45 僻様の事
鬼の光る目が仁美をじっと見つめていた。
檻を掴んでいる鬼の手は、硬い鱗のようなもので覆われた青白い色をしていて鋭い刃のような爪が光っている。その爪に切り裂かれれば、仁美などひとたまりもないだろう。
その凶器のような手が檻の隙間から伸ばされ、仁美は身を縮めた。
手には仁美が落とした檻の鍵が握られていた。
拾って、仁美に返そうというのか?鬼の背後には先程殺し貪っていた鬼の死体が見えた。一体何を考えているのか。
「どうだ?」
鬼は仁美に問う。
「…な…にが…?」
仁美は震える息に何とか音を混ぜて吐いた。
「だから、アンタ、死ぬならその命、俺様によこせって言ってんの。」
見上げると、鬼の頭にある一本の角が目に入った。
「た…べる…?」
仁美の恐怖しきった様子を見た鬼は、一度大きな溜息を吐いてからしゃがんだ。仁美はその様をただただ怯えて見ていた。
「悪い。恐がらせた。俺様は今はこんなナリだが敵じゃない。平家当主平重盛様の隠密をやってる平光胤って者だ。アンタは畠山重忠殿の御息女仁美様。矢集晋の婚約者。合ってる?」
鬼の言葉に仁美は目を見開いた。
「え?」
「だから、俺様は敵じゃないの。分かる?だから姫さんを喰ったりしない。おっけー?」
「じゃあ…命をよこせって言うのは…。」
仁美は怯えを解かずに光胤を見る。光胤は檻の前に胡坐をかいて座り込んだ。
「あ〜…そうだな。それも撤回する。俺様が悪かった。正確には、俺様の命を貰ってくれって事になるかな。」
「…え…。」
光胤が言い変えても仁美は更に怯えるだけだった。
「わ〜!待て待て!引くな!姫さん、ちゃんと話す!だから聴いて!」
光胤は仁美の気持ちが離れるのを何とか引きとめて話を始めた。
「俺様は生まれつき逢魔の血ってヤツだった。平家の中でも結構良い家の嫡男だったんだけど、こんな身じゃって事て親父も大分頑張ってくれたけど結局表じゃ生きていけなかった。でも重盛様に拾われてそれなりに働かせてもらって、それはそれで良い人生歩んでた訳。」
光胤の言葉に、次第に警戒を解き耳を傾ける仁美の様子に、光胤は務めて笑って見せた。笑うと鬼の鋭い歯列が見えるので返って恐かったかも知れないが仕方がない。
「けど元々逢魔の血として生まれたって事は、『昼』でもあるけど『夜』でもあるって事になるんだよな。親が俺様を人にするためにした色んな儀式は逆効果でさ、結局俺様はどっちかってーと『夜』寄りの存在だったんだよな。そんな中、京都七口戦で死にかけて無茶したり、夜好会戦で死にものぐるいで鬼を喰ったりしたせいか、ほとんど『夜』になっちまった。あきちゃんにも協力してもらってどーにかしようとしたけど、殆ど改善不可能なレベルだった訳。そん時にはもう角生えてたしな。でもおかげで瘴気への耐性があるだろ?だから、主の命で平景清を追って地下迷宮に入ったんだけど、ここの予想以上に高濃度の瘴気を吸ったらこの通り、すっかり見た目も中身も完璧な鬼と化したって訳。」
光胤の話をどこまで理解し信じたかは不明ながら仁美は光胤を興味深そうに見ていた。
「先ほど鬼を食べていらしたのは…その…。」
「この体とにかく腹が減る訳。でも鬼ばっかり食ってると益々鬼になっちまうと思わね?いくら仕事しても俺様、このままだと地龍に戻れないと思わね?」
「…それで、私にどうしろとおっしゃるのでしょうか?」
仁美の問いに、光胤は頭を下げた。
「俺様と、契約してくれ!」
「え?」
仁美が意味不明すぎる申し出に再び警戒したが、光胤は檻ぎりぎりまで迫って懇願した。
「俺様はこの先どうなっても人間に戻る事はねぇ。でも『夜』として術者と契約していれば別だ。仮とは言え人の姿を得て、陽の下を歩けるし、条件さえ整っていれば人間だった頃に近い生活を送れる。『夜』を食べなくても生きられる。」
