410 薬術師の事
その日、在仁たちは、みよについて調べるために、とある薬屋を訪ねていた。
薬術師である祖母の手伝いで、みよは幼い頃から、薬草を届けていたと言う。みよを幼い頃から知ると言うならば、何か知っているかも知れない。
そこは小さな薬屋さんという雰囲気の民家だった。庭にハーブ園があって、魔女の庭みたいな趣は可愛らしい。ハーブ園の仕切りに立てられた小さな柵に、猫の置物が添えられていて、お客さんを迎える看板猫みたいだ。
道路との境には垣根の目隠し。その向こうには救済院がある。
救済院は病院ではあるが、医療費の支払いが困難な者が利用する場所というイメージだ。戦による怪我人や昏睡者など、治療法も分からぬままに長期入院を余儀なくされた者たちは、無為に入院費や治療費がかかり続ける。それを負担し続ける事は、決して楽な事ではない。出口の見えぬ状況に疲弊し、病院より医療費が安い救済院へ移る者たちもいる。ただその内容はそれぞれで、安い分だけ設備も治療も心許ないのが常識だ。
惟継の案内で薬屋を訪ねると、出て来た女性は、待っていたという態度だった。この女性が店主だとすれば、薬術師だろう。きちんと先触れをしておいてくれた惟継に感謝しつつ、招かれるままに店内に入った。
「悪いな。営業中に訪ねて。」
「いいえ。お客はそういませんから。どうぞ。」
待合室のようなスペースに置かれた、テーブルを囲む椅子を勧められて全員で座ると、薬術師はハーブティーを出した。独特の薬膳の香りだ。どこか馴染みのある香り。
「前置きは省かせてもらおう。」
平家傘下地域であるから、惟継の存在は大きい。薬術師は惟継の顔色を伺いながら、ちょっと恐縮した態度で言った。
「おみよちゃんについて、知りたいのでしたね。」
単刀直入に話すのは、薬屋が営業中で、いつ客が来るとも知れないから。一応惟継の気遣いだろうが、偉そうなので伝わるまい。在仁はハーブティーのカップで手を温めながら、薬術師を見た。ふっくらとした体形の高齢の女性で、一緒にいるだけで安心感のある雰囲気だ。想像上の田舎のかあちゃん、みたいな。
「おみよちゃんの御婆様が、私の古い薬術師仲間なんです。私よりも薬草を育てるのが上手でしたから、樫木家に嫁いで薬術師を辞めてしまう事が惜しくて。友だちのよしみで、って無理を言って、薬草を育てて貰っていたんです。薬草園は御屋敷の庭だと聞きましたが、希少な物も多くて、とても助かっているんですよ。その薬草をここまで届けるのが、おみよちゃんの仕事でした。」
「おみよ様の前は、ご本人様が?」
「いいえ、おみよちゃんの前は使用人が来ていました。彼女、若い頃から足が悪くて。ここまで来るのは大変なんですって。確かに樫木家からここは少し遠いから。本当は縁が絶たれてしまうのが嫌でお願いした仕事でしたが、結局本人にはもう随分と会っていません。でもね、いつも立派な薬草が届くので、きっと元気なのだろうって思っているのですよ。」
穏やかな語り口には、友を想う親愛が籠っていた。在仁は、薬術師の人柄に触れて、少し温かな気持ちになった。
「おみよは幼い頃からここに通っていたのだな?」
惟継が念押しで問うと、薬術師はまた話し始めた。
「ええ。随分小さい頃から。ここまで来るだけでも偉いのに、休まずにお手伝いして、本当に偉い子ですよ。ただね、幼い頃から額のあざを気にしてか、いつも俯いて、目を合わせないんです。すっごく内気な子でした。寡黙で真面目で、長く通ってもそう雑談もなく、何を思っているのか分からなかったですね。あざなんて、親に頼んで治療すれば良かったのに。我慢してる姿が何とも健気で、いつもお菓子を用意して待っていたんですよ。でも、懐いてはくれなかったわ。」
餌付け失敗、と笑う薬術師は、みよと仲良くなりたかったのにと残念そうだ。
「娘の顔にあるあざならば、婚姻に響くとして、親は多少捻出しても治療を受けさせただろうにな。」
「おみよちゃんは内気だったから、親の顔色を気にして、言えなかったのかも知れませんね。樫木家は部隊出仕する術者家ですから、戦況はおみよちゃんの耳にも入ったでしょう。美容は贅沢って思われがちですから、わがままだと思って余計に我慢していたのかなって、思っていました。」
