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419 現実の事

 その日の午前中、宇治山(うじやま)(そう)は部隊に復帰するための手続きをする為に、平家四神大隊の人事部を訪ねていた。

全国の昏睡者の目覚めにより、復職手続きは大忙し。蒼が着いた時は既に大行列だった。整理券を貰って行列に並んだ蒼は、誰一人として知った顔が無い事に、約六年の歳月の大きさを知った。

 手続きのための窓口は複数あったが、一人ずつに時間がかかる為、蒼はおよそ二時間程並んで漸く自分の順番となった。

窓口に辿り着いて座る時、何となく後ろを振り向いてみたら、蒼が来た時よりも大行列だ。この人数が今日中にさばけるのだろうか。

 「凄い人数ですね。」

言いながら座ると、受付事務員は疲れた様子で答えた。

 「連日この勢いですよ。受付後に手続き事務を行いますが、混んでいるので時間が掛かります。今日受け付けたからと言って、すぐに復職出来ませんので、予めご了承下さい。」 

事務員のデスクは受付済の書類が山になっていた。この人数をさばくのも大変だが、仕事はその後もある。むしろ、この人数を復職させる事務作業の方が大変なのかも知れない。

蒼はそれを察して頷いた。

 「分かりました。」

 本当は早く復職して給料を貰いたかったが、ここでごねても仕方がない。大人しく受け入れるしかない。

 「宇治山蒼さんですね。医療術者ですか…。」

PC画面を見た事務員が何やら意味深に言った。そして(おもむろ)に尋ねた。

 「来年三月まで休職して、来年度から復職する方法もありますが、どうしますか?」

 「え?」

唐突に問われた選択肢に、蒼は疑問符を浮かべた。問われた意味が分からなかったのだ。その不思議そうな顔を見て、事務員は何も知らないのだな、という表情になった。

 「戦を戦い生き抜いた方は、全員が戦勝功労者であると言うのが、紫微星(しびせい)様の御考えです。そのため、昏睡者の社会復帰において、昏睡による不利益を被る事は望ましくありません。そこで、全部隊が原則として昏睡者は昏睡前の職位を維持した状態での復職が認められています。ただ、終戦後の部隊は再編をしていますので、内部構造や役職などが変わっています。以前の職位相当の立場には、既に別の方がお勤めですから、年度途中での復職の場合、ひとつの椅子に複数の方が座る形になります。」

 「はぁ…。」

 「武士や術者は人員不足の所の多いので、多少違和感のある人員配置になっても、復職を望まれる場合もあります。ただ、医療術者をはじめ専門職は、戦後の部隊内の需要が減っています。急いで復職する必要はあまりないかと。それならば、このまま今年度は休職なさって、来年度の人事異動で新たな辞令を受けた方が、ストレスも無く、働き易いかも知れません。」

 「…その場合、当然三月まで無給ですよね?」

 「そうなります。ただ、待って頂くので、きちんとした職位と人事配置をお約束します。」

 要するに、戦の激化で医療術者が必要だったが、終戦後は間に合っているのだ。昏睡者の復職は、今ある秩序にねじ込む形になるので、調和が乱れる。足りている役職に復職しても、そう仕事は無く、異分子であるから浮く。そういう精神的なストレスを思えば、三月まで休んで、四月から新しい職場に配置されてスタートした方が良いと。

事務員の言い方は、親切そうでもあるが、何となくそうしてくれた方が事務上楽だと言っているように聞こえた。

 「そうですか。でも、お金が欲しいので、出来るだけ早く復職したいんです。」

 そっちも事情があろうが、こっちも事情がある。控えめにしていると押し切られそうに思えて、蒼はもう正直に言った。復職した先に居場所がなくとも、給料が必要だ。昏睡していた事を自省する身であるから、多少のストレスは受け入れる。

 「…わかりました。」

お金が欲しいとはっきりと言われては、事務員も引き下がるしかない。気まずい表情は、不満では無く、蒼の懐事情を憐れんでいるのだろう。やばい事を聞いてしまったな、というバツの悪い顔の事務員は、誤魔化すように手続きを始めた。

カチカチとクリックする音が数回した後、手が止まった。

 「部隊出仕契約をしていますね。十年勤務で、生涯の研究費…ですか。流石は宇治山(こう)様の弟さんですね。」

蒼の情報を見た事務員の呟きには、破格の条件で結ばれた契約への慄きが込められていた。十年と一生涯が釣り合うなんて、能力をとんでもなく高く評価されているのだ。それ程に優秀なのか、と思ってみれば「宇治山」。あの宇治山紅の弟。なるほど。という思考プロセスが見て取れるようだった。