檻の外にしがみ付いて必死に訴える光胤を怯えた目で見ながら仁美は言った。
「それならば、別の術者の方にお願いした方がよろしいのではありませんか?私はこの檻から出る事すら叶いません。」
「いや。俺様と契約すれば、姫さんはここを出られるはずだ。」
「え?」
仁美は聞き間違いかと思った。
「姫さんは広元によって『夜』の一部を憑依させられ、その一部に強大すぎる術力を肩代わりしてもらって人間の器を守ってきたんだろ。だったら、その肩代わりする『夜』の役割を俺様にやらせてくれ。そうすりゃ姫さんは今まで通り生きられるはずだ。」
光胤の説明に、仁美はしばらく黙ってから訊いた。
「それは、本当ですか?」
「ああ。本当だ。俺様は人間の姿を得て、姫さんは自由に生きられる。一石二鳥、一挙両得の大チャンスだ!矢集の馬鹿野郎のために死ぬのなんかよりよっぽど良いアイデアだぜ!そうだろ?」
仁美はどきりとした。
「この鍵、大かたカグヤあたりにそそのかされたんだろうけど、こんな選択馬鹿げてるぜ。俺様は世の中甘いくらいが丁度良いと思ってる訳。誰かのために死ぬより、誰かのために生きた方が良いって、思わねぇ?」
仁美は光胤を見た。光胤の言葉にも表情にも希望があった。このような闇の中で窮地に追い込まれた状況でも決して諦めずに前を進もうとする姿だった。
「お強くていらっしゃるんですのね。」
仁美は手を握り締めた。ここへ来てから少ししか経っていないというのに、かつての自身の手とは思えないほどに細い指になった。きっと晋は心配していただろうと思う。
「私はきっと地龍に戻れません。そんな私と契約すれば光胤様もまた戻る場所を失うのではありませんか?」
「大丈夫!何とかなるから!今会ったばっかの俺様を信じろとは言わねぇ。姫さんは姫さんの望む未来のために、俺様の手を取ってくれ!契約すれば俺様達は一蓮托生。どちらかが死に契約が破棄されれば、俺様は鬼となり討伐され、姫さんは力に取り殺される。お互いに死ぬ訳にはいかないって事。約束出来る?」
光胤はもう一度手を伸ばした。
どう見ても鬼の恐ろしい手だ。
けれど今はこの手にかけるしかない。
仁美はその弱くて小さな手を、その恐ろしい手にそっと乗せた。
「お約束いたします。私まだ晋さんを幸せにしておりません。まだ死ぬ訳にはいきません。」
「上等!」
光胤と仁美の視線がしっかりと合って、そこに新たな関係が成立した。
黒烏の切っ先が光を流して刃霞に振り下ろされ、刃霞はその長い刀身で黒烏の軌道を反らした。二つが交わる鋼の高い音が響き、鋭利な刃が火花を散らして熱を灯した。
恭は黒烏を右に構え、左で朱烏を抜いた。
晋は刃霞を逆手に低く構え刀身を隠した。
互いの間に刃よりも心が急いてぶつかり合い、一歩遅れて駆けだす。
刀同士の重い殺気がぶつかり合い、反射で精いっぱいになり思考が追い付かない。徐々に頭の中が真っ白になっていき、お互いの刃がただお互いの命を取りに迫る。
すべてを削ぎ落した純粋な刃が、物言わぬ美しい太刀筋が、知音のくせを知り尽くした型が、ただ鎬を削り合っていく。とてつもなく長いスローモーションにも感じられ、ほんの一瞬の閃きにも思われた。
何故。
恭が最も問いたい想い。
しかし口にしたのは晋だった。
「何でっ…」
恭は目を見開いた。
「何故、それをお前が問う!」
恭の熱を帯びた刃が晋を正面から打ち砕こうと迫った。
その時だった。
「おやめなさい。」
二人の間に割って入った者がいた。
恭はその人に刃を止められ、熱を奪われ、立ちつくした。
「な…毘沙門殿?」
そこに立っていたのは、死んだはずの安達道白その人だった。
「今、貴方方が争う理由はありません。」
凛として穏やかな、多くが聖人と崇めるその佇まいで二人を諭すように言った。
「何故、死んだはずでは?」
晋に殺されたはずだ。大衆の目の前でむざむざと殺された。そのはずだ。