寡黙で内気で何を思っているか分からない少女でも、何度も会えば空気感で察するものもあろう。薬術師は主観ながら、感じていた事を言った。優しい解釈は、薬術師の人柄が成せる業か、はたまたみよの性格を捉えてか。
そして、惟継が切り込んだ。
「して、おみよが美容詐欺に遭ったと聞いたが、御存知か?」
その問いを聞いて、薬術師が明らかに暗くなった。
「ええ。おみよちゃんの弱みに付け込んで、本当に酷い事をするものです。あれ以来、長い間来なくなってしまって。随分と心配しました。」
「詐欺に遭ってから、引き籠っていたと聞いたが、仕事に復帰を?」
「はい。二年…くらいは来なかったかしら。その後また来るようになって。最初はびっくりしましたね、顔の半分くらいの大きなあざがあって。おばけみたいになってしまって。年頃の女の子だもの、どんなに辛いでしょうね。前よりも一層俯いて、口数も減って。私も、何て声をかけて良いか分からなくって。何も、してあげられなかったわ。」
自分の無力を悔いるように目を伏せた薬術師は、まるでみよの親のように見えた。
在仁は、生来の小さなあざが、どうしたら顔の半分を覆う程になるのかと、不気味に思った。いくら地龍の美容分野が発展していないからとして、そんな施術は詐欺ではなく暴力ではないか。だったら何もせずに金だけせしめた方がまだ善良な詐欺だ、と思ってしまう。
誰が聞いても酷い話に、惟継も他人事ながら良い気はしない。
「犯人について何か知っている事は?」
「いいえ。金に困った医療術者の仕業でしょうけど。昔からそういう詐欺師は、逃げ足が早いんですよ。」
最初から問題が起こると分かっているのだから、金を貰ったら逃げるが勝ちだ。
憤慨する薬術師はみよの味方に見えた。
「おみよはどこで詐欺師と出会ったのだろうな。」
「分かりません。おみよちゃん、寄り道しないように言われてるって、何度誘っても、ウチでお茶の一杯も飲んで行きませんでした。真面目で警戒心の強い子ですから、詐欺に遭うなんて思いも寄りませんよ。」
「ふむ…さようか。」
薬術師がみよとそう仲良くも無いとすれば、情報はあまり期待できないか。惟継が少し落胆した相槌を打つと、在仁が尋ねた。
「寄り道をなさらないとおっしゃると、おみよ様は隣の救済院に寄られる事はございませんでしたか?」
「救済院の患者は生活困窮者が主ですし、子どもにとって面白い場所ではありませんよ。…でも、そうですね。美容詐欺をするようなお金に困った医療術者と、おみよちゃんが知り合うとしたら、救済院関係なのかも知れませんね。顔にあざがあると見て、この辺りで声をかけたのかも知れません。」
薬術師は大して知っているようでもないが、何となく救済院の方を見て疎んじるような目をした。
「なにか?」
「…いいえ。ただでさえ…いえ。」
言おうか、言うまいか。迷う薬術師に、惟継が訊いた。
「救済院の内情に詳しいのか?」
「詳しいと言う程では。ウチは薬屋ですが、隣と取引はありません。ただ、隣なので多少分かるだけです。」
それもまた曖昧な言い方だった。惟継は構わず訊いた。
「では、救済院に宇治山家の子息が入院しているというのは知っているか?」
「ええ。数年前に、昏睡者となったとか。大きな病院から隣に移ってきたのは、宇治山家の財政状況が思わしくないからだと聞きました。紅様は廃嫡となり絶縁、続いて次男の銀様は出奔し奥州へ。下のご子息も、部隊に出仕していましたが、戦死なさったとか。残ったのは、昏睡者となった五男様だけと聞きました。」
「さようか…。」
ここまでの調査では宇治山家の実情を知る者が無かったが、薬術師は医療業界人である故か、紅が宇治山家と絶縁している事を知っていた。ならば、この薬術師と関わりを持っていたみよはどうだろうか。惟継が考えていると、薬術師は続けた。
「結局、御子息の部隊出仕の契約は果たされず、契約金は入りませんから、医療研究職である宇治山家が財政難になるのは当然でしょう。医療研究にはお金がかかりますから。」
優秀な医療術者を部隊に勤務させるために、部隊と医療術者の間で契約が結ばれているというのは、紅から聞いた話だ。紅の場合は十年の出仕で生涯の研究費の保証だと。紅の弟たちも同条件だったと想像できるが、今の話を聞くに、一人も契約を果たした者がいない。それどころか後継者が悉く失われているので、宇治山家自体の存続が危ぶまれる。そうした窮地にあると思われるだけで軽んじられるものであるから、宇治山家の状況は思わしくないだろう。
