時思っていたのは、一番幸せだった頃の事だった。父清盛がいて、兄重盛がいて、自分は奢るままに振る舞い悪評を流布されていた。あの賑やかだった頃が愚かでも幸福だった。誰かを不幸にしていた日々でも、自分にとっては最も良き時代だった。
「兄上は何故、父上を止めたんだ?」
ふと、宗盛の口から零れたのは何の意図もない純粋な疑問だった。
重盛は時には理論で、時には情に訴え、清盛の無為な挙兵や暴挙を止めていた。あのお祭り騒ぎのような平家一門の中、ただ一人、いつも気難しい顔をしてやつれていた。
「宗盛、父上の理想は素晴らしい。けどな、その過程で人が不幸になり過ぎる。それは政やない。」
重盛の言葉は、やはり宗盛の脳内から生まれないものだった。
「せやけど筋と義を通して正当に事を進めとったら、きっとあれだけの大事は成されへんかったやろな。平家に栄華は無かったやろ。」
「それでも止めたのか?」
「せや。それでもあかんことはあかん。あの頃俺達が本当にやるべきやったんは、揺らぎをなくす事やったと、今なら思う。それが、俺達しか出来ない、俺達の使命やった。」
地龍として、術者として。
雅貴はかつて言っていた。「戦や政の乱れによって揺らぎは無尽蔵に増える、やるべきは世を鎮める事であって改革ではない」
「兄上は父上とは違う方を向いていたのか。」
「父上は敬愛しとった。けど歴史を見てみ。父上がしたかった事は、別の誰かがやる。」
織田信長が、豊臣秀吉が、坂本竜馬が、多くの歴史の最先端で平清盛は息づいている。
「俺達がやるべき事は世を乱す事でも歴史を動かす事でもない。『昼』『夜』のバランスを守る事や。」
重盛の動かない正眼が、まっすぐに宗盛に向いている。宗盛はまるで術をかけられたように動けないままだ。
「兄上…。」
宗盛の表情にどこか澄んだ子供のような色が滲んだ。重盛はその瞬間に前へ出て、まるで子供が習うような美しい型で宗盛の胴を斬った。鋼のような硬い肌が嘘のように綺麗に斬れて、中から人のような潜血があふれた。
重盛が振り返り見下ろすと、宗盛の意識は既に曖昧なものとなっていた。その尽きかけた体に触れようと手を伸ばした時だった。宗盛の肉体から邪悪な影が現れた。
「このような方法で私の最高傑作を倒したつもりか?平重盛。」
影は言うと宗盛の肉体を包み込んだ。切断された手も、致命傷だった腹も、断末魔に似た音を立てて変形し始めた。見る見るうちにそれは人の輪郭からも遠ざかり、すっかり魔物の姿として立ちあがった。
「弱い者ほど闇の道に落ちる。これに人格は必要ない。さぁ、これからが本番だ。」
影の声は靄のように消え、重盛の前には重盛の三倍はある鬼の巨体が残った。その顔にも目にも心は無く、ただ生きるものを破壊し尽くしたいと渇望する亡者そのものだった。
重盛は再び小烏丸を構えた。
瘴気は体の内外を犯し、いつ動けなくなってもおかしくない。重盛の顔には焦りが浮かんでいた。
光胤と一緒に転生組率いる本隊への合流を果たした幸衡だが、状況は最悪だった。瘴気の濃度は視界を遮る程で、兵の殆どが死に砂となっていた。立ち上がって戦う者もいるが、鬼の容赦ない攻撃を前に成す術なしと言った感じだ。
その中で何とか奥州の部隊を探し出した幸衡が駆け付けると、秀衡と泰衡が鬼と応戦中だった。
「おや、加勢か?良いね良いね。もっと強いのを連れておいでよ。」
鬼は余裕そうに笑っていた。笑い声からして複数の鬼に囲まれていた。
泰衡を見ると脇腹から夥しい流血が見られ、右足は折れているのか歪んでいるように見えた。
「泰衡様、それ以上は危険です。下がって休んでください。」
幸衡が駆け寄ると、泰衡は手を振って制止した。
「いや。良い。」
「しかし、いかに術で痛覚を麻痺させたとて無理をしては御命に関わります。」