 「契約の凍結解除手続きが必要です。これには少し、時間がかかります。その分復職は伸びますが、ご理解ください。」

 「…仕方ありません。」

 お金が無くて早く働きたいのに、可哀想。そういう目をした事務員に、蒼は不承不承頷いた。

宇治山家の惨憺たる現状は、すべて蒼が昏睡していた所為だ。昏睡していなかったら、今頃は部隊出仕契約を果たして研究費を受けられたのに。部隊出仕中の給料も合わせれば、宇治山家が結婚詐欺をする程までに困窮する事はなかったはずだ。

 何もかも昏睡が悪い。蒼の悲壮に、事務員が申し訳さなそうに言った。

 「それから…。先程も申し上げましたが、戦後は部隊での医療術者の需要が減っています。こうした特例の部隊出仕契約は廃止される予定です。この契約が不履行となった場合、新規の契約は出来ませんので、肝に銘じておいてください。」

 「なくなる、んですか?」

蒼は驚いた。この部隊出仕契約は長年宇治山家の収入の要だった。蒼は今後もこの契約を頼みに、宇治山家を運営していくつもりだったのだ。つまり、蒼が結婚して子どもが生まれたら、その子にも将来はこの契約を結ばせて、部隊に出仕させようと思っていたのだ。

だが、この制度自体が無くなるとなると、その目論見は外れる。宇治山家は上からの運営費支給も縮小し、部隊からの研究費支給も絶たれたら、財源が無くなる。

愕然とした蒼を、事務員は可哀想に思ったのか少し声音を優しくして言った。

 「戦時中は怪我人も多く、原因不明の症状などが散見されました。戦場に出てすぐに対応できる、部隊所属の有能な医療術者が、できるだけ沢山必要だったんです。ですが、有能な医療術者は医療術者業界から出てきません。ですから、こうした破格の契約条件で釣るしかなかったんです。部隊の財源も限られる中、どうしても医療術者が必要であったために作られた制度です。戦が終わり、怪我人も減りました。部隊の医療術者は足りていますし、病院も受け入れる余裕があります。部隊も、この制度に使っていた予算を、再編復興へ回すべきと判断しました。分かってください。」

 戦が終って、世の中の何もかもが変わった。蒼は改めてその現実を思い知った。やはり約六年の空白は大きい。

 「親切にご説明、ありがとうございます。よく、分かりました。」

 そう言うしかなかった。やはり、ここでごねても仕方ないのだ。すべては蒼が昏睡していたから、悪いのだ。蒼は全て自分の所為だと思った。

 手続きを終えて椅子から立つと、後ろは長蛇の列だ。改めて、事務員はよくやっているな、と思った。


 ◆


 四神大隊を出ると、もう昼を過ぎていた。朝から吹いていた強風が雨雲を連れて来たのか、何だかどんよりとした空模様だ。

蒼は傘を持って来なかったので、少し不安になった。この足でもう一か所寄るつもりだったのだが、傘を取りに一度家に帰るか迷った。だが、面倒くさくなってそのまま行く事にした。

 向かったのは、長く入院していた救済院だ。

両親は蒼を無認可の救済院に入れた事を恥じていた。蒼は昏睡していたので、どういう場所かは知らない。両親は具体的には言わないものの、相当に酷い環境だった事は察せられた。もし蒼がその救済院を訪ねると言えば、蒼に事実を知られたくないとして、両親は止めるだろう。だから訪ねるとは言わなかった。それとなく母に場所を問うて、地域を限定する事が出来たので、それを頼りに行ってみるのだ。

 救済院というのは、元より困窮者のための受け皿だ。部隊や統治家門が運営し、少しばかり医療費が安くなっている。病院で精査されて正式な手続きを踏んだ者だけが、転院する事の出来る病院だ。外来も無く、急患の受け入れも無い。そして安い分だけ、治療のレベルは低い。

特に無認可の救済院というのは、更にレベルが低い。行く宛ても無い者を受け入れるだけの、収容所のような場所だ。

 それでもそういう場所が必要だった。それも全て、戦の所為だろう。蒼は戦を中心に社会が構築されていたのだと思った。

 蒼は当該地域に着くと、地図アプリでそれらしい建物を探した。目に入ったのは病院のマーク。タップしても情報が無いのは、廃病院か。無認可の救済院は新しく建物を建てる事が少ないので、それっぽいなと目を付けて向かった。

