407 離縁願の事
須磨の紅の家は、鬱蒼とした山の傾斜を突き進んだ先にある。庭は毒草園で、然程大きくも無いログハウスは自宅兼研究所、その更に奥に美しい浄性の毒空木が佇んでいる。紅はここで日夜毒の研究をして暮らしている。
十四年前、当時二十五歳だった紅は、伝統ある医療術者家系である宇治山家きっての天才と評価されていた。嫡男であった紅は、将来は宇治山家を継ぐ身であり、弟たちからも尊敬される良き兄であった。その頃の紅は、平家四神大隊は玄武小隊の医療班長として勤めていた。そこで薊の呪毒実験に巻き込まれて、片脚が動かなくなり職を辞した。当時まだ呪毒の認識はなく、紅や仲間の症状は瘴気によると診断された。それに納得しなかった紅は、わき目もふらず原因究明をして、とうとう呪毒の存在に辿り着いた。それを邪術に傾倒したと忌避され、宇治山家から廃嫡された。呪毒は紅のすべてを奪い、紅の輝かしい人生は急転直下の転落。そして紅は一人この須磨の研究所にこもって、出口の見えない研究を続けていた。
その生活に終止符が打たれたのは、四年前。在仁と出会い、呪毒が解決した事で、これまで忌避されてきた紅は、大きな功績を成して評価された。その功績の褒賞として、奥州藤原氏からは潤沢な研究費が与えられた。
奥州藤原氏と平家による支援体制が成り、紅が望めば表舞台で権威として活躍する道は十分にあったが、紅はそうしなかった。かつて得るはずった人生を取り戻す事を望まず、この須磨であの毒空木を守りながら研究する生活を選んだ。
そうしてここには最低限の使用人と助手が出入りするようになった。紅の研究と生活を支えるための補助要員だが、基本的に一人を好むため、当初想定された程は人の出入りは少ない。
この研究所と呼ぶにはささやかな環境で、紅は研究を続けて、戦勝を支えた。
だが、終戦の大きな要となった紅の功労は大きなものである反面、その研究の危険性からは目を背ける事が出来ない。今以て司法局からは危険人物として警戒されている有様だ。そうした紅の怪しい研究データがあるこの場所には、厳重な警備が必要だ。
普段からそれなりに守りは固いのだが、昨今の世は物騒であるから、更に警備レベルを上げる必要があろう。晦冥教はあらゆる知識を駆使して呪いの流布を企む。紅の研究の悪用を防ぐ事は必要な対策だ。
だから、惟継はこの敷地に、呪性検知機能付きの防犯ゲートの設置を決めたのだ。
「人の出入りが限られているのは、警備的には良いのだがな。」
遠くから工事の音が響いているのを聞きながら、惟継は研究所内で呑気にぼやいた。惟継は一応設置工事の立ち合いとして来ているのに、それを放棄して屋内で休憩しているのは、職務怠慢ではないだろうか。目の前に座る不遜顔の惟継に、紅は愛想も無く返した。
「こんな辺鄙な場所に泥棒など入るまい。」
相も変わらず惟継をもてなす気が無い紅は、惟継を放置してPC画面を睨んでいた。お茶の一杯も出してくれない紅を、惟継はいつもの事だと思いながら見ていた。
「油断は出来まい。晦冥教はどこにでも潜んでいる。そうでなくとも、ここには物騒な物が多い。流出しては事だ。」
「好きにしろ。私に決定権はない。」
「そんな事は無いが、まぁ、そうさせて貰う。」
ここは紅の家なので、決定権は紅にある。だが、奥州と平家にがっちり守られていて、紅の意思を無視している部分もある。例えば、使用人と助手の派遣とか。紅は不要とするそれらを、無理矢理に派遣しているのは、紅の監視役でもある。紅の事を疑っているのではない。紅が研究に埋もれて死ぬのを防ぐためだ。
最低でも週に二日は家事をする使用人が来ているはずだが、部屋は雑然としている。惟継は、今日はまた一段と酷いなと思った。
「使用人は仕事をしているのか?」
「勝手に動かされるのは迷惑だ。そうと伝えたら、この部屋には入らなくなった。」
「おい。またか。」
惟継は頭を押さえた。紅は人当たりが悪い。ぶっきらぼうで愛想が無い。根は良い人なんだけど、と言えたら良いが、その辺も保証はしない。偏屈で不機嫌な紅の相手は大変だ。お陰で使用人はすぐに辞めてしまう。次を探すのも楽ではない。