奥州藤原氏に伝わる戦術の一つとして、痛覚を麻痺させるというものがある。戦闘中に受けた傷の痛みによる不利を避けるために、一時的に痛覚を封じ無理矢理に活動を続けるのだ。これによって死ぬまで戦う者もいれば、死に物狂いで逃げ切る者もいる。この術は奥州の秘術とされているがあまりにも馬鹿馬鹿しいと泰衡は思う。
「どうせこのような術は最後の血の一滴までも戦い続けるために作られた、人を人とも思わぬもの。ならば私は潔く人ではなく奥州の武士として戦って果てようぞ。」
血を吐きながら刀を構える泰衡の気迫に幸衡は少し気圧された。すると同じく負傷はあれどまだ十分戦えそうな秀衡が笑った。
「そう言うな泰衡。この術にも良いところはある。幸衡の流麗な戦いを支えるところじゃ。」
幸衡は肩をすくめた。幸衡の白い波形が戦闘中も穏やかなのは、この痛覚の遮断によるものが大きい。痛みは冷静さを失わせ技を鈍らせ死を予見させる。幸衡はこの術によって自らを保ち戦う。その姿の美しさは秀衡を唸らせる。その美しさのためならば、この愚かな術も生まれた甲斐があると言うのだ。
「本当に御館様は幸衡に甘いのですから。」
泰衡は呆れた様子だったが、秀衡は構わず幸衡に近づいた。
「ああ、いつ見ても良い男だな幸衡は。こんな事ならば一度で良いから抱かれておくんじゃった。」
「御館様の褥のお相手となると流石に荷が重いかと。」
「何を言う。わしは男を知り尽くした美女じゃぞ。さぞ良い思いが出来たろうに。惜しいと悔やんで然るべきところぞ。それともわしに魅力がないとでも?」
丁度良く切り裂かれた服の隙間から覗く腿やら胸の谷間やらが色っぽく目に飛び込む。魅力的な美女に違いない。目の毒なので幸衡は反らしておくことにした。
「私には過ぎたる魅力です。それにあきらがおります故。」
「なっ!わしよりあの男女か!ぬしは万事に至って優れておるが女の趣味は怪しいものよの。わしの女の部分がお前に魅かれて止まぬと言うに。」
「父上の女の部分とか究極にカオスな発言やめてもらえますか?戦闘中に気が散るので。」
泰衡の突っ込みがあって、ようやく秀衡が黙った。
「それで、戦況はどうなのですか?」
幸衡が問うと、秀衡は答えた。
「鬼どもは揃って例の薬を服用しとるようじゃ。どうやら人を鬼に変えるだけじゃなく、鬼を強化する作用もあるようじゃ。瘴気が濃い故視界も悪いが、何、わしらもただの雑兵ではない。何とかするさ。」
「その通りです。御館様がおっしゃる通り、ここは私たちで対応しますので、幸衡は地龍様の元へ行きなさい。」
二人の言葉に、少し戸惑った。冷静に見て、戦況は厳しい。ここに残って共に闘うべきという考えが思考の天秤をぐらつかせた。
「しかし…。」
二人は無言で首を振った。幸衡は仕方がないので、道中手に入れたいくつかの鬼の角を出して渡した。
「心強い。これで多少は瘴気の影響を防げるじゃろう。しかし幸衡はどうする?」
「私は鬼から手形を奪いましたので。」
広元が作った本物の手形はこの空間の瘴気の影響を完全に遮断する事が出来る。これがあれば地下迷宮でも地上と同じように活動できる。
「成程。ならば良い。もう行け。」
「は。御館様もご無事で。」
幸衡の長い睫毛が少し震えていた。ここで見捨てれば、きっと二度と会う事はない。しかし幸衡とてここで潰える訳にはいかないのだ。それに、先へ進み転生システムの破壊に成功すれば、瘴気や鬼の活動を止める事が出来る可能性もある。ここで応戦するより、元を絶った方が良いのだ。
割り切れない気持ちが幸衡の純白の波形に波紋を立てた。
「幸衡、お前のつくる世を見たかった。わしらの次の人生ではその世を謳歌出来るように、尽力いたせよ。」
秀衡と泰衡の優しい笑顔が目に飛び込んできた。
ずっと邪魔に思っていた転生組ではなく、幸衡を見守ってきた親のような存在としてそこにいた。転生組との別れは、幸衡が思うよりずっと痛みを伴った。痛覚を遮断しても消えない痛みに、幸衡は一筋の涙を流した。
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