「頼まれたからですよ。晋のために死んでくれと。」
「…は?」
確かにあの時晋は「俺のために死んでください」と言っていた。
恭が状況を理解できずにいると、反対側から晋がまくし立てた。
「道白さん!遅いですよ。今までどこ行ってたんですか?葬式まであげるから本当に死んだんじゃないかとひやひやしましたよ!」
「こらこら、私を責められる立場だと思っているのですか?それに葬儀は幸がどうしてもと言うからやったのです。安達家の葬儀を幸がしきったらばれませんか?と訊いたのですが、見事に誰も疑わないのですから正直複雑でした。」
すべて偽装だったと言うのか?恭は段々理解し始めた。
「だって…じゃあ遺体は?」
「あれは千之助くんに用意してもらいました。適当に見つくろってもらって助かりました。あ、妻は演技に自信がないというので寝込んでもらいました。息子も若輩ゆえ演技力が疑わしかったので隠しています。」
つまり、晋は仁美のために誰かを殺さなくてはならず、その相手を毘沙門に頼み死んだふりをしてもらった。その協力者が幸衡と千之助?おそらくあきらもだろう。
「…お前ら、揃って俺を騙していたのか?」
恭が腹の底から怒りを溜めた声を出したので晋は慌てて弁明した。
「いやいやいやいや、恭まで知らないなんて俺知らないし!」
「貴方方には敵も注目していますから、知らない方が良いと思いまして。おかげでリアルな敵対関係が見られて敵も疑っていません。俺も死んだ事になっているおかげで自由に動く事が出来ました。」
毘沙門の穏やかなもの言いに毒気を抜かれた恭は、いくらかの憤りを視線に宿して送る事しか出来なかった。
「いつから企んでいたんだ?」
恭が問うと晋は必死に弁明を続けた。
「企んでないって!俺は必死にその場凌ぎで!」
「ええ、晋に頼まれたのはあの試合の時でした。幸が止めに入って来たので上手くいかないかと思いましたが、逆に協力者として抱き込む事に成功しました。」
「あの時、あの場で、何の討ち合せもなく死んだふりをしたと言うのか?」
恭はもうつっこむ気も失せ呆れた。
「嘘をつくのなら完璧に相手を騙しきらなくてはなりません。」
悠然と言い放つ毘沙門に恭は肩を落とした。幸衡が隠していた何かはこの事だったのかと知ったが、やはり想像通り恭の不利益となる謀略ではなかった。
「幸はどうした?まだ何か企んでいるのか?」
恭は刀を収めながら訊いた。毘沙門は頷いた。
「俺は地龍様と晋を連れに、幸は仁美さんの所へ救出へ行く手筈になっています。」
「幸さんが?でもひぃさんは檻の外に出られないんだ。」
「それなら大丈夫です。そっちは光にまかせました。なんとかなるはずです。」
「光さんが?」
「おや、気が付いていませんでしたか?一角は光ですよ。」
「…え…え〜?」
晋は思い返して見た。
「え…そう言えばやたら俺につっかかってきたような。何で殺したって言ってたけど、あれってもしかして何で道白さん殺したんだって意味?あ、神器盗みに行った時、宗季さん庇ってたし、俺の事も助けてくれたような…。まじでか…。」
混乱しつつも状況整理している晋に、恭はもう言う言葉が思いつかなかった。
「どこまで用意周到なんだ。腹立ってきた。」
呆れる恭と目が合うと、晋は手を合わせて謝った。
「恭、びっくりさせてごめんね☆」
「軽い!後で土下座しろ。」
「後で?」
「帰ったら!」
「はいはい、全部済んだら土下座して足舐めますよ。」
「気持ち悪い事するな。」
後で。帰ったら。此処まで来てその未来が来るんだろうか?毘沙門が生きていたとして、それで全てが雪がれる程潔白ではない。晋がかつてのように恭の隣に立つことはおそらくもう無いだろうと、分かっていた。
一瞬の沈黙をおいて晋が声を上げた。
「そうだ!道白さんどうやってここに?」