「宇治山家に詳しいな。」
「医療術者業界は激しい競争社会ですよ。名門と呼ばれる家が窮地に立たされているなんて、噂にならない訳がありません。医療術者業界にいる者ならば、誰だって知っています。」
薬術師が詳しいのではなく、それはもう周知の事実なのだと。だが、そう言われても、惟継でさえ知らぬ事であるから、やはり医療術者業界とは閉じた世界なのだ。
「他に、宇治山家について聞いた噂はあるのか?」
だったら教えて貰おうか。業界内のくちさがない噂というものを。
どうせ上位者と思っていた者の転落を嘲笑って楽しんでいるのだろうから、噂などいくらでもあろう。惟継が想像して問うと、薬術師は案の定話した。
「ご子息を救済院に移した事は噂になっていません。宇治山家は名門としてのプライドがありますから、密かに移して来たのでしょうね。ただ、紅様が功績を認められてから、宇治山家は紅様との和解をほのめかしていました。実績があり社会貢献している紅様が宇治山家を継がれれば、宇治山家には大きなスポンサーがつくでしょうから、盛り返す事が出来るはずです。ですが、それが真っ赤な嘘である事は明白でした。入院している五男様を見舞うのはいつもご両親のみで、紅様は一度も来た事が無いのですから。まぁ、そうした事情は世間は知りませんから、紅様が宇治山家の後継者と思われているのかも、知れませんね。」
知らんけど。噂に私見を混ぜて語った薬術師は、救済院の状況をよく観察しているようだ。見舞い人まで知っているとなると、隣からずっと監視しているのだろうか。
在仁が薬屋の窓から救済院の方を見ると、垣根の隙間から垣間見る事が出来そうなのに気付いた。その視線に、薬術師は慌てて言った。
「違いますよ、いつも見ている訳ではありません。ただ、見ての通り閑古鳥が鳴いてるので、暇でつい目が行っちゃうんですよ。」
見ての通り、薬屋には誰も来ない。
「元々趣味みたいな店です。今時、ちょっとした不調ならドラッグストアで用が足りますから、こんな昔ながらの古臭い薬屋は需要が無いんです。」
自嘲して言った薬術師は、救済院の事情通を疑われたとは思っていない様子。ただ店が暇で、救済院の様子を見ているのが、恥ずかしかっただけのようだ。
「ふふ。さようでございますね。なれど、こうした知識や技術も、失われてはなりません。世の中は簡易さを進歩と呼びましょうが、廃れていくものにも目を向けねばなりませんね。」
「まぁ。紫微星様はお若いのに、老成した事をおっしゃるのですね。」
社交辞令と思ったのか、軽く笑った薬術師に、在仁は首を振った。そしてハーブティーを一口飲んだ。
「こちらのお茶、雪客臓でございましょう?今年の夏、とある揺らぎ討伐に雪客臓は欠かせぬものでございました。雪客臓は今はもう入手困難な程に、廃れかけたもの。貴重で希少な雪客臓が、実際には廃れず守られておられたからこそ、助かるお命がございました。知識の蓄積、技術の継承、そうしたものは守られていくべきなのでございましょう。」
あの避暑で行った信州のホテルで、雪客臓は大活躍だった。希少なものとの事で、在仁はもう持っていないが、常飲していたので香りも味もよく覚えている。薬術師が出してくれた時、懐かしい気持ちになったのだ。
それを聞いた薬術師は、ふわっと微笑んだ。
「そうですね。雪客臓は、とても育てるのが難しくて。だから余計に廃れてしまったのです。けれど、おみよちゃんのお祖母様は家庭菜園程度の畑で上手に育てて下さる。だからこうして振舞う事が出来るのです。」
「なるほど。それは余程の才なのでございましょう。」
そんなところで貴重な薬草を育て上げる腕は、才能なのかも知れない。難しい植物を育てる才がそこにあるならば、あの毒の原料である毒草もまたそこにあるのか。ちらりと過る物騒な考えを、在仁は無理矢理に払拭した。動機が無さ過ぎるから。
「おみよ様が現在どうなさっておいでか、ご存知でございますか?」
「え?いいえ。昨年の、いつだったかしら。納品に来るのが使用人になってしまったの。その使用人から、おみよちゃんは嫁いだと聞いたわ。顔のあざの事を思うと、まともな嫁ぎ先じゃないんじゃ無いかって心配になって、詳しく問いただしたけれど、教えて貰えなかったわ。口が堅くて。樫木家の家風なのかしらね。」
