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418 空白の事

 十一月の冷たい雨が降るのを、(ぎん)は自分のデスクから見ていた。

 (かさね)大隊は白部隊の拠点である病院は、重大隊本拠点からは離れた場所にある。かつて今の重大隊ビルに隣接する大きなラボとして拠点を構えていたが、敵の侵入を許した事で解体を余儀なくされた。当時は不便になったと思ったが、今となっては重要拠点が一極集中しないと言う利を感じる。当時の幸衡(ゆきひら)の判断と行動の早さを思い出すと、今でも凄まじいなと思う。

 現在地龍では、全ての無認可の救済院に調べの手が入っている。全病院には、正式な手続きをせずに救済院へ転院させる行為の一切を、直ちにやめるようにと厳しいお触れが出た。戦時下に内々で救済院に患者を回していた病院は少なくないだろうから、すべての病院に激震が走っただろう。

 だが、それを他人事のように涼しい顔をしている銀は、本当に知った事では無い。何故って、奥州には救済院自体が無いのだ。その代わりの受け皿として、段階的な患者を受け入れる病院が各所に設けられている。幸衡は各地で人材をスカウトしているので、天涯孤独・孤立無援という身の上の者が少なくない。そうした者たちがひとたび昏睡者にでもなったなら、廃棄処分が如く闇の救済院送りになるなど、あってはならない。そのために、きちんとした体制を作ったのは、スカウトする際の利点でもある。

ただそうとも知らない輩が無認可で救済院を作ってしまう事はあった。あれはいつの事だったか。幸衡が、無認可の救済院に大激怒して、即刻取り壊して叩き出した。そして奥州含め傘下全家門に、怪しげな輩のきな臭い商売を許すな、と脅し上げた。あれ以来、奥州には認可不認可関わらず救済院は無いのだ。

 今にして思えば、あの無認可救済院は晦冥(かいめい)教の施設だったのかも知れない。

 「おい、聞いているのか?」

 ぼうっとしていた銀に、携帯端末から(こう)の不機嫌な声がした。

 「ああ。兄さんこそ、大丈夫なのか?いきなり若い女性と二人で暮らすなんて。諸々の事情を考えたら、彼女は兄さんに逆らえないと思っているんじゃないのか?」

みよを保護している紅への心配は尽きない。けれど銀にも仕事があるので、出来るのは電話で様子を確認する程度だ。

 「何故?衣食住に欠く事は無く、学びも休息も自由だ。何の問題がある。」

 「男女が一緒に暮らす事自体に何も思わないの?兄さんを疑う訳じゃないけど、彼女に手出してないだろうね?」

 「馬鹿々々しい。あれは子どもだ。」

 「二十歳だってば。もし子どもでも、意思がある。ないがしろにしようものなら、兄さんは無自覚のまま虐待の加害者になるだろうね。」

 「…む。そうか。ではいちいち意思確認する事にしよう。」

割と素直な紅が銀の助言を受け入れたので、銀はもう一つ忠告を。

 「その不機嫌で威圧的な態度も、改善した方が良い。特に、女性や子どもには恐がられる。」

 「だが、これは遺伝だ。」

 「…確かに。」

不機嫌な態度は宇治山(うじやま)家伝統芸だ。紅に忠告する銀もまた同類なのが証明。祖父も父も、そして弟たちも皆このタイプだった。

それを思い出すと、銀は不安げに言った。

 「(そう)は大丈夫だろうか。」

 長い昏睡から目覚めた蒼を待ち構えていたのは、夢にまで見た終戦後の世界だと言うのに、宇治山家は没落寸前で詐欺師となり果てていた。現状をどう受け入れるのか。

 「蒼は、俺たち五人兄弟の中で一番、正義感と責任感があった。まっすぐで、素直で、危なっかしい奴だった。宇治山家が落ちぶれていく間、昏睡していた事を悔いているだろうな。あまり自分を責め過ぎていなければ良いが。」

紅が長男らしく心配するのは、何だか懐かしく思えた。

 「そうだな。」

 銀は、もう十四年も会っていない蒼の事を思い出した。会いに行きたいが、出奔した身では、その資格は無かった。


 ◆


 宇治山家五男・蒼が、約六年の昏睡から目覚めたのは、ごく最近の事だ。


 宇治山家は歴史ある伝統の医療研究家系だ。古くはそうした家は上位家門が守ってきたので、稼ぎを生み出す分野でなくとも価値を認められ、研究一本で存続することが出来た。けれど近代になるにつれ、研究の蓄積と継承のみをする宇治山家のような家は評価されず、価値に疑念を持たれるようになっていた。家格は高いが、古臭く黴の生えたような扱いを受け始めると、家門を存続していくために支給される費用は減っていった。世の中が乱れ、戦の対応が急務となると、研究職の医療術者よりも医者として稼働する医療術者の方に重きを置かれるようになった。医療術者と名の付く者ならば、部隊に出仕し、地龍としての勤めを果たせと要求されるようになった。医療術者業界はお高く留まったプライドの塊で、閉じた権威主義社会だが、どこであっても金は必要だ。