「掃除くらいさせれば良かろう。機嫌が悪いからとして、きつく当たるのは大人としてどうなんだ。」
「八つ当たりではない。価値を解さぬ者に、触れて欲しくないだけだ。」
視線をPCに向けたままで言う紅の不機嫌な声に、惟継はめんどくせえなと思った。別に使用人と仲良くする必要はないが、邪険にせずとも良かろう。黙って仕事をさせてやれば良いだけだ。
「紅殿の研究価値を解する者が、いるろうか…。」
惟継が部屋を見回すも、段ボールには書類がびっしり。謎のサンプルも散らかっているし、ゴミと思しき物も散見される。惟継が使用人なら、迷わず全部捨てるなと思うばかりだ。以前はそれなりに綺麗に暮らしていたと思うが、脚が治ってからの方が、生活がずぼらになった気がする。
「助手も同じ理由で追い返しているのではあるまいな。」
「奴らには畑の世話と、毒空木の管理をさせている。」
「庭師か…。」
毒草園も毒空木も紅にとって重要なものだ。特に毒空木はこの世に一本しかない特別な木だ。何やら元気いっぱいに成長しているらしく、剪定などの管理はそこそこ重労働なのだとか。
一応それなりの研究者を派遣しているつもりだが、やらされているのが農作業となると、いつ辞められてしまうか知れない。惟継は早急に次の人材を探しておかねばと思った。色々と頭の痛い状況に辟易としていると、その元凶たる紅もまた辟易とした顔を向けた。
「煩いな。あの音はいつ止むのだ?」
「夕方までには終わる。」
ゲートの設置作業は一日がかりだ。工事の音は騒音であるから、普段静かな場所で集中している紅は迷惑極まりない。イライラした様子で貧乏ゆすりをした。集中を切らして仕事の手が止まった紅の気を紛らわせようと、惟継はどうでも良い雑談を振った。
「呪性検知機能付きの防犯ゲートは奥州の特許だ。こうして全国各地に設置される事で、地龍の防犯レベルが上がり治安が良くなるのは良い事だが、その分奥州が儲かると思うと、些か不愉快ではあるな。奥州は全国から優秀な人材を引き抜いて、最新の技術を開発させ、多くの専売特許を持ってぼろ儲けだ。景気が良いのは、そうした人材泥棒の所為だと思うと、本来は平家にあるべき儲けのような気もするな。」
「人材が逃げるのは、平家に甲斐性と魅力が無いからだ。」
鋭利な刃で惟継を攻撃する紅には他意が無い。ただの本音だ。惟継は痛い所を突かれて、顔を顰めた。
「何はともあれ、まずは先立つものが必要だろう。戦を終えた今の世には、最強の武士よりも金を生み出す優秀な才能が要る。紅殿のこのゴミ溜めの中に、何か儲かるネタは無いのか?」
攻撃されたので、攻撃してみたり。惟継の歯に衣着せぬ言葉にも、紅は顔色を変えなかった。嫌味とか通じるタイプではないのだ。
「研究が金を生まない事は常識だろう。生産性が無いながら、歩みを止めてはならないのが、研究の道というものだ。」
「まぁ…な。」
地龍に研究職とされるものは複数あれど、術研に勤める術者たちがその代表格だろう。それらは雇われの身であるから、オーダーがあって、応える仕事。研究者であり、開発担当技術者。それなりに生産性が見込まれるし、生産性のある者にこそ価値がある。
だが、紅が言っているのはそれとは別の研究者だ。閉じた独立機関だった占星局のような、ただ研究しデータを蓄積し後世に継承するだけの者たち。膨大な金をかけて研究するが、一銭も儲けがない。紅は自分をそうした者と同類と言うのだ。
「だが、紅殿は元は部隊所属の医療術者だろう?よくは知らぬが、宇治山家は医療術者の世界ではそれなりに名のある家なのではなかったか?いずれ大きな病院で要職に就き、お偉いさんから巨額を巻き上げて治療する医者になる予定だったのでは?」
何事も無ければ、紅は大金持ちのエリート医師だったはず。金を生む人間の代表格になれたはずの紅に、惟継は勿体ない事だと思った。
「宇治山家は医療術者の中でも研究職だ。医師としては働かず、自家にて研究研鑽をし、それを継承してきた。」
「そうなのか?だったら何故、紅殿は部隊に所属していたのだ?」
「契約のためだ。部隊は優秀な医療術者を必要としているが、そうした人材は医療術者業界に就職してしまう。だから一定期間部隊に勤務する事で、その後の研究費を保証する制度があるのだ。私は十年契約で、生涯の研究費の保証を約束されていた。」