「それは、あの方のお導きがあったからです。」
毘沙門の指す方には、うっすらと人の形をした空気があった。ゆっくりと風のように近付いて来るにつれ、その姿をはっきりとさせて行った。
「兄さん?」
恭は呟いた。その空気の塊が人の輪郭をはっきりとさせていくにつれ、その顔立ちが貴也によく似ている事に気が付いた。
そうしてその透き通る薄い手を恭の胸にあてると、ようやくその姿がくっきりと目視出来た。
「俺は神門雅貴という。遠い昔、君の先祖だ。」
声は微かに耳に届く程度だった。
眼は見えていないのか瞑ったままで、琵琶を携えた僧の姿だった。
「俺は九条兼実のつくった循環装置を止めるために命を落とした。そしてその余波に巻き込まれ影響を受けて彷徨う思念体となってしまった。霊体ですらないためとても弱い存在だ。こうして存在を維持し続けられたのは長年広元の造った転生装置の元、龍脈の力を浴びていた所為だろう。龍脈の力に触れていれば多少はっきりするだろうが、離れてしまうと視認すら困難な存在だ。こんな微弱な者の分際で言いずらいが、君達に転生装置を破壊して欲しい。そのために俺の出来る事ならば何でもしよう。」
薄いベールに投影したような微かな姿に、恭も晋も目をみはっていた。声も何とか聴き取れる程度で、本当に微弱な吹けば消えてしまいそうな存在だ。
「俺は運良く視認できたため、この雅貴様に導かれ地下迷宮へ入る事が出来、転生システムの場所を確認しました。また、地下迷宮で光との合流に成功したのも雅貴様の導きあっての事です。光は『夜』の部分が多い所為か早くから接触があったようですが。」
毘沙門の補足説明を持って恭はその薄い幽霊とも呼べないような微かな存在を頼りに再び地下迷宮へ挑むしかないと知った。
「成程、では案内してもらおうか。その転生システムの元へ。」
雅貴は消え入りそうな微笑みで頷いた。
その頃、地下迷宮を地龍部隊と逆に進む仁美と光胤は周囲に警戒しつつ話していた。。
「いいか、俺様達がいる奥側半分には転移出来るポイントがねぇ。姫さんを地上へ戻すには前側のポイントまで移動しなきゃならねぇ。だが今前側には大量の地龍の軍隊が押し寄せて戦争状態だ。向こうは矢集を殺すつもりで来てるから姫さんも見つかればただじゃ済まないだろう。何とか見つからずに無事に移動しなきゃならねぇ。気合い入れて付いて来いよ。」
「はい。光胤さま。」
すっかり人の姿を取り戻した光胤は、仁美を背後に付けて先を歩く。仁美は光胤の後ろでびくびくしながら付いてくる。元々育ちの良い御譲様の仁美の振る舞いに、光胤は少し戸惑っていた。
「…光胤で良いって。」
「しかし。」
それは仁美も同じで、光胤の言動にどう対処して良いものか分からないようだった。
「姫さんが主で、俺様は子分。姫さんは常に俺様の上位者でなけりゃなんねぇ。少しでも力関係が逆転すりゃ契約が壊れちまう。契約ってのはそういうもんだ。しっかりしな。」
光胤が強く言うと、仁美は覚悟を決めたように頷いた。
「…はい。光胤。」
「よし、行くか!」
契約は成立し、光胤と仁美は一蓮托生の身となった。実際仁美はいままでより体調が良い気がした。
壁沿いをそうっと歩く二人に、対面して鬼が二人やってきた。光胤はすぐさま戦闘へ入ろうとしたが、鬼は何故か二人が見えていないかのように素通りして行ってしまった。
「あれ?何で?」
去って行く鬼を見やりながら光胤が首を傾げると。仁美は息を吐いて言った。
「マインドコントロールですわ。私、光胤と契約して霊師の能力を今まで以上に操れるようになっている気がいたします。」
「すげ…。」
「一時的な錯覚ですので私から離れ過ぎれば解けてしまいますわ。さ、先を急ぎましょう。」
光胤の後ろで怯えてはいるが、仁美の戦力は光胤の想像を上回るようだ。