そこで部隊は、部隊勤務を条件に研究費用を支給するという契約をして、より優秀な医療術者の獲得に乗り出した。その契約のおかげで、宇治山家は家門存続のための費用を賄えるようになった。

 宇治山家は五人兄弟で、もちろん漏れなく全員が医療術者であるから、五人ともが契約により部隊出仕をすれば、かなり潤う予定だった。

 けれど、実際はそうはいかなかった。


 今から十四年前。宇治山家は、嫡男・紅が廃嫡・絶縁となり、後を追うように次男・銀が出奔して奥州へ転職。だが宇治山家は五人兄弟であったため、痛恨ながら三男が後継者となった。

 ただ、五人兄弟は全員が紅を尊敬してやまなかったため、紅を廃嫡し絶縁して放り出した宇治山家の方針に、不満を抱えていた。けれど、天才である紅や、奥州に引き抜かれた銀とは異なり、若く実績のない弟たちは気持ちだけで実家を出られる程、向こう見ずではなかった。

だから宇治山家に残り、三人で力を合わせ、紅や銀に恥じない家にして行こうと約束した。

 それなのに、三男と四男は相次いで戦死した。残された五男の蒼は、一人ですべての重責を負って戦っていく身だったが、約六年前、戦地にて昏睡者となった。

 蒼が覚えているのは、そこまでだ。


 六年経って目覚めた蒼は、昏睡していた間に宇治山家に何があったのか、両親から聞かされた。

 蒼の昏睡により、部隊出仕の契約は凍結され、当然部隊から金は入らなかった。昏睡者は増える一方だったが、一人として目覚める者はなかったため、蒼の復帰は絶望視された。それにより、宇治山家は実質的に後継者も資金源も失った。

父である宇治山家当主もまた、かつて自ら部隊出仕契約を果たし生涯の研究費を得る身であったが、貰えるのはあくまでも研究費だ。戦況の悪化に伴い、宇治山家に与えられる運営費は更に縮小して、家を存続していく見通しが暗くなっていった。

 戦況の悪化。そして財政悪化により、蒼の入院医療費を支払い続ける事が困難になったため、苦渋の決断として、蒼を救済院に移す事にした。宇治山家は家格が高く、プライドも高いので、子息を救済院に入れる事は恥だった。だから、医療業界の目に付かない救済院を探して選んだ。運営母体が統治家門や部隊ではないため、医療業界と繋がりが希薄な無認可の救済院だ。そこは馬鹿に医療費が安く、その分病院と言うにはお粗末な施設で、まるで終末を待つ看取りの場が如き有様だった。蒼はもう回復の見込みが無いながら、そうした環境においてしまった呵責から、できるだけ頻繁に見舞いに行くようにしていた。

 そんな折、紅が呪毒(じゅどく)解決の立役者として功績を得た。

 宇治山家が絶縁した原因である紅の怪しい研究は、十年の歳月を経て実を結んだのだ。動かなかったはずの紅の脚は治り、同じ被害者たちも快癒した。その経緯で奥州の清め人である紫微星(しびせい)様と繋がりを持ち、多くの命を救った。その功績を認められ、身分は確かなものとなり、奥州から褒賞を受け、平家から護られる存在となった。

それは宇治山家にとって痛恨の極みだった。切り捨てたはずの紅が、大物に化けたのだから、逃がした魚は大きいと痛感したのだ。そして、今の紅が宇治山家の当主となったならば、多くの支援を受けて家を盛り返せるだろうと思った。困窮していた宇治山家は、恥を忍んで紅に戻ってきて欲しいと文を出した。困窮した現状を伝え、謝罪を伝え、宇治山家の崇高な研究を引き継ぐ価値を伝え、没落による損失を説き、どうにか戻って家を継いで欲しいという文を、何度も出した。