「なるほど。十年で一生涯の研究費の保証…余程の優秀な人材でなければ、その契約は成立すまい。」
平家は地龍イチの医療術を誇る。九州が地龍最高峰の術者学校を有し、術者業界のトップに君臨するように、平家は最高峰の医療術者業界を擁するのだ。だが、そうした専門業界はどこも閉じた闇。権威主義に凝り固まって、なんとかの巨塔になっているのは『昼』も地龍も同じ事だ。医療術者業界にどういう制度があるとか、細かい事までは、惟継も網羅してはいなかった。
ただの雑談のはずが、目から鱗だ。賢い制度だなと思った惟継は、はたと気付いた。
「だが、紅殿は途中で部隊を辞している。契約は履行されなかったのか?」
「ああ、案の定、研究費はおじゃんだ。銀も同契約にて四神大隊に勤務していたが、辞して破棄。おそらく、その下の弟たちも部隊と契約して勤務したと思うが。宇治山家は歴史と伝統による研究の蓄積はあるが、財を生む研究ではないからな。部隊との契約が支えだ。」
生産性の無い研究者と自負したのは、宇治山家がそうした家だからと言う事だったらしい。惟継は、紅が呪毒に関わらず成功していても、結局生き方は今と同じかも知れないと思った。引きこもりの研究者人生は、紅にとってあるべき姿だったのかも知れない。
なんて話していると、結局分かるのは、とにもかくにも先立つもの、という事だ。特に研究には金がかかる。研究者たちは自らを崇高な身としてお高くとまっているのだろうが、金が無ければ何も出来ぬ事を知らぬ訳でもあるまい。
研究ばかりでなく現実に目を向けろ、と思いつつ惟継は適当に相槌を打った。
「パトロンでもいれば良いのだろうがな。」
「何にもならない研究の価値を解して金を投資する酔狂な者などおるまい。」
「研究のために多少の譲歩をする気はないのか?何か商売になる物を生み出して、それに託けて資金投資をさせれば良かろう。才があるのなら、生きるための知恵を絞れば良かろうものを。」
頑なに研究一徹なんて、不器用どころか頑固で愚かだ。自分で研究費を稼ぐ努力をすれば良いだけだろう。紅と話していると、何だか研究者が総じて怠惰に思えて来た。
惟継の意見に、紅はどうでも良さそうに言った。
「費用を賄えぬ医療術者の中には、個人的な施術を請け負って金を稼ぐ者もある。」
「個人的な?医療行為か?」
「美容だ。」
「びよう…。」
きょとんとした惟継に、紅は憮然とした態度で言った。騒音が耳障りなのだ。
「金持ちの婦人を相手に、美白だのシミ取りだの、美容のための施術を行って稼ぐのだ。もちろん、何の根拠も保証も無い故、トラブルの元だ。だいたいの者が身分を隠して、すぐに逃げられるようにしている。同意書を取って行えば法的には問題なかろうが、それでも殆ど詐欺みたいなものだ。」
「それは…頭が良いのか悪いのか分からんな。」
美容とは、目の付け所はとても良いだろう。女性が美容にかける予算はかなり期待できるので、商売として成立すれば大儲けの予感。だが、地龍の医療術業界にそうした分野があるとは聞かない。適当にそれらしい施術をして、金をせしめてとんずら、としたら詐欺に相違ない。
「まともにやれば儲かるものを。」
「そんな研究をしたい医療術者などいない。美容は医療術者業界では、金に困った詐欺師がやる行為という固定観念がある。進んで奇特な者はいない。それに、美容は『昼』の技術が進んでいる故、わざわざ手を出さずとも良かろう。」
「まあな。」
エステとか美容外科とか、『昼』の美容の発展は目覚ましい。普通にそっちを利用すれば良いのだ。
お高くとまった地龍の医療術者たちは、美容を相当に下に見ているのだ。惟継は、折角の金儲けのネタなのに、と惜しく思った。
「つまらぬ事だ。」
ちゃちなプライドのために、大儲けを逃すとは。惟継は医療術者って馬鹿なんじゃないかなと嘆息した。
美容分野が発展したら、平家がその権利を牛耳って大儲けして、その財で急速な四国復興を遂げる事が出来る。平家が擁するあらゆる分野の発展に投資して、地龍トップ技術を生み出せば、それを元に更に稼げる。北海道から帰ってきた事業家たちを吸収して、更にビッグウェーブを起し、軌道に乗れば平家が地龍イチの財を誇る事が出来る。