 目的は御礼だ。

 財源も無く、人手も無いと言うのに、崖っぷちの患者を受け入れているのは、最後の砦だ。どんな劣悪な環境だろうと、そこに生かされている者にとっては、救いに他ならない。

蒼とて、そこで長い間お世話になったのだから、お礼があって然るべきだ。安い菓子折りを持って向かうと、そこはまるでお化け屋敷だ。迫力のある佇まいに、蒼は少々怖気づきながらも、意を決して踏み込んだ。

 庭とも呼べない荒れた土地を歩いて、正面玄関かどうかも良く分からない扉を叩いた。

 長年入院していたと言うのに、初めて見るのだから不思議な感覚だ。外側から見ても、廃屋感がやばい。これは耐震性とか大丈夫なのだろうか。色々と心配になるも、おそらく建物を直す余裕などないのだろうと思った。この救済院は無認可であるから、患者は正規の救済院でもあぶれるような者だろう。そうした患者に支払い能力があるはずがない。入院医療費が支払われないのに、運営を続けているのは、まるごと慈善でしかない。見上げた志には、感謝しかない。

 そんな救済院に、宇治山家は蒼の入院医療費を支払っていない。いや、支払えなかったのだろう。現在はツケ状態なのだ。

 正直な気持ちでは、蒼自身が救済院のような生活困窮者が入る病院に入院していた事は、酷く屈辱だ。だが今は、それよりも申し訳なさが大きかった。せめて蒼の医療費が支払われていたら、救済院は少しでも助かっただろうに。何か一つでも設備投資がされ、マシな治療を受けて回復する患者がいたかも知れないのに。

そう思うと、居ても立っても居られなかった。今は金を用意する事は出来ないが、部隊復帰後には必ず少しずつでも支払うからと、その旨を伝えるつもりだ。

そして、蒼で良ければボランティアで働かせて貰えないかと、申し出るつもりだった。ブランクはあれど、これでも医療術者の端くれだ。恩は労働で払うという手段もあろう。

 諸々感謝や謝罪が込み上げて来たが、扉の向こうからは誰も出て来ない。もう一度叩いてみたが、しんとしている。仕方なく、勝手に入ってみた。おそらくその辺りに受付があろうと思ったのだ。

 案の定、扉の鍵は開いていた。

 「こんにちは!」

蒼が大きな声で呼んだが、誰も返答が無かった。

 「休憩中か?」

いくら何でも、まさか誰もいないはずが無い。蒼は誰かスタッフを探して、院長を呼んで貰おうと思って、歩き出した。

 しかし、酷い臭いだ。戦場を経験している蒼からしても、不快感が強い。まともな掃除や管理が行き届いていない事は、この臭いだけで分かる。だが、ここに生かされた蒼は、それを責める立場では無いと思った。

 蒼の中で、これが医療の現場かという憤りと、これでも救われる人がいると言う思いが、相対して戦っていた。

 いつの間にか無意識に、病室の扉を開けていた。スタッフを探していたはずが、この救済院の実態への懐疑が体を突き動かしていたのだ。

 ゆっくりと扉を開くと、中には押し込められたベッドと昏睡している者たち。

 明らかに異常だ。医療器具は何もなく、隙間なく置かれたベッドは、輸出待ちの自動車の群れに似ていた。このまま何処かへ運び出すための、中継地点であるかのように、ただ押し込んであるだけに見えた。一切の治療を受ける事も無く、ただ放置されているように見えた。しかも…。

 「まさか昏睡者、なのか?」

 昏睡者は治療法が確立して目覚めているはずだ。一般的には、もう昏睡者はいないとされている。

だからここにいるのが昏睡者であれば、敢えて治療されず放置されているとしか思えない。そして、社会から取りこぼされた存在である。

 その事実がよぎった時、蒼がゾクっとした。最近までここで、彼らと同じように昏睡していたと言う事実が、恐ろしく思えたのだ。

 蒼は急き立てられるように、他の病室を見て回った。どこもかしこも同じだ。意識不明の患者が放置されているだけ。医療器具はどこにもない。地龍の全病院にあると言う清浄機も無い。いくらジリ貧の救済院でも、これは酷すぎる。これでは墓場だ。

蒼は荷物を床に置いて、一階から二階に上がり、そして三階へ。そう大きくない施設ではあるが、本来受け入れ可能な人数を完全をオーバーしているのは瞭然だ。

 そうして一番端の部屋を開いても、同じ有様だったのを見て、蒼は立ち尽くした。

 ここには何もない。ただ寝かされているだけだ。この環境であったならば、自宅で面倒を見て貰った方がマシだった。わざわざ金を払って(まだ払っていない)入院しなくても、自宅の寝室に転がしておいてもらった方が、金銭的にも衛生的にもずっと良かった。