 けれど紅からは何の返答も無かった。

 紅から無視されたと言うのに宇治山家は、紅と和解したという出鱈目な噂を流した。紅が名を上げる中、落ちぶれていく事に耐えかねたのだ。苦し紛れのあまりにも醜い行動だった。けれど、真に受けた各所から、支援希望や縁談が舞い込んだ。

それらは宇治山家にとって垂涎の申し出だった。どうしても金が必要であるから、何度も紅に文を送った。

だが返答はなく、焦れるままに紅不在を隠して一時的な支援を受けて、一時を凌いだ。そうしている間にも紅は功績を積んでいき、最終的には終戦に大きく寄与した。その時には紅の立場は遥か高みにあった。

 そうすると宇治山家には、以前にも増して紅を目的とした支援希望や縁談が山のように届いた。宇治山家と紅の断絶は医療業界では常識だったが、宇治山家が流した噂のお陰で、業界外では和解したものと思われていた。それを上手く利用して、何とか家を守ろうと考えたが、やはり紅がいない事にはどうしようもない。何度文を出しても紅からは返答がなかった。もう読まれてすらいないのではと思い始めた時、ならばいっそ、沈黙を了承と捉えてしまえと言う荒業に出る事にした。

 紅の了承を得た事にして、業界外の家からの縁談を受けてしまったのだ。

紅と結婚したのは樫木(かしき)家の息女で、顔にあざがある醜い女だという。樫木家は戦勝のたなぼたで家格を上げ財を得た術者家で、権力のある家ではない。もしこの婚姻の裏を知り抗議されたとて、宇治山家を潰す程の力は無いため、丁度良いとして選んだ。樫木家は紅への研究援助として多額を支払う事を約束しだが、その腹に打算はあり、戦勝功労者として盤石な地位を築いた紅の名前で、何らかの利益を得ようと考えているのだろう。そもそも、嫁入りした娘の顔のあざを思えば、これを逃してまともな結婚は望めまい。ならば余計に、樫木家から抗議される筋合いはないと思えた。

 そうは言っても、実際は紅不在を隠した結婚詐欺である。犯罪であるから、何とかバレないように、嫁を遠ざけて暮らしているのだ。嫁は嫁いでから一度も紅が帰宅しない事を、何度も問うた。その度に、紅は世の中の為に研究に明け暮れているのだと言い訳をして誤魔化している。

今の宇治山家が存続するための、唯一の資金源である樫木家を手放す訳にいかず、嫁には絶対に真実を隠し通さねばならない。だが、いざ始めてみると、いつまでもこの誤魔化しが通用するとも思われない。いつバレるとも知れない薄氷の上の状況に、日々ストレスが溜まっていくばかりだ。

 そうして過ごしていた、二ヵ月程前。昏睡者の治療法が発見された。宇治山家は、急いで救済院に蒼を迎えに行くと、奪い去るように連れて病院へ行った。その結果、無事に蒼が目を覚ましたのだ。

 

 事情を聞いた後の蒼は、深い自省を抱いた。

 宇治山家がそこまで窮していたのは、蒼が昏睡していた所為だ。すべては蒼の責任である事を、まずは悔いた。

それから、なるべく早く状況を把握し、部隊復帰をせねばと思った。部隊と再契約を結んで、一から働けば、研究費だけは確保できる。けれど聞けば昏睡者は、元の職位による復職が認められているという。契約の凍結は解かれ、契約期間は続行される。それに感謝し、最速で部隊復帰するために、頭と体をチューニングしなければと。

この空白期間を埋めるため、新聞などで細かく事実を追った。世情、戦況、それに伴う宇治山家の立場。両親の話の照合をしながら、現状の理解に努めた。特に紅の功績については、事細かに調べた。 

 再度になるが、宇治山兄弟は、全員が長男・紅を尊敬している。

蒼の尊敬は、六年の昏睡を明けても変わるはずがない。宇治山家が紅にした仕打ちを思えば、どれだけ謝罪したとて、紅が戻ってくるはずがないのは明白だ。まして紅は一人で身を立て、実績を積み、名を馳せた。今更生家など不要だ。

蒼は、紅の功績を知り、尊敬と誇らしさで嬉しくなった。さすが紅兄様だと。

 だから宇治山家が紅を軽んじて行った、資金援助の受け取りや結婚詐欺を、何と愚かな事かと、嘆かわしく思った。

 そして同時に、紅の立場を利用しようという腹で嫁いできた強欲な樫木家の女が、心まで醜い悪女だと思った。たとえ書類上でも紅に相応しくない、最低な女だと。

 だから、あの時、蒼はみよに罵声を浴びせた。

 「紅兄様の名誉にたかる強欲な恥知らずめが!紅兄様を口実に甘い汁を吸うために嫁いで来たのだろうが、家を継ぐのは私だ!お前のような痴れ者の居場所はない!今すぐに出て行け!」