大きな夢の第一歩、となりそうな妄想を抱きながらも、目の前にあるのは紅の仏頂面。このおっさん(年下)が美容とは、笑える。
妄想が馬鹿らしくなった惟継は、どうでもよくなって部屋を見回して気持ちを紛らわせた。
「しかし、酷く散らかっているな。使用人の手を厭うならば、少しは自分で片付けたらどうだ。足の踏み場がなくなるぞ。」
「ひと段落したら片付ける。途中で片付けると、返って面倒だ。」
まだ必要な物を片付けると、再び引っ張り出したりして散らかって、元の木阿弥。紅の言う意味も分からなくはないが、限度がある。
惟継は立って、部屋の中を観察した。見ても分からない物ばかりだが。暇つぶしだ。
「紅殿、これは何だ?」
ふと目に留まったのは、部屋の隅にゴミ箱みたいに置かれた木箱。乱雑に放り込まれている物は文に見えるが、未開封だ。
その問いに、紅は一瞥。
「実家からの文だ。処分しろと言ったのだが、そこにまとめて行くのだ。」
「…それはそうだろう。」
主の指示でも、未開封の文を捨てる事は恐ろしかろう。譲歩してゴミ箱的な感じでひとまとめにして行ったのだなと理解して、惟継は中の文を手に取った。
「紅殿が宇治山家と縁を断ってから、もう十四年程経つのではなかったか?今までも文が?」
呪毒に苦しむ紅を理解せず、研究を忌避して絶縁した実家は、家族として薄情だ。家門運営という観点から見れば、危険因子を切り離す事は必要な判断だろうが、それを後で取り戻す事は出来まい。廃嫡にして絶縁した紅に文を送る意味が分からない。
箱の中には大量の文。宇治山家の紋が入っているので、すべて生家からと見える。
「呪毒の件があって以来だ。北辰隊設立後は更に増えたな。」
「世捨て人であった紅殿が、呪毒解決に寄与した事で、一躍有名人となった。功績を認められ、奥州からも平家からも褒賞があり、身分を保証され研究費にも苦労しない立場になったからな。北辰隊設立後は紫微星様の御威光の元、その志にも付加価値が生まれて、立場は更に盤石。終戦への貢献度は計り知れず、平和の立役者となったのは、スターダムだな。宇治山家が、一度切った尻尾に未練を覚えるのは、致し方なき事か。」
「知らん。ただの金の無心だろう。」
ばっさりと言う紅は、忌々しいとばかり。流石に廃嫡にされた恨みがあるようだ。惟継は、そりゃそうかと思った。
「そうだろうな。宇治山家が部隊出仕の契約金をあてにしているとすれば、今更紅殿に接触を図る目的は金か。」
伝統と格式だけでは食っていけまい。だから知恵を絞って商売でもすれば良いのに、と惟継はぶつくさ言いながら手紙を拾っては放って、拾って見ては放った。どれもこれも未開封で、全部が金の無心だとしたら諦めが悪いなと思うばかり。
「ん?この文だけ筆跡が違うな。」
「返事をした事が無い故、おおかた文を出す事も面倒になり、代筆でも頼んだのではないか?」
「金の無心の代筆?随分と厚顔なのだな。医療術の研究費と銘打てば、予算確保は崇高な行為で、無様な金策ではないとでも?医療術者のプライドとは、まこと身勝手なものだな。」
言いながら、惟継は箱の中を漁ったが、同じ筆跡の文はなかった。四年前からの文が溜まっているのを見れば、いつ届いたものかは不明だ。中を見ればあるいは。
「この文を開けてみても?」
「好きにしろ。ついでに全部捨ててくれ。」
人の文を開封する無作法に、少々の呵責を思いつつ、惟継は丁寧に封を切った。
封を開いた時、ふわっと何かの香りがしたが、それが何なのか、香を嗜む惟継にも分からなかった。封筒を持ったまま文を開くと、そこには美しい文字。女性の筆跡だ。
内容を読んで、惟継は驚いた。
「紅殿…、いつの間に結婚を?」
「は?」
「この文は、貴殿の細君からだ。」
「何を言っている?私は結婚した事は無い。妻などいない。」
「だが…。いや、待て。昨年の終戦後、宇治山紅の妻として嫁入りをしたが、紅殿は一度として帰宅する事は無く、これでは妻とも言えぬものであるから、離縁をして欲しいと…書いてある。」
はて?