ならばどうして両親は蒼をここへ入れたのか。分からない気持ちが、思考を引っ掻き回した。だがその時、みよの顔が浮かんだ。冷静に事実を見つめねば、また身勝手な誤解で事実を捻じ曲げる。そう自覚した蒼は、深呼吸して見回した。

 両親はここへ足繁く見舞いに来ていた。だが、蒼を移そうとは思わなかった。ならば、両親はこの実態を知らなかったのだろう。少なくとも、蒼は最低限の扱いで入院していて、治療を受けていると思っていたのだろう。

だが、この施設には治療のための設備や道具が無い。とすれば、両親は騙されていたのだと分かる。

 「…詐欺か。」

 無認可というものの恐ろしい所は、何の後ろ盾も保証も無いと言う所だろう。

 蒼は、先程までこの救済院をまるごと慈善の清き志だと感謝していた事が、馬鹿らしくなった。

 「だが、どうして…。」

 この救済院が異常なのは間違いない。そして何の治療もしないで救済院を名乗る詐欺である事も明白だ。だが、目的は何だろうか。

悪しき医療術者は金に困ると、金持ちを騙して根拠のない施術を行って稼ぐと聞く。治療せずに治療費をせしめるならば、意味が分かる。けれどここは救済院だ。特にこの救済院の患者は支払い能力が無い。全く儲けが無いのだ。こんな事をする意味が分からない。

 蒼は廊下から病室の方を見た。

 大量の意識不明者。世の中から見捨てられて、廃棄されたような者たち。それを集めて、何の役に立つのか。

 「…人身売買、か?」

 考え得るのはそれくらいだ。どういう種類の人身売買かは分からないが、普通に考えて内蔵か眼球か、血液と言う事もあろうか。だが地龍特有の人身売買もある。邪術の人体実験や、贄。特に呪術ならば、大量の贄が必要だ。

 「まさか…。」

 いや、まさかね。蒼がその想像は流石に突飛過ぎると思った時だ。

 「誰だ?ここで何をしている?」

 誰もいないと思っていたのに、唐突に声をかけられて、蒼は心臓が止まりそうな程びっくりした。見れば、そこにいたのは白衣の中年男性だ。サンダル履きで薄汚く、手をポケットに入れた姿勢が更にだらしなく見えた。だが白衣であるから、医者だと思われた。

 「アンタこそ誰だ。ここの医者か?」

 蒼はもうここが救済院のフリをした犯罪施設であると確信を持っていた。だから医者だろうが医者じゃなかろうが、この白衣の男は犯罪者だ。警戒して睨むと、男は蒼の顔を見てはっとした。

 「宇治山蒼か。目覚めたのか。退院して回復したのに、わざわざ戻って来るとは、何の用だ?」

長く入院していたのだから、顔を覚えられているのはおかしくない。だが、決していい気分ではない。蒼は男の顔を見ながら、どこかで見た事があるような気がした。

 「回復して退院すべきだろ。退院して回復って、頭おかしいんじゃないのか。アンタこそ何者だ。この施設の責任者か?」

問うと、男はニタっと笑った。

 「そうだ。俺はこの救済院の院長だ。」

 「ここは救済院なんかじゃないだろう。」

食い気味に否定する蒼に、男は笑んだまま問うた。

 「では何だと?」

 「…物言わぬ生きた肉体を集めるための場所、なのだろう。」

憎らし気に言うと、男は大袈裟に驚いた顔をしてから言った。

 「はは、これを見ただけで、そこまで分かるか?流石は宇治山紅の弟だ。」

 その感想には、危険思想を持った紅の血を感じると言う意味に聴こえた。邪術に傾倒して廃嫡となった紅は、功績を認められたとは言え、今以て司法局から睨まれる危険人物だ。明らかに紅を馬鹿にするような言い方をされて、蒼は腹が立った。

 「紅兄様を侮辱するな。」

 「侮辱などしないさ。宇治山紅は度々禁を犯したにも関わらず、戦勝に寄与したとして功績を認められた。悪しき手段を許され、称賛され、地位も名誉も富も手にした。実に素晴らしい事だ。」

 「必要なのは扱う者の正しき心だ。紅兄様は世の為に正しく尽くした。それを認められるのは当然だ。」

 「そうだ。その通り。同じように俺も世の為に正しく尽くしているのだ。多くの贄を集め、呪術にくべる事で、晦冥(かいめい)教に尽くしている。呪いによる終焉こそ、この世の正しき終わりだ。そのためにこうして、一銭にもならない救済院をやっているのだ。」