 これからは蒼が宇治山家を立て直すのだ。この悪女の力を必要とする事はない。そう思って、宇治山家が紅と絶縁している事などを洗いざらい教えてやった。みよは、あざのある醜い顔で、驚いた表情をしていたが、その時の蒼はいい気味だと思った。本当にあの顔では、まともな嫁ぎ先などあるまいと思った。

 その後しばらくして、ある日突然、みよがいなくなった。やっと出て行ったのだと思った時、蒼は悪人を成敗した気分だった。

 これからは、自分が宇治山家をより良い方向へ引っ張って行かねば。そう思っていた。


 ◆


 けれど、みよの行方を知らせに来たのは、平家の重鎮・惟継(これつぐ)だった。

 突然訪ねて来た惟継は、宇治山家の玄関に立って言った。

 「紅殿の生活を管理しているのは平家であるのは、知っていような?紅殿は地龍にとって大切な頭脳だ。身辺には、細心の注意を払っている。文に至るまでな。」

 明らかな脅しだと、すぐに分かった。蒼は宇治山家が紅に再三に渡って文を出していたのを聞いている。あの文には、宇治山家が勝手に紅の婚姻を結んでしまった事が書かれているはず。すべてバレたのだと、悟った。

蒼から見ても、両親も家人も真っ青な顔をしていた。痛い所のある人間は、こうも分かり易く顔色を変えるのだろうか。蒼は後継者であるから、昏睡中だったとしても、自分と無関係とは言えない立場だ。決して他人事ではない。

それに、どれだけ樫木家が悪だとしても、結婚詐欺は宇治山家の罪であるから、言い訳のしようも無いのだ。

 その事を追及するように、惟継が言った。

 「宇治山家が紅殿に宛てた文により、書類を偽造して勝手に紅殿を結婚させた事実を知った。それが結婚詐欺であると、分かっているのだろうな?」

 「いえ…その、承諾は文にて。行き違いがあったかも知れませんが、家族内の事ですから、まさか惟継様にご心配頂くような事は…。」

これは宇治山家内の問題であるから、部外者は口出し無用。惟継相手でなければ、一蹴して追い返しただろう。だが宇治山家は平家傘下。その平家運営に大きな力を持つ惟継に、逆らえるはずもない。

 惟継は、しどろもどろの反論を嘲笑うように大きな声を出した。

 「家族内?驚いたな。宇治山家は廃嫡にして絶縁して放り出した者を、まだ家族と呼ぶのか?脚を不自由にして職を失った、失意の紅殿から、身分も家も奪って放逐したお前たちが、紅殿の家族を名乗る資格があると申すか?まこと、面の皮の厚い恥知らずというのは、お前たちのような者を言うのだろうな!」

はっきりと言われては、返す言葉もない。押し黙った宇治山家サイドは、もう観念した。けれど惟継は容赦がなかった。

 「安心せよ。おみよ殿はこちらで保護した。」

 みよは出て行ったと思っていたのに、「保護」と言われては宇治山家の立場は更に悪い。宇治山家は決して虐待をしていなかったが、蒼は違う。酷い言葉で罵倒して、出て行けと言ってしまった。だからみよは保護されたのか。

状況に振り落とされないように必死に頭を働かせる蒼に、惟継は更に言った。

 「樫木家との縁談は、元はと言えばおみよ殿が望んだものだ。樫木家の財は、終戦により焼失した家門を引き継ぐ形で得た財であるから、世の為にこそ使われるべきと言い、紅殿の研究費になればと申し出たのだ。だが宇治山家は樫木家の財を目当てとし、紅殿との絶縁を秘して婚姻を結んだ。樫木家が宇治山家に送った金は、一円たりとも紅殿のために使われていない。宇治山家がした事は、おみよ殿の尊い心を踏みにじる、悪質な詐欺だ。」

 悪者を成敗するように言い放たれた言葉に、蒼は衝撃を受けた。

 樫木家は打算など無かった。みよはあざを恥じて嫁いだのでは無かった。地龍の未来のためという崇高な志で、紅に思いを託すために、婚姻を結んだのだ。対する宇治山家は、ただ金を欲して樫木家を利用しただけ。