そうしていくつかの鬼との遭遇も仁美によって戦わずに過ぎ去り、大分進んだ所で呼びとめられた
「光胤くん!」
「お〜、幸!」
光胤が歓喜の声を上げるので見ると、相手は幸衡だった。仁美は驚いて光胤の影に隠れてから、そっと顔を出した。
「どうした、姫さん?」
「あの…幸衡様が、安達道白様のご葬儀を取り仕切られたと伺っております。その…晋さんがした事とは言え、全ては私のための事。私が、悪いのでございます。どうか、ですからどうか晋さんを御許しください。」
頭を下げる仁美を見て幸衡は面喰った。
「光胤くん、君は事情を説明していないのか?」
「え…そういや忘れてた…。」
「仁美殿、貴方も光胤くんをその能力で心でも記憶でも読んでしまえば良いものを。」
「え…どういう事でございましょうか?」
辟易したように頭を押さえると幸衡は仁美を見た。
「良いか?毘沙門殿を殺したのは晋くんの演技だ。故に生きている。葬儀は怪しまれぬよう私が行った。本来他家の葬儀にしゃしゃり出たりはせぬ。光胤くんは途中から毘沙門殿と合流し我等の策に乗ったのだ。ちなみに、葬儀の遺体の手配をしたのは千之助くんで、仁美殿との契約という方法を考えたのはあきらだ。分かっただろうか?故に仁美殿が謝罪する事は何一つとして無い。」
「…え?」
仁美は幸衡の整った顔をまじまじ見たまま固まった。
「そう、でしたの?」
「そうだ。」
「ごめん、姫さん。説明し忘れた。」
光胤が軽く謝って来るのを見て、仁美は笑いだした。
「そうでしたの。な〜んだ、そうでしたの。よかった…晋さんが私のために大変な罪を犯されたのだとばかり思ってしまいましたわ。なんだ…本当に良かったですわ。」
「地下迷宮内じゃどこで誰が見てるか分かんねぇから、矢集も警戒して言えなかったんだろ。姫さんは檻の中じゃ能力を使えなかったし、仕方ねぇよ。」
「私失格ですわね。晋さんを信じられなくて。」
今度は俯く仁美に、幸衡はフォローするように言った。
「いや、信じていたのだろう。君のためならば、とことんやるだろうと。君はそう信じていたから思いつめてしまったのだ。悪くない。」
「…ありがとうございます。私、能力が使えないという事がどういう事が分かりましたわ。人の心を読めないという事は、こうやって誤解やすれ違いや僻様を乗り越えていかなければならないという事なのですね。」
仁美が改めて幸衡と光胤に頭を下げた。
「助けてくださって、ありがとうございます。」
光胤は満面の笑みで返した。
「こちらこそ!」
そう言ったところで、幸衡の後方からくたびれた千之助が走ってきた。
「ちょっと、幸さん待ってくださいよ。」
「お〜、千。久し振り。」
手を振る光胤に、弱弱しく手を振り返す千之助は幸衡の隣まで辿り着くと呼吸を整えた。
「仁美殿はここから奥州へ転移して頂く。身の安全はあらかじめあきらに任せてある。」
「俺が送ります。さ、一緒に。」
手を出す千之助に、光胤は一応訊いた。
「処理班のお前が何でここにいんだよ?」
「幸さんに頼まれて色々と。毘沙門さんの葬式用に遺体を用意したり、あきらさんの手伝いをしたり、こうして仁美様を迎えに来たり。」
「おい、お前いつから幸に付いたんだよ?まさか奥州へ行くのか?」
「好条件で引き抜かれつつある。光も京都に帰って来そうにないし、それも良いかなって。」
いつの間にか幸衡に抱き込まれている千之助に、光胤は少し呆れた。
「そーかよ。こんな時にのーてんきな奴。姫さんを頼むぜ。今の姫さんと俺様は一蓮托生なんだからな。」
「それはこっちの台詞だろ。お前の命には仁美様の命もかかってるんだからな。無理しないで帰って来いよ。」
千之助と光胤は勢いよく掌を打ち合せた。
そして仁美は千之助にまかせ、光胤と幸衡は再び奥へ向かった。
「で、幸はこれからどうするって?」
光胤は走りながら訊いた。