余計な事を言わないのは使用人として基本的なマナーではないだろうか。惟継は、まともな者を雇っているなと思った。
ただ、医療術者業界の噂に敏いこの薬術師が、そっちルートで宇治山家の婚姻について知らないとなると、宇治山家がその事を秘しているのは明らかだろう。そりゃあ、絶縁した紅の結婚なんて、知る人が聞けば一発で詐欺と分かるのだから、秘密にせねばなるまい。
美容詐欺だの、結婚詐欺だの、みよは不幸な星の元に生まれているのだろうか。何だか哀れに思いつつ、惟継が最後に問うた。
「宇治山家の子息は今も入院を?」
「いいえ。昏睡者の治療法が確立したと知り、御両親が引き取って行きました。きっともう目を覚まされて、お家へ帰られたでしょう。」
昏睡者は目覚めたのだ。それが常識だろうと言う顔の薬術師は、どうしてかとてもほっとした顔をした。
その顔の意味が、この時の在仁にはまだ分からなかった。
◆
在仁たちが、みよの外郭から調べている間に、紅は毒と文の調査を終えたと連絡が来た。
須磨の紅の家に集まったのは、在仁、北辰隊武士勢、惟継、青藍、そして銀。事が宇治山家関連である以上、銀を除け者には出来まい。
いつもの紅の研究所兼自宅に集まって座ると、相変わらず部屋は散らかっていた。
「兄さん、掃除したら?」
「後でやる。」
呆れた銀に、紅は憮然として答えた。
もちろん紅はお茶を出したりしない。そのままどかっと座って、話に入るだけだ。呼び出した本人である紅が口を開く前に、惟継が手を挙げた。
「まず、こちらの調査結果から聞いてくれ。大した事は分かっていない故、すぐに済む。」
こちらは、慰霊式で樫木家と親類からの聞き込み、そしてみよを知る薬術師から聞き取りをしただけだ。まだバラバラのピースは繋がりそうにない。惟継が言う通り、大したことは分かっていないのだ。
「紅殿の細君は、術者家の樫木みよ、二十歳だ。この結婚はおみよの発案で結ばれた政略のようだ。樫木家の目的は、紅殿の研究援助による社会貢献だと言う。もちろん樫木家は、宇治山家と紅殿の断絶を知らぬ故、宇治山家側の結婚詐欺は間違いないだろう。紅殿が言う通り、宇治山家に支給される運営費は年々減少し、研究しながら家を存続させるためには、別の資金源が必要な状態であるようだ。それも、紅殿と銀殿を含む五人の子息が、部隊契約を果たせば、問題なく潤沢な資金が手に入っただろうが、実際は悉く不履行。現状では一銭も入っていない。どうしても金が必要であった事もまた、間違いない。」
惟継は権力を使って、医療術者家門の上層部に介入し、宇治山家の財政状況を調べた。その結果、終戦までの戦況悪化に伴い、宇治山家は貰える資金が減っていて、どんどん困窮していた。
惟継の裏取りを聞いて、銀が肩を竦めた。捨てた実家の事など、本来はどうでも良い事だ。例え落ちぶれていようとも。
「つまり、家格とプライドだけが高い貧乏人だったって事か。生き難い事この上なかろうが、だからと言って結婚詐欺はヤバ過ぎだな。」
事情を聞いても感慨の無さそうな紅と銀を見て、惟継は少し迷いつつ言った。
「宇治山家に残っていた弟たちの事は?」
宇治山家は紅と銀を入れて五人兄弟。残して来た三男以下三人の事を知っているのだったか。惟継が曖昧に問うたのは、それが辛い事だと思ったからだ。三男と四男は戦死、五男は昏睡者であったから。
その問いに、銀は知っていると示すように頷いただけだった。そして、紅は、いつもの無表情で言った。
「知っている。私とは全く関係がない。」
どこか怒っているようにも聞こえる言い方に、皆が訝しんだ。
「関係がない?絶縁したからか?」
捨てた実家の家族の事など、関係が無い。そういう意味だろうか。惟継が問うと、紅は眉間に皺を寄せた。
「違う。私の事情とは全く関係の無い死だったと、言う意味だ。弟たちの戦死は、私が絶縁されずとも、訪れた未来だったろう。不可避の、運命だ。」
宇治山家は五人兄弟全員が、部隊と契約して勤めていた。十年間部隊で働けば、一生分の研究費を得る。そのための部隊勤務。それは、紅や銀が宇治山家を出た事とは無関係に、課せられたものだ。そして仕事中の死。戦死。だから、紅とは関係が無い死。責任追及の矛先の無い、無慈悲な死。