耳障りな狂った笑い声が廊下に響いた。男の言っている事は、蒼には全く理解できなかった。だが、男の顔を見ていたら、どこで見たのか思い出した。

 「アンタ。以前、紅兄様の名を使って詐欺をしていた闇医者じゃないのか?」

 「…は?」

 蒼の指摘に、男は呆然とした。

 「やっぱりそうだ。新聞で見たのだから間違いない。確か…楠井(くすい)、と言ったか。紅兄様の名を汚した罪人の顔を、私が忘れるはずが無い。どうやって釈放されたか知らないが、どうせ世の中を恨んで身勝手な犯罪者に落ちぶれたのだろう。」

 「ふ…あはは、そうか、そうか。俺の素性までバレてしまっては、どうしようもないな。」

開き直ったように笑いながら、蒼の方へ歩み寄って来る男に、蒼は恐怖を感じた。

 「世の中にはな、家族にも運にも見捨てられ、人知れず死ぬしかない可哀想な者たちがいるんだ。この施設ではな、そういう連中を集めて、呪いの贄にしてるんだよ。」

親切そうに教える男は、ポケットから手を出すと、蒼に向かって振った。何かを持っていると気付いた時は、もう遅かった。

 「真実を知った者を逃がす訳にはいかない。宇治山蒼、お前も贄になって貰うしかない。」

 「…贄…?」

 首に注射器が刺さっていた。痛みよりも早く、蒼の意識は遠のいた。

 朦朧とする意識の中で蒼は、何もかも上手くいかない、と思ったのだった。


 ◆

 

 どさ、と荷物の様に倒れ込んだ蒼を見下ろした楠井は、面倒くさそうに頭をかいた。

 そこへ、階下から女性の看護師がやってきた。

 「何の騒ぎですか?」

咎めるニュアンスに、楠井は肩を竦めた。

 「見ろ。」

 「宇治山さん?どうして。彼はとっくに退院したはずです。何故戻ってきたんですか?」

 「さぁな。何か嗅ぎつけたのかも知れん。」

蒼の頭をサンダルのつま先でつつくと、看護師は難しい顔をした。

 「このままどこかに捨ててきますか?」

 「いやダメだ。何もかもバレた。無事に帰す訳にはいかない。」

それは、このまま始末すると聞こえた。それには看護師が声を荒げた。

 「どうするんですか?宇治山さんは家族がいますし、いなくなったら騒ぎになります。もしここで失踪したとバレたら、言い逃れ出来ませんよ。」

この救済院はちょっと調べられればボロが出る酷い施設であるから、万が一にも蒼を捜索するための司法局の手が伸びれば、一発アウトだ。だから家族から見放された者しか受け入れないようにしていたのに、と看護師が不満そうにした。

 「まぁな。だが、どの道潮時だ。コイツを今夜のトラックに乗せて、ここは畳む。」

 「畳む?でもまだ贄が…。」

 急に言われても。動揺した看護師に、男は容赦なく言った。

 「今夜中にすべての贄を出荷する。追加のトラックを要請してくれ。」

 「ですが、急過ぎます。他のスタッフはどうするんですか?」

 「全員贄にくべろ。事情を知る者を生かして残すな。」

冷酷な男の指示に、看護師は急に無表情になった。

 「分かりました。では、私はここに残り、すべてを焼却します。」

 「一人で?」

 「ええ。私は晦冥教徒です。ようやく、お役に立てる時が来た事、何より嬉しく思います。」

恍惚の笑みを浮かべた看護師の目が笑っていない。絶望を湛えた目をした看護師は、呪いによる世の終焉の為の礎として死する事こそが救済と妄信している。命の使いどころをずっと探していた。それが今夜だと知り、心からの喜び。

 その狂った笑みに、男は呆れた。

 「そうかい。好きにしな。俺はずらかるぜ。翡翠様が御目覚めになるまでに、また新しい方法を考えておく事にする。呪いが世を終わらせるためにな。」

 「貴方は晦冥教徒でも翡翠様の信者でもありません。命を惜しむ者は同士ではありません。貴方はただ世を乱したいだけ。そのために呪いを利用しているだけです。」

 「その通り。だが利害は一致している。問題は無いだろう。」

 看護師の否定を軽く受け流す楠井は、廊下に倒れている蒼の衣服を掴んで引きずった。

 「じゃ、今夜の手配、頼むよ。」

廊下を去って行く楠井に、看護師は何も言わなかった。

 互いに反対方向へ向かって歩き出した。けれど利害は一致している。

 今夜、この施設にいる全ての人間を贄にする。それでここの役割は終わる。

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