「私は恭くんに合流するため捜索する。だが一度源義平殿・平重盛殿がいる本陣へ戻ろうと思う。状況の把握が必要だ。」
「なる。俺様も主と合流して次の指示を貰う。」
「では共に向かうとしよう。瘴気の根源の元へ。」
幸衡と光胤は、この地下迷宮で最も瘴気の濃い部屋へと向かっていた。
カグヤは立ち尽くしていた。
仁美がいたはずの檻は開け放たれ、中には誰もいなかった。
檻の外にはカグヤが与えた鍵が落ちていた。そして食い散らかされた鬼の残骸。
「どういう事よ、これ。」
カグヤの目には怪しい光が宿っていた。怒り、憎しみ、悲しみ、負の力をエネルギーにした強い光だった。
「どうして逃げられたのよ。あの女。」
カグヤは鼻を鳴らした。仁美程の術者は気配や匂いが強い。辿って行けば必ずいる。
「あの女。私の矢集をたぶらかした、あの女。あんな女、死ねばよかったのに。死ねば。死ね、死ね、死ね、死ね、死ね…。」
カグヤは唱えながら猛スピードで後を追って行った。
「おい、カグヤはどうしたんや?」
兼実が訊くと、鬼たちは首を横に振った。
「知らない。どうでもいい。」
「どうでも良い事ないがな。仲間やないか。」
「兼実、それ本気で言ってんだったら死んでくんない?うざい。」
「あ〜、ごめんごめん堪忍な〜。ちょお言ってみたかっただけやさかい、心にも思うてへんで〜。せやからもおええわ。おらん者の事はどーでもええ。今は目の前の人間どもを一掃するだけや。」
兼実が舌舐めずりをすると、鬼たちが早く早くと号令を待った。
「ええか、雑魚は放っとけ。転生組の首を取るんやで。」
「分かったって。早く行こう。もう待ち切れない。」
「分かった分かった。ええわ、ほな行こか。」
兼実の許しが出て、鬼たちが一斉に走りだした。
走るのと同時に邪魔な兵どもを手にかけて行く。たちまちに倒れて行く兵達は何が起こったのか理解せぬまま事切れていた。
長い年月をかけ人を集め、人の残滓を集め、育て上げ造った巨大な瘴気の塊が、地下迷宮中に高濃度の瘴気を噴出し人間たちを飲み込んでいた。その大元である瘴気の塊の眼前で、転生組率いる地龍の軍隊が戦っていた。無尽蔵に吹き出す瘴気の中から現れる鬼たち、瘴気に飲まれ死ぬ者、狂う者、暴れる者。正にその場は阿鼻叫喚の地獄と化していた。
兼実は広元の命により、養殖組の中で最も使える十人程を引き連れ転生者を殺しにやってきた。
カグヤのように何人か命令を無視して突っ走っている者もいるが、まさかサボっている訳でもあるまい。この状況で何もしない奴は鬼ではない。この血の匂いに誘われて心踊らない奴は鬼であるはずがない。おそらく姿が見えない奴等もまたどこかで興に溺れているのだろう。血肉飛び散る最高の宴の興に。
瘴気の濃度は最高に心地よいレベルだ。兼実は今までで一番のコンディションで狩りを楽しめる気がした。仲間たちも最高に楽しんでやる気満々だ。
あちこちから悲鳴が響き、逃げる者達は背中から切裂かれ、転生組は右往左往、兼実は自らに相応しい相手を見定めるように高い場所から見下ろして笑った。
すると、どこからとんできたのか矢が頬を掠めた。
見ると対角線上に直嗣が弓を構えていた。
「親さん、はずしました!」
「うるせー。見れば分かる。」
兼実は頬から流れる血を拭った。
「あれは…。そうか。景清の獲物やったな。」
直嗣と実親は兼実を見据えていたが、兼実は不敵に笑っていた。
「お前たちのために、特別な薬を使ってやろうやないか。なぁ、景清。」
兼実の背後にいつ来たのか景清が現れて嬉しそうに笑っていた。
兼実の手から怪し気な錠剤を受け取り、迷い無く口へ放り込んだ。
その小さな少年だった景清の体が禍々しい鬼へと変容していくのを、直嗣と実親は息を呑んで見ていた。
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