惟継の疑問の目に、紅は眉を寄せた。
「どうせ金目当てで実家が勝手に婚姻を結んだのだろう。私が廃嫡となり絶縁されたのは、医療術者業界では知れた事。そうとも知らず嫁入りするのだから、業界外の家だろう。よく調べもせず、私に会う事も無く嫁入りしたとは、愚かな事だな。成功者の身分にたかる浅ましい婚姻だ。今更目論見違いだとしても、自業自得だろう。捨て置け。」
「良いのか?書類上とは言え、紅殿の結婚だぞ?」
惟継は耳を疑った。勝手に結婚させられているのに、捨て置け?
「私の生活に影響はない。結婚だろうが離婚だろうが、勝手にやらせておけば良い。」
「…豪気な事だな。」
豪気と言うのが当たっているのか分からないが、流石に怒って良い場面では。惟継は紅の価値観が分からず、肩を竦めた。
「だが、紅殿の承諾も無く結婚とは。書類を偽造したとすれば、詐欺だな。この婚姻は間違いなく無効だろう。」
「勝手に書類を偽造して結婚させたのならば、離婚もそうすればよかろう。煩わしい。」
「離婚は、細君が望んでいる事で、宇治山家は認めていないのだろう。金目当ての婚姻であれば、細君は宇治山家の金蔓だ。手放すはずが無い。細君は宇治山家が取り合わぬ故、紅殿に直談判の文を送りつけて来たのではないか?おそらく、紅殿が結婚を知らぬとは、知らぬのだろう。」
「ますます愚かな事だ。つまらぬ家に嫁いだ運の無さを悔いるしかあるまい。」
絶対に関わらないと言う硬い意思を示す紅は、離婚届を書く気も無い様子。
何だかな、と思った惟継は、文を眺めた。丁寧な文字からは、美しい淑女を想像させる。四十歳を目前にした紅の元に嫁ぐとすれば、同年齢の女性が釣り合うのだろうが、それは完全な行き遅れだ。離婚歴があるのか、訳有りか。もしくは年齢の釣り合いが取れない程に若いのか。
政略結婚で嫁ぐ女性たちは、だいたいが実家の言いなりだ。何も知らずに嫁入りしたものの、夫は不在。事情は不明。どういう待遇で生活しているのか、離婚を切り出すのだから、そう良い暮らしでもあるまい。紅が絶縁した事を知らぬとすれば、知られぬように囲われているとも想像できる。
この美しい文字の淑女は、今どうしているのだろうか。可哀想に…と言う無責任の同情は、惟継らしくない感情だった。
「離縁くらいしてやれば良かろうものを。」
「金蔓を切った責任を問われるのが想像できる。」
ああ…。勝手な婚姻であるから紅が離縁手続きをするのは正当な権利だが、実家は抗議するだろう。金蔓を失った分の補填を要求するのは、紅への金の無心の口実か。
そこまで金に困っていると言うのも、何やら事情がありあそうだが。惟継は想像しながら言った。
「紅殿にこれだけしつこく文を送って来るのだから、宇治山家は銀殿にも同じようにしているのだろうな。」
「奥州に目を付けられては、ひとたまりも無い。銀にはやらないだろ。」
重大隊の小隊長職である銀が幸衡に大切にされているのは分かり切っているのだから、下手な事をして幸衡の逆鱗に触れては、宇治山家は消える。だから標的は紅だけだ。
「なるほどな。こちらで動こうか?」
「いい。捨て置け。」
平家として宇治山家を牽制すれば、もう文など送って来ないし、この結婚詐欺も解消させられる。惟継が対応を申し出ても、紅は否定した。完全な放置は、本当の絶縁だ。実家の話を聞くのも不愉快とばかりに窓の外を見たままの紅の硬い意思に、惟継は感心すらした。
「分かった。何かあれば言ってくれ。いつでも動く用意をしておく…。」
ふと、惟継の語尾が歪んだ気がして、紅が惟継を見た。惟継は文を持ったまま立っていたが、顔色が悪いような。
「…紅殿、この文は不思議な香りが焚き染めてある。何だろうか…。」
ぼうっとした惟継がそう言った時、ふらっとして、そのまま崩れ落ちるようにゆっくりと倒れた。
紅は驚いて、慌てて駆け寄った。惟継の意識は既に無いように見え、呼吸と脈を診ようとした時、手にしていた文に気付いた。何か妙な臭いがする。紅は眉を寄せた。知っている臭いだ。
「何だ、この臭い…。毒か?」
はっとした紅は、慌てて窓を開けた。そして文を袋に入れて口を閉じた。
「惟継殿!惟継殿!」
何度も呼びかける紅の声に、惟継は反応する事はなかった。