それを不可避の運命と言う紅は、そうとでも思わねばやっていられない、という風に見えた。だから、誰もそれ以上は何も言えなかった。
重い沈黙が落ちた。紅にとって弟たちがどういう存在にしろ、死に接して悲しみを抱いているのは間違いが無い。在仁は、多くの慰霊式を回って、多くの遺族に寄り添ってきた。それでも、いつだって本当にかけるべき言葉など、持ち合わせてはいないのだ。ただ、共に手を合わせるだけ。それしか、出来る事などない。
だから今もまた、紅と銀の心痛に寄り添う気持ちで、心の中で手を合わせた。
そうしたら、ふわっと丸い光が生まれて、ゆっくりと天井に昇って行った。それを、ただ皆が黙って見上げていた。
光が天井に飲み込まれるように消えてしまうと、紅は一度俯いてから、話し始めた。
「あれから、この四年間で実家から送られてきた文を全部調べた。だが、毒が仕込まれていたものは無かった。」
「…つまり、毒入りは、あの一通だけという事でございますね。」
「そうだ。残りは全て父からの文で、そのおみよとか言う女からの文も、あの一通だけだった。」
「…つまり、おみよ様からの唯一の文に、毒が仕込まれていたのでございますね。」
「実家からの文にあった指紋は、一人分。すべての文に同一の指紋があった。父のものだろう。対して、毒入りの文には指紋が無かった。」
「指紋を残さぬようになさったと?」
在仁が問うと、東が首を傾げた。
「差出人がおみよである事は分かっているんだから、犯人がおみよなら指紋を消す必要はないでしょ?おみよの文に、別人が細工したってこと?」
毒入りの手紙は、みよから紅に宛てた、離縁願いだ。容疑者はみよに相違ないのだから、指紋だけ消した所で意味などあるまい。皆が意味が分からずにいると、紅は首を振った。
「指紋が無いのは、毒を扱うために手袋をしていたからだ。晦冥教連中は呪いの扱いも知らず、素手で呪術に触れて呪い焼けを起す。それを思えば、毒の扱いをよく理解している証拠でもある。文にひとつの指紋も無い事は、むしろおみよの犯行を裏付けていると思う。」
「そう…でございますか。」
そうと言われては、毒殺犯はみよとしか思えなくなるが。だったら動機はどこにあるのか。在仁が納得できずに相槌を打つと、紅は透明な袋に入れた葉をテーブルに置いた。
「こいつが、使われた毒草だ。私の庭にある。」
「あるのか…。」
まぁ、紅の庭は毒草園だから、大概の毒草はあるのだろうが。その葉を見て、在仁が呻いた。
「毒膿葵…でございますか。こちらの育成は極めて困難と…例の御方がおっしゃっておられましたが。」
今更「例の御方」だなんて暈すものだから、返って変な感じになったが、在仁に毒草について教えたのは当然の事ながら薊だ。皆が触れないようにして、紅はそのまま続けた。
「その通り。毒膿葵はかなり珍しい毒草で、栽培も扱いも困難だ。育成の難易度が高い上、扱いが更に難しいのだから、文に毒を仕込むなど、素人の仕業では有り得ない。」
断言した紅に、銀が訊いた。
「今時ネットで何でも買えるだろ?」
「この毒は鮮度が重要だ。購入していては毒の精製は間に合わない。精製された毒もまた使用期限が短い。故に育てたと考えるべきだ。育成し精製するプロに違いないのだから、犯人はよほど腕の良い薬術師だろう。これだけの腕があるならば、私が雇いたい程だ。」
結局そこになるのか。紅は最初からこの毒に興味津々だった。毒殺されそうになったのに、毒を扱った者の能力を高く評価するばかりだ。全く以てピントの合わない紅に、惟継は呆れる他なかった。
「命を狙われたのだぞ?良く言えるな。」
「私は痛い思いをしていないからな。」
さらっとぐさっと来る紅の言葉に、惟継が押し黙った。あの毒をくらったのは惟継だ。
「二度と、紅殿の部屋の物には触れぬ。」
「それが良かろうな。」
だから使用人にも掃除をさせないのだ、とでも言い出しそうなドヤ顔に、惟継がムカついたのが見て取れたが、紅は知らん顔。誰が何を言ったとて、紅を揺るがしはしないのだろう。在仁は、流石ヤバい御人、と思った。
そこに、マイウェイな紅に慣れている銀が言った。
「それはそれとして。実家からの文には何が書かれていたんだ?全部読んだんだろ?」
「…はぁ…。知りたいのか?」
紅は心底嫌そうに、文の束を出して来たのだった。