 その時、蒼は悪はこちらの方だったのだと、気付いたのだ。

 「婚姻の解消については、樫木家も関わる故、後日改めて。これまで樫木家から援助された資金の返還を求められる事になろう。首を洗って待っている事だ。」

 厳しく言い残して去った惟継は、宇治山家にとってはあまりに無慈悲に見えた。

 悪い事をすれば、必ず報いを受ける。その現実を身をもって知ったとて、もう遅い。何もかも、今更じたばたしたとて、取り戻せるものなど何もないのだ。あれば最初からやっている。

愕然として膝から崩れ落ちた両親に、蒼はかける言葉が浮かばなかった。いや、今口を開いたら罵ってしまいそうだったので、必死に押し黙るしかなかったのだ。元はと言えば全部、蒼が昏睡者にならなければ済んだ事。全部蒼が悪いのだから、必死に家を守ろうとしてきた両親を責める資格など無かった。

 両親を見下ろしてから、玄関の外に目を向けた蒼は、何もかも恥ずかしく思えた。必死に現状把握に努めたつもりが、間違いだらけだ。何よりも、みよは、悪女ではなかった。それなのに、勝手に決めつけて罵倒してしまった。厚顔で痴れ者は、自分の方だったのではないか。

 猛烈に悔いが込み上げた蒼は、慌てて玄関を出て駆けた。そして惟継を追った。道路に出ると、幸いまだ惟継が歩いていた。

 「惟継様!お引止めし、申し訳ございません。」

大きな声で呼ぶと、惟継は立ち止まってゆっくりと振り返った。その顔は冷淡で、波形が冷え冷えとしていた。軽蔑されていると思った蒼は、さもありなんと受け止めた。そして、懸命に伝えた。

 「その…みよ様に、謝罪をお伝えくださいませんか。私は、酷い誤解をして、みよ様を罵倒してしまいました。」

 保護されたみよに会う機会はあろうか。あってもみよは望むまい。謝罪を言伝る非礼を自覚しながら、深く頭を下げた。出来る事は、これしかなかった。

 蒼の誠実に下げた頭に、惟継が言った。

 「六年の時は長かろうな。特に激動の時代だ。取り戻す事は易くあるまい。だが、目を凝らして現実をよく見よ。今の世を導いたは、清き紫微星の光だ。その光を共に出来ぬ者は、時代に振り落とされるぞ。」

 思わぬ忠告に、蒼は頭を上げた。惟継はもう歩き出していた。

 蒼は惟継の言葉を胸に刻んで、去り行く惟継の背中に、もう一度深く頭を下げたのだった。


 ◆


 その後、蒼は猛省した。

事実から主観を排除し、もう一度きちんと空白期間を受け止め直した。

両親の主観的な事情説明を真っ先に聞いてしまったために、無意識に宇治山家に甘い考えに染まっていたのだと自覚した。

仮にも将来は医療研究職に就く身でありながら、自分本位に事実を歪めるとは不適格だ。紅ならば、そうした失敗はしなかったはずだ。いつも冷静に事実を受け止め、求める結果へのプロセスを組み立て、過程に妥協を許さなかった。厳しくも正しく、蒼の絶対的な存在だ。いつか紅のような医療術者になると目標を掲げていた事を、どうして忘れていたのだろうか。それは実績や技能では無く、精神性の事だ。

誰恥じぬ正しさは、研究に宿るはず。その生き様にこそ、宇治山家の義があった。

今はもう廃れた宇治山家を再興するために必要なのは、古い固定観念と愚かなプライドを捨てる事だ。

 そのためには、宇治山家を滅びに導いている父を退かせ、自分が当主の座に就く事が理想だ。だが、蒼にはまだ部隊出仕契約期間が残っている。今後の宇治山家運営に絶対に必要な資金源であるから、契約の不履行はあり得ない。

 ならば、少しずつ始めるしかない。

 誠意をもって、謝るべき所に謝り、お礼すべき所にお礼を伝え、悪しき縁を全て絶つ。少しずつ、自浄していくほか、あるまい。

 これは孤独な戦いだ。今の宇治山家は利己的な悪に染まってしまった。辛うじて正気なのは蒼だけだ。味方のいないこの家で、一人戦っていかねばならない。

 だが、それも報いだ。昏睡していた報い。

 そう思った蒼は、まず初めに、長らくお世話になっていた救済院に行ってみる事にした。

宇治山家は困窮を理由に入院医療費を支払っていないだろう。今すぐには払えないが、少しずつ支払う旨伝えねば。そしてお世話になっていた事の御礼を伝えねばなるまい。

 これからは、正しくあらねば。蒼はそう決めたのだった。

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